第1話

文字数 4,654文字

 そよそよ、と生ぬるい風が、部屋の中を唯一彩るカーテンを揺らす。外から入ってきた風は、教室の中を全く涼しくしてくれない。この教室を冷やしてくれるはずのクーラーは、先日故障した。休みの間に、修理に入るらしい。
 明日から夏休みという長期休暇を目前に控えた生徒達は、見る限りの全員がそわそわと心落ち着かない様子だった。
 つまらない授業を聞き、ノートをとり、問題が並んだテストを解き、そんな日常から離れられるこの休みは、学生にとっては何よりも一大行事である。

 そんな一大行事の前に配られる、大きな試練。

 名前を呼ばれて受け取った、B5サイズで少し堅い紙質の、折り畳み式によって中身を隠された私への評価。所謂、成績表である。私は閉じられている紙を、薄目で出来るだけ遠ざけながらゆっくりと開いて中身を見る。
 中身を一通り流し読みしてから、そっと閉じた。

 アヒルの大行進だ。思わず両手の指と指を絡ませて、その手に額を乗せて顔を伏せた。

 思った以上にヤバイ。私の学校は五段階評価。一は赤点で追試。ていうか、成績表で一があったら留年。なる前に、先生に呼び出しをされて追試を受けさせられて、それが合格だったら二に繰り上げ……と、この学校ではそういう形式になっている。
 それを私はギリギリで回避は出来ている。だが、想像以上に、二という数字が多すぎる。アヒルの大行進は、2という数字を、アヒルと例えてだったのだが、なんにも可愛くない。他人に顔が見えないことをいいことに、歯を食いしばり、眉間に皺を寄せた。
 クラスメイトの悲鳴や歓喜の声が右耳から左耳に通り抜ける中、私はただひたすらに、親への説明をどうするか、言い訳を必死に考えていた。

「えー、明日から夏休みに入るわけだが、お前達も二年生だ。はしゃぎすぎないように気を付けてもらいたい」
 今年で四十代に入ったと言う担任教師が、カンペのように用意していた夏休みの注意事項を読み上げる。そのプリントは我々の手元にも届いているので、先生の話を真剣に聞いている者は、きっとこの教室内では少数派だろう。先生もそれは察していたのか、話を聞けーとは言いつつもあまり気にしていない。

「曙美《あけみ》、夏休みは家に帰る?」
 私の前の席に位置する友人の

が、振り向きながらこそりと聞いて来た。額を手から離して、漸く顔をあげる。少しだけ身を乗り出して、私もこそりと小声で言葉を返す。
「私は帰らないよ」
「マジ? こんな何もないところに残る?」
 しんじらんねー、と言いたげな表情をする友人の表情に小さく苦笑いを浮かべる。

 私達の通うこの学校は、所謂『進学校」と呼ばれている。県内での偏差値はトップで、大学付属という名もあり、県内からは勿論、県外からも進学希望する生徒が多々いる。
 だからこそ、この学校には寮が存在する。私は県内出身ではあるが、立地が最悪なこの学校は、電車でもバスでも通うのが大変なもので、両親の了承も得て寮生活に決めた。
 学校の設備が良いからか、寮の設備も行き届いている。風呂もトイレも各部屋にあるし、半分アパート暮らしに近いだろう。まあ、洗濯機とか食堂とかは共同で使うのだけれど。

