バラエティにイジメられる ー「バラエティ・ハラスメント」ー

文字数 5,398文字

●イジメを「なくす」のではなく「防ぐ」ことに注力すべき 
『イジメ、ダメぜったい』といえば何かの標語になりそうだが、この思いは多くの方に共有しうる人間の良心ではないかと信じている。そしてそれが声高に叫ばれること自体、イジメをなくすことの困難さを物語っているように思う。
 そこで、私の造語で大変恐縮ではあるが「バラエティ・ハラスメント」という概念をみなさんに知ってもらいたい。なぜなら、それを社会が共有することによって、新たなイジメの発生を減らせると考えているからである。
 たしかにイジメをなくすことは困難だ。学校であれ職場であれ、特に起きてしまったイジメをなくすことは非常に困難である。いったんイジメが発生してしまうと、イジメの加害者・被害者が互いに話し合って解決することは難しい。それまで互いがやったこと・されたことを完全に帳消しにして「ノーサイド」となることは想像しがたい。そんなことがすんなりとできる場合は、そもそも起きた原因が大した問題ではなかったときか、あるいは余程の補償を当事者双方が得られたときに限るだろう。そして解決できた時点で、それは私たちが通常想定するイジメといえるほどの程度を超えない、ただの小競り合いでしかなかったという結論になる。イジメはラグビーのように敵味方が試合終了後に互いを称えあう「ノーサイド」とはできないからこそ「イジメ」なのであり、根深く人の心に傷を残すのである。スポーツのルールのように、現実の法律はあらゆる些細な場面をも考慮に入れて私たちを縛ることはない。だから、現実社会では法律問題とはされない程度の大小さまざまな小競り合いがあちこちで発生するし、イジメもその中の一つとして見過ごされがちなのだろう。
 だが、このように解決困難なイジメ問題ではあるが、これから発生するかもしれないイジメを予防することはできるのではないだろうか。起きてしまっているイジメの発端にさかのぼって経緯を紐解き、端緒を探りあててその予防策を講じて、新たな同種のイジメの発生を防ぐことはできるのではないだろうか。起きてしまったイジメを解決する努力を続けるのと同じくらい、もしくはそれ以上に、私たちはこれから起きうるかもしれないイジメを予防することが大切だと考えている。いわば社会を挙げての「いじめ予防学」の旗揚げである。
 そして「バラエティ・ハラスメント」という言葉が世に広まることで、一部の新たなイジメの発生を抑えることができると私は考えている。武運拙く防げたのは一部に過ぎなかったとしても本望といえよう。それを苦にして命を落とす人がいることを考えれば、である。もちろん「バラエティ・ハラスメント」も「いじめ予防学」も私の造語である。大学教授でもない私が学問の立ち上げなど口にすること自体、身の程知らずの極みであることは重々承知である。ただ世の役に立つであろうと思う一心でつらつら述べる様子を温かく見守ってもらえれば幸いである。

●「バラエティ・ハラスメント」とは何か
 では「バラエティ・ハラスメント」とは何か。その説明をする前にまず「バラエティ番組とは何か」を整理したい。
 バラエティ番組にはルールがある。そこに出演するものは一定のキャラ付けがなされ、出演者たちは各自のキャラ設定に則って番組に参加するのである。だから、ダウンタウン浜田はゴリラ顔をいじられ、サンシャイン池崎は無意味に叫び、ダンディ坂野はひたすらスベるのである。
 またバラエティ番組は優しさで成り立っている。イジり役とイジられ役に分けられ、イジり役は自然なトークの流れでフリをすることでイジられ役にスポットが当たるようにする。そうすることで、彼らに持ちネタ披露の機会を与え次の番組出演につながるような「爪あと」を残せるようにしてあげる。いわゆる「おいしい」瞬間である。つまり、イジられ役には明確なメリットがあるのだ。バラエティ番組は、そういう出演者同士の優しさがあるからこそ成り立つ世界であるといえよう。
 このことは、バラエティ番組を見ないような家庭で育った人には馴染みがないかもしれない。実は私自身もバラエティ番組というものをほとんど見ることなく育ってきたくちである。うちの家庭はテレビといえばNHK。朝のニュースに始まり、週末は大河ドラマで締める。小学校低学年の時にやっていた大河ドラマ「独眼竜政宗」での政宗役の渡辺謙さんや、政宗の父輝宗役の北大路欣也さんの「輝宗無惨」の回は今でも鮮明に脳裏に焼き付いているくらいだ。
 ところが以前入院をしたことがあり、その時あまりにも暇だったのでテレビばかり見ていた時期があった。その時にそれまで見ることがなかったバラエティ番組を見るようになり、はじめてバラエティ番組には上記のようなルールがあるということを認識した次第である。すると過去の日常生活で思い出される周囲の陽キャ(陽気なキャラクター、明るい人)と思っていた人たちが、実は特別な存在ではなかったことがわかった。「彼らはこの流れがやりたかったのか」と腑に落ちたのである。
 イジることと、イジメることは違うのである。しかしその違いがわからないと「イジリ」が「イジメ」に発展する可能性がある。それこそが私が考える「バラエティ・ハラスメント」である。「バラエティ・ハラスメント」とは、日常生活において一方がバラエティ番組のノリを強制し、それが相手と適切に共有できなかった場合に起きる不協和音のことである。そして、バラエティ番組のノリを共有しきれなかった相手を自分たちとは別グループへと精神的・身体的に隔離していくことである。以下、一つ例を挙げて具体的に説明をする。

