第3話
文字数 2,460文字
それは私が小学六年生、朱実ちゃんが三年生の時のことでした。
学校から帰り、塾へ行く準備をしていた私に、その日は珍しく仕事から戻っていた母が、今日は塾を休むように言ったのです。
「どうして?」
「お通夜に行くから」
「誰の?」
「朱実ちゃんのお父さんが、亡くなったんだって。服を着替えて、おばあちゃんたちと一緒に、桃太郎も連れてお寺に行ってね」
「お母さんは?」
「朱実ちゃんのクラスは全員で集まることになって、お母さんとゆりは別に行くから」
「朱実ちゃんのお父さんは、どうして? 病気? 事故?」
「子供が余計なことは知らなくていいの!」
いつものように、突然感情的な口調になった母に、私もいつも通りそれ以上は聞かず、指示された通り、自分と弟の着替えを済ませると、祖父母たちと一緒にお寺に向かいました。
いつもはひっそりと静まり返っている夜のお寺は、たくさんの御霊燈で照らされ、そこに集まった大勢の人たちを見て、まだ二年生の桃太郎が、不思議そうな顔で言いました。
「お祭りのときみたいに、人がたくさんいるね」
「そうだね。でも、お祭りじゃなくて、これはとても悲しいお式だから、おうちに帰るまで静かにしてようね」
「わかった」
「迷子にならないように、お姉ちゃんと手を繋いでいよう」
「うん」
私は弟の手を繋ぎ、祖父母と一緒に同じ町内の人たちと合流し、読経が流れる中、お焼香の列に並びました。
おそらく生まれて初めての体験であろう桃太郎も、日常とは違う雰囲気に、私の手を握ったまま厳かに列に並び、祖母から簡単にお焼香のレクチャーを受け、見様見真似でお焼香をしています。
見ると、親族席には定食屋のご家族が並び、皆泣いている様子でした。中でも、朱実ちゃんが顔をぐちゃぐちゃにして、声を出して泣く姿が、参列者の涙を誘います。
祭壇に掲げられた写真の男性の顔は、朱実ちゃんとよく似ていて、おばあちゃんにも似ているその人が、朱実ちゃんのお父さん。
普段はトラックで遠くへ行っていて、休日はずっと自宅で寝ていると朱実ちゃんが話しているのを聞いたことがあり、私はその遺影が朱実ちゃんパパとの初対面でした。
広いお寺の境内には、お仕事関係や学校関係など、たくさんの人で溢れ、祖父母はご近所の皆さんにご挨拶をして行くから、先に戻るようにと言われ、母と妹を探してみましたが、それらしい団体はあったものの、二人の姿を見つけることは出来ず。
仕方なく、弟を連れて自宅に戻ろうと参道を歩き始めてすぐ、茂みの奥で話している数人の主婦たちの会話が聞こえて来たのです。
「…一緒に女の人が乗ってて、ご主人だけが亡くなったんですってよ」
「愛人だったんでしょ、その人?」
「そのこと、お嫁さん知ってたの?」
「もし知ってても、あのお姑さんの手前、何も言えないでしょうに」
「散々お嫁さん蔑ろにして、自分は好き放題やってた罰が当たったのかもね」
六年生の私には、彼女たちの話している内容は概ね理解出来ましたが、二年生の桃太郎にはまだ何のことだか分からず、耳で拾った単語をかいつまんで私に訊いてきました。
「ねえ、ガイジンの女の人って誰? 何の罰が当たったの? 茂くんのおじさん、罰が当たったから死んじゃったの?」
状況も、大人の事情も、空気すらも読めない幼い子供の言葉にバツが悪くなったのか、彼女たちは蜘蛛の子を散らすように、その場から立ち去りました。
不安そうな顔をして、私からの回答を待っている桃太郎。低学年の子供にとって、死はまだ漠然とし過ぎてよく分からないだけに、得体の知れない恐怖を抱き、しかも、お通夜のお寺という場所では、余計にセンシティブにもなるというもの。
スキャンダルもスピリチュアルも、何が真実かはこっちが聞きたいくらいでしたが、あえてとぼけた顔で、
「そんな非科学的なこと、あるわけないじゃない」
「でも、おばさんの声の人たち、そう言ってたよねぇ?」
「きっと、おじさんとは全然関係ないお話をしてたんじゃないかな?」
