第1話

文字数 1,999文字

白いデスクが三十は並ぶオフィスで、ひとりきりの残業。節約のため電灯は頭上にしかついておらず、エアコンも使えない。
二月の夜は寒い。振り返るとペンギンでもいそうなくらいに。
眠くて頭が働かない。もう残業しても無駄だと思う。飲みかけの缶コーヒーを手に取ると、傾けすぎた缶から中身をこぼしてしまった。
茶色の液体はデスクの上でじわりと広がり、ほどなく動きを止める。コーヒー溜まりは拳ほどのサイズだった。
ため息をついて缶を置く。底にも液体がついているだろうが、とりあえずデスクを拭かねば。
昼買った弁当についてきたお手拭きをカバンから探し出す。そして目をやった液体が、──ペンギンに見えた。
コーヒー溜まりはタマゴ形。下方の真ん中あたりは、そこだけデスクが撥水したかのように丸く白い。タマゴ型の左右からは短い羽が生えている。一度ペンギンだと認識すれば、もうペンギンにしか見えなかった。
本当にペンギンが現れたじゃないかと、すっかり集中力をなくした俺はぼうっとそれを見つめる。これを拭き取ったらもう帰るか。
するとペンギンが羽をはばたかせた。まさかと思い凝視する。しかしもうなにも起こらないので、目を逸らしてみた。
目が痛い、眼精疲労だ。そしてまたデスクへ視線をやると、ペンギンは首を傾げていた。そうだよな、ペンギンは眼精疲労とは無縁だよな。
このペンギンは動いている、そうとしか考えられなくなった。じっと見ていると、ペンギンは羽をバタバタと動かし、全身で伸び縮みを始めた。忙しない動きは、お手拭きをしまってくれと言っているように思える。自分がペンギンであることを、もう隠さなくなったようだ。
こいつに良くしてやれば、かわりに残業を片づけてくれるかもしれないと閃く。童話に出てくる小人や妖精の類はよく、命を助けてやった礼にとそうしたことをしてくれる。けれどもペンギンは相変わらず、羽ばたいたり伸びたり縮んだりするだけだった。しかも動くたび液体がふるふると震えて形を崩しそうになるのでひやひやする。
役に立ちそうにはない。そうだな、じゃあ愚痴でも聞いてくれよ。そう言うとペンギンは首を横に傾げた。イエスの意味だと思いたかったが、傾げた方向が横だから、眼精疲労の件と同じくわからないのかもしれない。
俺は残業を再開した。さまざまな愚痴を吐きつつ、カタカタとキーボードを叩く。聞いているか、と見やるたびペンギンはなにかしらの反応を見せた。伸びたり縮んだり羽ばたいたり傾いたり、リアクションをとっていた。
やがて残業は片付いた。ペンギンは、はばたきながら数回跳ねた。祝っているのかもしれない。だがそういえば、こいつを拭いてしまわねば俺の残業は終わらないのだった。ペンギンだと思い込んですっかり忘れていたが、机にコーヒーをこぼしたまま退勤というわけにはいかない。
俺はペンギンに話しかけた。気晴らしになったよ、結構感謝している。ずっとそこにいてくれてもいいんだが、おまえがコーヒーである以上、俺はおまえを拭きとってしまわないといけないんだ。
ペンギンはぶるぶるっと身体を震わせた。水滴を払うあの仕草だ。うちの実家の犬もよくやる。あれをされるとこちらは水浸しだ。とっさに腕で顔を覆ってしまった。そして濡れなかった腕を顔から離すと、ペンギンはいなくなっていた。デスクは白く、触ると乾いている。
眠気が見せた夢だったのか。置いてある缶コーヒーを持ち上げると、デスクには茶色の輪ができていた。
こぼした液体がなにかの形に見えることはままあるだろう。それでもそれが動いたのは、俺に念力があるからではないか。そう考えスプーンを持ってみたが曲がらない、トランプの束から望んだ一枚を引き当てることもできない。こっそりデスクにペットボトルの水を、思い切ってコーヒーを、あのときのように垂らしてもみた。だがペンギンはもう現れなかった。
疲れた頭が見せた幻だったのだろう、そう結論づけるほかなかった。あれから残業時には常に誰かが一緒だったが、ペンギンが愚痴にリアクションをとってくれるほうが正直楽しかった。ただ、ふたり以上の残業だとエアコンを入れられるので、快適に過ごせはする。
季節は変わり真夏日の夜。
今日は上司含め数名が残業していた。おかげでオフィスは冷房でキンキンに冷えており、俺は半ば凍えていた。缶コーヒーを持ち上げた途端、指の皮膚が剥げる危機感で手を離そうとした俺は、またコーヒーをデスクにこぼしてしまった。デスクの上、茶色の液体がじわじわと広がる。
──ペンギンがいそうな寒さのなか、本当にまたペンギンが現れた。
あのときのペンギンだろうか。久しぶり、と声をかけるとペンギンは首を横に傾げた。二月を思うとイエスの意のような気もするが、同一ペンギンなのか判断が難しい。それでもウォーミングアップのように伸び縮みしているペンギンは、いまからの残業につきあってくれそうだった。
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