●「バラエティ・ハラスメント」とは
<アンジャッシュ児嶋「コジマだよ!」>
 お笑いコンビのアンジャッシュの児嶋氏の持ちネタである。ご存じない方もいらっしゃるだろうから、一応説明をする。番組上で周りの出演者たちが彼の苗字を微妙に言い間違えて、本人がキレ顔でテンポよく「コジマだよっ!」と突っ込み返す。当初は「キジマ」「タジマ」などのわかりやすい間違いから始まり、徐々に「コジマ」とは一文字もかすりもしない苗字を周囲がたたみ込む。彼が必至に訂正をすればするほど滑稽になり、その場の空気が盛り上がっていく流れを作るのである。
 さて、もしこのネタを知らない児嶋くんという名前の学生が現実にいたら、さぞかし彼はクラスで苦労するはずである。バラエティ番組好きのクラスの陽キャたちが、こぞって自分の苗字を呼び間違えてくるのである。こちらが訂正を促しても、いっこうに改めてくれない。改めないどころか「キジマじゃないよ、コジマだよ!」と必死に訂正すればするほど相手の思うつぼ。陽キャたちは流れ通りとなったことで互いに爆笑し合い、その味をしめて何度も繰り返して呼び間違えてくる始末である。流れを知らない陰キャ(陰気なキャラクター、おとなしめな人)の児嶋くんにとってはいい迷惑。だが、そのしつこさに児嶋くんが本気で怒ってしまうと、なぜかその場はおかしな空気となってしまう。しかもその責任はバラエティの流れを知らない児嶋くんが負うことになってしまう。「わかってないやつ」「怒るところじゃないのに」という視線で見られ、一躍KY(空気が読めない)扱いとなってしまう…。
 だが、冷静に考えてみてほしい。果たしてこれは児嶋くんに責任があるのだろうか。答えは明確にノーであろう。なぜなら、そもそもバラエティの流れなどというものは、守ることそれ自体を強制されるような代物ではないからである。かりにクラス全体の話し合いで、クラスの雰囲気を明るくしていくために、1年間みんなでバラエティ番組を欠かさず見て流れを覚える努力をしようなどと決まっていたのなら話は別である。当然、その流れに逆らった児嶋くんがそのクラスの構成員からのけ者にされることは免れ得ないだろう。しかし、現実の学生はそんな決議をするほど暇ではないだろう。バラエティ番組好きの陽キャたちが、その番組を見ていない者を勝手に巻き込み、勝手にのけ者扱いにしていく。これは立派なハラスメントではないだろうか。
 もちろん、これのどこが問題なのかとまだ疑問に思う方もいるだろう。このようなことは日常よくある一種の誤解に過ぎず、殊更に問題視をする必要性があるのだろうか、と。しかしその考えは、そもそもイジメの始まりは問題視すらされ得ない、という現実的な視点が足りていないように思う。なぜならば、何でもないよくあることと聞き流す周囲のその認識こそが、イジメの発展を促す栄養源となっているからである。そもそも、イジメは気づかれることもなく水面下で着々と根を張り、気づいた時には根深くなっていくのものである。発生当初から問題視されるようなものはイジメにはならない。発生のタイミングがわからないからこそ「イジメ」なのである。