 私だって、いつもだったら長期休みは実家に帰ってはいたのだが、今回は別だ。成績表を見せない、隠すため、という幼い子供のようないいわけではない。いや、少しだけ、あるけれど……。
 一番の目的は、自由参加型の学校主催の夏期講習だ。私はそれに参加せねばならないだろう。誰に決められたわけではないが、参加しないといけない。自由参加という名目の、成績不振者の強制勉強会でもある。
「夏期講習に出ようと思ってね」
「なんだ。一緒に遊びたかったのに」
「ごめんなさいね。生憎勉強熱心なもので」
 ぶう、と彼女は口を膨らまし、口を尖らせた。
 ちはるは実家通いのタイプであり、部活にも所属していない彼女は、自由が約束された最後の夏休み、高校二年生の夏休みを思う存分満喫するのだろう。来年はどうせ進学に向けての勉強で、夏休みは休みではなくなるのは目に見えているし。講習に参加する私とは違って、彼女は優秀だから。
「どこか行くの」
「どこ行こうかな~遊園地とか水族館、あ、海は当然行くでしょ?」
「すぐそこも海ですけど」
「違います~! 南国に行くんです~!」
 窓の外を指させば、見えるのは白い泡を数秒ごとに打ちつけてくる真っ青の海。ここ数日は雨も降っていないから、水の濁りも少なく、深い青に染まり、透き通っていて綺麗だ。だが、彼女はここの海ではなく、南国のパステル風味の色合いをしている海に行きたいらしい。
「アンタを連れて行けば、絶対晴れるから持っていこうと思ったのに」
「人を便利な物扱いしないでよ」
 びし、と彼女の額を突いた。

 私は昔から、どうも天気に恵まれやすいタイプだった。行事ごとは絶対に晴れるし、誰かと遊びに行くと、必ずと言っても過言ではないくらい晴れる。楽しみにしていたイベントや行事も晴れる。ということで、親族を筆頭に、友人の間でも、私は晴れ女と呼ばれているのである。
 ただの偶然だとは思うけれど、まあ実際に、雨に当たる確率はほぼ0と言っても良いので、あながち間違いではないのかもしれない。その所為か、予定のある前日でも天気予報にあまり目を向けないようになってしまった。

 ごめんなさいね、と軽く謝ってみれば、彼女は溜息を吐いてから、窓際の方へ目を向けた。
「そうだ。希龍くん。曙美と同中なんでしょ? 誘ってみてよ」
「希龍くん?」
 彼女につられて、名を上げた彼の方へ目を向けた。
 彼も周りの皆と同じ様に、先生の話は聞いてはいない様子だけれど、誰とも喋ることも無く、ただぼうと、青が深まっている空とそれを映す海を眺めていた。

 希龍《きりゅう》雫玖《しずく》くん。
 これが彼の名前だ。さらさらな白金色の髪に、涼やかな目元と合う、透き通るような青い瞳。パッと見るだけで目を引く、浮世離れした様な華のある容姿を持つ同級生だ。

 本人に直接聞いた話ではないが、ハーフなのだという。ハーフ、という言葉でだけで特別感があるような気がするし、納得もしてしまう。実際に英語の成績は常にトップだし。それに劣らず他の教科もトップ争いをしている。天は二物以上も与えるものだ。
 教室の柔くて軽いカーテンが、入ってきた風によってさらさらと揺れて、雫玖くんの傍まで寄ってきた。それが何とも一つの宗教画の様に見えた。彼が、神様の使いだと言われても、どこか納得してしまいそうなほど、彼の顔は整っていたし、纏っている空気は澄んでいた。あぁ、横から見える鼻筋も綺麗なんだな。
 優れた容姿を持ちつつも、私は彼が笑っているところを見たことが無い。彼女が出来た、という話も聞いたことが無い。というか、他人と接しているところを、あまり見たことが無い。
 新年度の度に彼に話しかける女子はいるが、日が経つのと比例するように人が減っていき、結局彼の周りには誰もいない……という状況になってしまう。必要な用事があれば人と話す、それくらいだ。彼の容姿で美化されるが、簡単に言えば、休み時間に本を読んでいるようなタイプ、一人が好きそうなタイプ、と言えば通じるだろうか。
 