「そういうふうに聞こえたんだけどな?」
「桃太郎の勘違いだと思うよ」
「そうかな~?」
「そうだよ」
幼い弟には適当に誤魔化したものの、私自身、さっきの主婦たちの会話が気になっていました。
とはいえ、大人の人に訊くわけにも行かず、翌日モヤモヤしながら登校すると、学校中がその話題で持ちきりになっていたのです。とりわけ高学年の女子児童の間では、ワイドショーさながらのスクープ合戦かというほどの過熱ぶり。
いろんな噂が飛び交い、真偽のほどは不明ですが、有力な部分を纏めるとこうです。
長距離トラックの運転手をしていた朱実ちゃんの父親には、妻以外に愛人がいたそうで、遠方で泊りがけの際には、家族を家に残し、何食わぬ顔でトラックに愛人を同乗させてのプチ旅行状態だったようです。
もちろん、そのことは家族には秘密でしたが、おばあちゃんだけは知っていました。
元々、今の結婚に反対だったおばあちゃんとしては、朱実ちゃんママを追い出し、愛人との再婚を希望していたものの、愛人は定食屋の嫁になるつもりなどさらさらなく、ましてやあの姑が牛耳るお店で働く気など皆無。
仕方なく、家でもお店でもよく働き、よく気が付き、お客さんの評判も良く、そのうえストレスの捌け口にもなる無料の労働力を失うのは痛いと考え、現状を黙認していたのです。
何も知らなかった朱実ちゃんママは、自分は嫁いだ身なのだからと義両親を立て、理不尽なことも夫や子供たちのためと、ずっと我慢してきました。
朝から夜遅くまでお店に出て、合間や仕事が終わった後に、家族全員の食事の支度や掃除、洗濯などの家事一切、子供たちの学校関係、ご近所関係のこともやり、いつ寝ているのかというくらい、来る日も来る日も働き続けていたのです。
そんな状態でしたから、夫が外で何をしているのか知る由もなく、まさかこんな形で裏切りが発覚するとは、夢にも思っていなかったでしょう。
そして、この事件をきっかけに、ファミリーは崩壊することとなるのです。
学校から帰り、塾へ行く準備をしていた私に、その日は珍しく仕事から戻っていた母が、今日は塾を休むように言ったのです。
「どうして?」
「お通夜に行くから」
「誰の?」
「朱実ちゃんのお父さんが、亡くなったんだって。服を着替えて、おばあちゃんたちと一緒に、桃太郎も連れてお寺に行ってね」
「お母さんは?」
「朱実ちゃんのクラスは全員で集まることになって、お母さんとゆりは別に行くから」
「朱実ちゃんのお父さんは、どうして? 病気? 事故?」
「子供が余計なことは知らなくていいの!」
いつものように、突然感情的な口調になった母に、私もいつも通りそれ以上は聞かず、指示された通り、自分と弟の着替えを済ませると、祖父母たちと一緒にお寺に向かいました。
いつもはひっそりと静まり返っている夜のお寺は、たくさんの御霊燈で照らされ、そこに集まった大勢の人たちを見て、まだ二年生の桃太郎が、不思議そうな顔で言いました。
「お祭りのときみたいに、人がたくさんいるね」
「そうだね。でも、お祭りじゃなくて、これはとても悲しいお式だから、おうちに帰るまで静かにしてようね」
「わかった」
「迷子にならないように、お姉ちゃんと手を繋いでいよう」
「うん」
私は弟の手を繋ぎ、祖父母と一緒に同じ町内の人たちと合流し、読経が流れる中、お焼香の列に並びました。
おそらく生まれて初めての体験であろう桃太郎も、日常とは違う雰囲気に、私の手を握ったまま厳かに列に並び、祖母から簡単にお焼香のレクチャーを受け、見様見真似でお焼香をしています。
見ると、親族席には定食屋のご家族が並び、皆泣いている様子でした。中でも、朱実ちゃんが顔をぐちゃぐちゃにして、声を出して泣く姿が、参列者の涙を誘います。
祭壇に掲げられた写真の男性の顔は、朱実ちゃんとよく似ていて、おばあちゃんにも似ているその人が、朱実ちゃんのお父さん。