●「バラエティ・ハラスメント」が深刻なイジメになるとき
 こうして陰キャの児嶋くんは、知らない内に他のクラスメイトから色眼鏡で見られ、時には侮りの対象となってしまうこともあるだろう。だが実際に命にかかわるような深刻なイジメとまではならないだろう。では「バラエティ・ハラスメント」が原因で自殺者が出てしまうような深刻なイジメに発展するときとはどのようなときか。それは前述の陽キャたちがバラエティのルールや優しさを正確に認識せずに、バラエティの流れだけをクラスで再現しようとしたときだと私は考える。つまり、「イジる」ことと「イジメる」ことの違いがわかっていないときである。
 以前爆笑問題の太田光氏が、イジメを苦にして学生が自殺をしたというニュースに接したときに加害者側に対するメッセージとして「僕たちの世界はテレビだからこそ許されることだとわかってほしい」という趣旨のコメントを苦渋に満ちた表情でしているのを見たことがある。まさに「イジる」と「イジメる」の違いついての理解を求めた言葉であっただろうと思う。
 だが、もしそこにテレビの世界と現実の世界の違いについての踏み込んだ説明があったなら、より効果的なメッセージとなっていただろうと思う。なぜそんな説明が必要か。それは、発達過程にある子どもたちの脳には、テレビも現実も「人がコミュニケーションをとる」という点において共通するものとして認識され、そこに明確な区別を見いだせていないケースが多々あるだろうと考えるからである。
 「イジる」から「優しさ」を引くと「イジメ」になる。誰かを集中的に「イジる」ことが笑いにつながると曲解し、なんの「優しさ」もないまま「イジメ」の時が流れていく。当然イジメられいる側には何のメリットもない。「おいしさ」のかけらもない。
 バラエティ番組を見ない家庭環境に育ったことが、イジメられなければならないほど罪になるのだろうか。当然そこには何の因果関係も存在しない。あきれるほどの無実しかない。しかし、現実ではかけがえのない無実の命がイジメを苦にして失われているのだ。
 よく被害者の自殺後の事情聴取として、加害者側と思われる生徒たちの供述で「イジメている認識はなかった」というものをよく耳にする。以前の私には罪の重さから逃れるための見苦しい言い訳にしか聞こえなかった。しかし、加害者側がバラエティのノリを正確に理解していなかったことで、バラエティのノリが適切に共有できなくなった「バラエティ・ハラスメント」の事例として考えると、あながち嘘の言い逃れとも言い切れないのではないかと思うようになった。こんなつまらないことで、人の命が失われるようなことは決してあってはならない。もし「バラエティ・ハラスメント」という概念がクラスで認識されていたらどうなっていたか。周囲の誰かが略して「それバラハラだよ」と一言声をかけることで失われずに済んだ命があったのではないかと思えてならない。そして、そういう社会が実現することを願ってやまない。

●今私たちが認識すべきこと
 テレビ放送が本格的に開始されたのは1953年。つまり、まだ約70年しか立っていない。自分の子どもの頃はこのメディアが与える影響を大人たちがよく議論していたと思う。多くは「テレビばかり見ているとバカになる」というものだったと記憶している。しかし具体的にどのような影響を与えるのかの明確、かつ統一的な結論を得ないままインターネットの時代が到来した。今やテレビもネットにそのシェアを奪われつつあるのが現状だ。
 しかし、シェアが減りつつあるとはいえ、今私たちが注目し、再認識しなければならないことは、テレビにしろネットの動画にしろ、多くの人々が短時間で、かつ同時期に、そしていっせいに見終わるメディアというものの与える影響を冷静に見つめることだろう。つまり、それらは一瞬にして、そして広範囲に大小さまざまなマジョリティを形成させ、時としてそこがバラハラの温床となりうる可能性があるということだ。繰り返しになるが、イジメは水面下で進行するため対処できず、対処できなかったから表面化するのである。そして一度表面化したイジメは是正困難となり深く根を張る。肝心なことは、イジメを予防するというアンテナをみんなで張り続けることだ。




 
 
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