ra ginda

文字数 1,999文字

 辺り一面、マイナス二百七十度の暗黒。ここは命が生きられない世界だ。
 けれど、それは肉体を必要とする場合に限ってのことである。
 彼らは、はじめからここに居た。存在するのに条件など、ふたりには何もない。不便も不都合もない。光すらなくとも、彼らには見たいものが見える。

 ふたりは名をラ・ギンダといった。
「ふふ」
 聖隷(せいれい)ラ・ギンダは実に億年ぶりに声を出して微笑んだ。それを不快に見咎めたのが、邪隷(じゃれい)ラ・ギンダである。
「どうしたラ・ギンダ。なんだそれは?」
「おや、ご覧なさいラ・ギンダ。系統樹が分かれたこの先の種を」
「系統樹? ああ、前にもそんな育成をしていたな(ぬしゃ)は。懲りずにまたやっていたのか」
「ええ、ふたたび二足歩行の種が生まれました。今度の星は豊かですから、すぐに脳が発達することでしょう」
「前の奴らは傑作だった! 脳が肥大しすぎてろくに動かず、結局ゆるゆると死に絶えたんだったな」
 邪隷ラ・ギンダは大袈裟に腹を抱えて笑った。聖隷ラ・ギンダが小さな唇を真一文字に結ぶ。
「残念なことに彼らは怠惰でした。けれど太古にあの星の裏側に生息していた種は、知的好奇心に満ちていました。彼らの方が生き残っていれば、あるいは……」
 聖隷ラ・ギンダは、かつて不運にも環境の変化で滅びた種を想い悲しんだ。
「ふん」
 だが邪隷ラ・ギンダはそう考えてはいなかった。自滅した種は怠惰だったが、無欲でもあった。先に滅びた好奇心旺盛な方の種は、未熟ながらわずかに強欲な性質があるようにみえた。きっと()の星の育成主が清らかで正しい聖隷ラ・ギンダだったため、不運は強欲に降りかかったのだ。
(ぬしゃ)のやり方では、永久に理想は叶うまいよ」
「……。あなたの方法もまた真ではありましょう」
 聖隷ラ・ギンダは邪隷ラ・ギンダの育成する星へ視線を移した。それは成熟しきらない原始の赤い生命が(うごめ)く無秩序な世界であった。
 邪隷ラ・ギンダもまた、自分の星を見た。するとまさにその瞬間、新しい種が偶然にもむくむく生まれようとするところだった。
「ああっ」
 覚えず感嘆の声を漏らした聖隷ラ・ギンダを尻目に、邪隷ラ・ギンダはこの星に手を伸ばした。そして自ら新種の生命を握りつぶしたのだった。
「なんということを!」
「ふっ」
 邪隷ラ・ギンダは嘲るように顔を歪めた。
(ぬしゃ)だって種が滅びるのを黙って見てるではないか」
「あれは淘汰です。より強く環境に適応した種が生き残るための……そういう仕組みにしてあるのですから」
 いつになく厳しい口調で聖隷が責め立てる。邪隷はわざとらしく手を叩いた。
「すばらしいな! だが、なんのために?」
「世界をあるべき姿にするためです。平和で秩序のある……」
 言いかけた言葉を、邪隷はもう許さなかった。邪隷ラ・ギンダの禍々しい左腕が唸る。
「ふんっ」
 (あおぐろ)い指の関節に力が込められると、離れた先にあった聖隷のしなやかな首が締め上げられた。
「あ、あぐうっ」
「すばらしい! すばらしい! その秩序のある世界で淘汰されるべきは、(わしゃ)のような邪隷か?」
「ら……ラ、ギン……」
「否。まことの秩序は主の好きな『正しいもの』を残しはしない。我のように手前勝手に好きにして動くものだけが多く生き残る」
「あ……あああ…っ」
「仕組み、だ――」
 黝い五本の指が、無情にも閉じられた。
「ああああーーっ!」
 肉体のない高貴な聖隷は真空に近い暗黒の世界に散じた。そのとき萌ゆる薄緑の粒子が壊れて最期の光を放ったように見えたのは、対の同胞たる邪隷ひとりにだけであった。
「うん?」
 足元に何か落ちている。千切れて落ちた聖隷の手だ。まだピクピクと動いている。
 拾い上げると、その手には聖隷が育てた星があった。まるで生まれたばかりの系統樹の芽を守るように、そっと握られている。
「ふん」
 邪隷はそれを冷ややかに見つめて、星から腕をむしり取って捨てた。
「聖隷ラ・ギンダよ。(ぬしゃ)とは本当に意が合わぬ」
 邪隷ラ・ギンダは聖隷の残滓(ざんし)に背を向けて、ぷらぷらと歩いてみた。
「さびしい――」
 もちろん、聖隷が居なくなったからではなかった。ラ・ギンダは天を仰いで手を伸ばし、誰にともなく呟いた。
「“我に意をそろえよ”」
 何億光年もの孤独に、すがりつくように呼びかける。
「“君の心が我が心に添うたとき、君の望みをただひとつ叶えよう”」
(誰か、いないか)
 あてもなく吐いた呪詛は真空で失せ、どこへともなく伸ばした手は、ただ暗黒をつかむだけだった。彼は世界に紛れた自分自身の黝い指を、あやうく見失いそうになった。
(誰か)
 天にも暗黒にも応える者はいない。わかりきっていたことだ。
 いつか彼の心を満たせるのは、もはや聖隷ラ・ギンダの残した星だけなのかも知れなかった。
「この星の水は……ずいぶん青いんだな」
 邪隷ラ・ギンダは幼い青い星を掌で転がしてみた。命が動いた。
「ふぅん」

 彼には何もない。だが育てる時間だけは、充分にある。
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