 そして、その空と海の見える窓際の席が、彼の雰囲気によく似合っていた。

 そんな彼と私は同じ中学校卒業で、共にここにやってきた。
 だからと言って、彼は自分から話すタイプではないので、あくまで同中、同級生という枠組みから外れない。それが私から彼への印象だ。正直、彼が浮世離れしたような美貌を持っているからこそ、一人で居ても許されている一面もあると思う。私みたいな人間だったら、きっと周りには空気扱いされるか、逆に腫れ物扱いされるかの二択なのだろう。
「誘うなんて無理だよ。私も彼の事よく分からないし」
「確かに、ミステリアスだよね」
「誘うなら自分でやって」
 正直な話、面倒くさいのが本音である。私が勉強しなきゃいけないのに、友人の遊びの為に誘う? 絶対に嫌だ。心が狭いとでも何とでも言うがいい。

「うん、よし。じゃあ誘ってみるわ。ねえどうする? 夏休み明けに私達が付き合ってたら」
「誘って? デートして? 流れで?」
「そうそう。ワンチャンいけるかもしれないじゃん」
「はいはい、勉強になります」
 ひそひそしたやり取りの中、そういえばと、彼に関する噂を一つ思い出した。
「希龍くん、雨男って呼ばれてた時期あったな」
 彼の方を見ながら、ぽつりと呟く。
「マジ? 雨に打たれて濡れちゃった希龍くん見たーい」
「水も滴るって? 欲望を仕舞って」
 彼女の額を、今度は軽く手の平で叩いた。ぺちん、と良い音がした。
 雨男、というのは尾びれの様についている噂程度だが。彼が学校から出ると雨が降り出す。彼が体育の時間はいつも雨が降る。彼が居るクラス行事は大抵雨。そんな噂だ。単に運が悪いのか、彼以外にも所詮雨女雨男と呼ばれるような人が居たんだと思うが。だが、まあ、中学時代のイベント事は、そういう事が何回かあった気がする。
 雨が降ると「おい~希龍~」って揶揄われていた気がする。それでも、彼は全く意に介していなかったが。当時から大人びていた子だった。
 まあ今では同じクラスでいても、行事はあまり雨降らないし。所詮、噂も噂だったのだろう。彼が雨男だと言われていたと知っているのは、私を含め彼と同中だった子と、今話したちはるくらいだろう。
「中学生にありがちな、イケメンに少しでも悪いイメージを持たせようとした、いがみで出たものだったのかも」
「あり得るなあ。まあ、今では強力な晴れ女のアンタが居たから、打ち勝った! みたいな感じかもよ?」
「そういうのある?」
 大体それだったら、中学の時でも打ち勝つでしょ。
 はは、と小さく笑い合って談笑しているうちに、先生の長い話も終わったようだ。

 先生が日直に号令の合図を求めれば、ガタガタと音を立てながらクラスの生徒が続々に立ち上がる。挨拶が終われば夏休み、ということで、生徒は今か今かとそわそわしている。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございましたー!」
 このクラスになって、一番デカいボリュームの挨拶だっただろう。まるでスタートダッシュを決めるように、男子生徒を筆頭に、続々とクラスメイトが教室から飛び出していく。
 先生は律儀に、走るなとか注意をしているけれど、浮かれている学生には寝耳に水だ。誰も聞く耳を持たない。
 残っていた生徒達も友人と少しだべりながら、ゆっくりと教室を後にしていく。先生さようなら、はいさようなら。そんな挨拶を何度か聞いたところで、ちはるも立ち上がり、帰ろうかと促してきた。

「ああ、狐坂《こさか》」
 急に先生に名を呼ばれて、はい? と声を零しながら振り向いた。
「帰る前に、先生の準備室に来なさい」
 げえ、という声は我慢して喉に仕舞った。ちはるからは、ドンマイと笑われながら肩ポンをされ、彼女は一目散に希龍くんの方へ向かって行った。裏切りだ。夏休みの土産、買ってこなければ絶対に許さない。
 先生が教室を出た所で、机の上に置いておいた鞄に手を乗せながら、膝を曲げてしゃがみ込み、深い溜息を吐く。
 言われる内容は、もう分かり切っていた。
 再度深い溜息を吐いて、鞄を手に取って、教室を後にする。
 チラリと見えた窓際の席には、ちはると話をしながらも未だに窓の向こうの海を眺めている、希龍くんの姿があった。
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