例外者

文字数 1,586文字

 わずかに不安を感じていた。生活はこれですべてが揃っているはずだった。遮光カーテンは俺の生活圏を完璧に限定していたからだ。リズムは一定。このまま滞りなく進行していくと信じられていた。生きるのは簡単なことだった。ループの中にありつづけること。これが人生の全てだ。不足はなかった。欲望は欠乏の母だが、俺はそいつをさっさと始末していた。満たされていた。これでいい。このままこいつを静かに繰り返していれば、俺の人生は成功に終わるはずだった。何も変わりはなかった。異常はどこにも見当たらなかった。左方の壁の染みは、やはり左方の壁の染みのままだ。色も場所も大きさも、俺との関係も、最初からまるで変わらない。俺が左を向けば視野に入り、右を向けば後方に位置する。俺の部屋はそうした対象で埋め尽くされていた。俺が自分を曲げない限り、この生活が俺を裏切るはずはなかった。しかしわずかに不安を感じていた。
 翌月、父が死んだ。最後の家族だった。日に日に父が弱っているのは知っていたし、それは母が死んだ時とまるで同じだった。そして俺は部屋を出た。変にあっさりとした気分だった。新しい人生に希望を抱き始めていた。不安の正体は父の死。俺はそう考えることにした。往々にして起こることだが、現実化した不安は思ったよりもちっぽけだった。不安とはむしろ幸福の予感でさえありうる。思えば、ここまでの俺の生活は、ぐるぐるとゼンマイを回し続ける作業に似ていた。ゼンマイを一巻きするたび、俺は一欠片のエネルギーを蓄えた。つまり俺は働きものだったのだ。だとすれば、俺がたどり着いたここは、折り返し地点だ。父はその目印をよこしてくれたに違いなかった。俺は現実の反転を確信した。あらゆる努力は解放されるためだけにある。この力で俺は何もかもを乗り越えていける。俺はどんと胸を張って廊下を進んだ。前へ、前へ、さらに前へ。何処へでも行ける。すべての動作の内に橙色の生気が満ち満ちていた。俺が踏み出すこの一歩一歩に名前を付けてやりたいほどだった。さあ、玄関の扉に手をかけた。「ガチャ」とドアノブを回し、俺は外界とまた出会う!
 
 巨大———あまりに巨大。それがこの外界に対して俺が抱いた最初の印象だった。認識を諦めなかった俺は立派ではなかっただろうか。なぜなら俺の見た景色は異常なまでに整然としていて、しかしあまりに暴力的だったからだ。この世界は俺がかつて知り得たはずのそれとはまったくの別物だった。俺を取りまく一切の存在が、依然の数十倍のサイズにまで巨大化していた。建物も、雲も、虫けらも、太陽も、そして人間も。例えば、前方を通り過ぎる老婆。その人間の一歩一歩は、特撮の怪獣が地面を踏みしめるかのように大地を震わしていた。電柱はバベルの塔に相違なかった。蛙一匹の存在感は馬一頭のそれに等しかった。空の高さは即座に無限を連想させるほどだった。俺には何が起こっているのかは分からなかった。世界の方が大きくなったのか、それとも俺の方が小さくなったのか、それは決して確かめようがないように思えた。しかしそれも些末な問題だった。いずれにせよ、俺の歴史は錯覚の歴史だったのだ。俺は例外だった。俺の父も母も例外だった。いや、例外と化したのだ。激変の最中にあってなお、しかし世界の比率は完璧に保たれていた。振り返ることを怖れた。辺りの巨大建造物に比べれば、俺の家はきっと子供のおもちゃみたいなものだ。考えていると、俺は後方から吹く風に背中を押され、ごみ屑のようにコロコロと転がって歩道へと躍り出た。不安とはこのことに違いなかった。
 誰もが知っていることだが、世の中には子供用のスニーカーがある。決して親とはぐれないよう、歩くたび「キュッ、キュッ」と音が鳴るスニーカーだ。俺はあれを履いた子供に踏みつぶされた。俺はもちろん、「キュッ」と鳴いて死んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み