普段はトラックで遠くへ行っていて、休日はずっと自宅で寝ていると朱実ちゃんが話しているのを聞いたことがあり、私はその遺影が朱実ちゃんパパとの初対面でした。
広いお寺の境内には、お仕事関係や学校関係など、たくさんの人で溢れ、祖父母はご近所の皆さんにご挨拶をして行くから、先に戻るようにと言われ、母と妹を探してみましたが、それらしい団体はあったものの、二人の姿を見つけることは出来ず。
仕方なく、弟を連れて自宅に戻ろうと参道を歩き始めてすぐ、茂みの奥で話している数人の主婦たちの会話が聞こえて来たのです。
「…一緒に女の人が乗ってて、ご主人だけが亡くなったんですってよ」
「愛人だったんでしょ、その人?」
「そのこと、お嫁さん知ってたの?」
「もし知ってても、あのお姑さんの手前、何も言えないでしょうに」
「散々お嫁さん蔑ろにして、自分は好き放題やってた罰が当たったのかもね」
六年生の私には、彼女たちの話している内容は概ね理解出来ましたが、二年生の桃太郎にはまだ何のことだか分からず、耳で拾った単語をかいつまんで私に訊いてきました。
「ねえ、ガイジンの女の人って誰? 何の罰が当たったの? 茂くんのおじさん、罰が当たったから死んじゃったの?」
状況も、大人の事情も、空気すらも読めない幼い子供の言葉にバツが悪くなったのか、彼女たちは蜘蛛の子を散らすように、その場から立ち去りました。
不安そうな顔をして、私からの回答を待っている桃太郎。低学年の子供にとって、死はまだ漠然とし過ぎてよく分からないだけに、得体の知れない恐怖を抱き、しかも、お通夜のお寺という場所では、余計にセンシティブにもなるというもの。
スキャンダルもスピリチュアルも、何が真実かはこっちが聞きたいくらいでしたが、あえてとぼけた顔で、
「そんな非科学的なこと、あるわけないじゃない」
「でも、おばさんの声の人たち、そう言ってたよねぇ?」
「きっと、おじさんとは全然関係ないお話をしてたんじゃないかな?」
「そういうふうに聞こえたんだけどな?」
「桃太郎の勘違いだと思うよ」
「そうかな~?」
「そうだよ」
幼い弟には適当に誤魔化したものの、私自身、さっきの主婦たちの会話が気になっていました。
とはいえ、大人の人に訊くわけにも行かず、翌日モヤモヤしながら登校すると、学校中がその話題で持ちきりになっていたのです。とりわけ高学年の女子児童の間では、ワイドショーさながらのスクープ合戦かというほどの過熱ぶり。
いろんな噂が飛び交い、真偽のほどは不明ですが、有力な部分を纏めるとこうです。
長距離トラックの運転手をしていた朱実ちゃんの父親には、妻以外に愛人がいたそうで、遠方で泊りがけの際には、家族を家に残し、何食わぬ顔でトラックに愛人を同乗させてのプチ旅行状態だったようです。
もちろん、そのことは家族には秘密でしたが、おばあちゃんだけは知っていました。
元々、今の結婚に反対だったおばあちゃんとしては、朱実ちゃんママを追い出し、愛人との再婚を希望していたものの、愛人は定食屋の嫁になるつもりなどさらさらなく、ましてやあの姑が牛耳るお店で働く気など皆無。
仕方なく、家でもお店でもよく働き、よく気が付き、お客さんの評判も良く、そのうえストレスの捌け口にもなる無料の労働力を失うのは痛いと考え、現状を黙認していたのです。
何も知らなかった朱実ちゃんママは、自分は嫁いだ身なのだからと義両親を立て、理不尽なことも夫や子供たちのためと、ずっと我慢してきました。
朝から夜遅くまでお店に出て、合間や仕事が終わった後に、家族全員の食事の支度や掃除、洗濯などの家事一切、子供たちの学校関係、ご近所関係のこともやり、いつ寝ているのかというくらい、来る日も来る日も働き続けていたのです。
そんな状態でしたから、夫が外で何をしているのか知る由もなく、まさかこんな形で裏切りが発覚するとは、夢にも思っていなかったでしょう。
そして、この事件をきっかけに、ファミリーは崩壊することとなるのです。