第2話「階段を探してるとエレベーターがあることに気づかない」の話

文字数 2,047文字

「ここに来てよかった。おいしいものもいっぱい出てくるし、お話もとてもおもしろいです」
 デンマークのコペンハーゲンにあるアートコレクターさんの自宅に遊びに来ていた。小さなアート作品がいっぱい飾られている部屋で、老人の話に聞き入っていた。チーズやピクルスをつまみながら、私は大好きなジンジャーエールを飲む。

「聞いている話はとても分かりやすいんですが、あなたの経験からきてることなんですか?」
「もちろん。私は悩むことが多くてね。私の考えの多くは、アーティストたちから学んだことだよ」
「モデルになった人がいるんですね」
 老人はうなずいて、ワインを口にする。
「アーティストたちの自由さや発想がうらやましくてね。ふだんから、彼らみたいに考えられるようになりたくて、アーティストの本をたくさん読んだよ。インターネットを使って調べもした」
「印象に残ってるアーティストっていますか?」
「いっぱい。ああそうだ。ヒロシ・スギモトの考え方はしばらくメモ帳に書き留めてたよ」
「スギモト? 写真家のですか?」
 老人が言っているのは、日本人写真家の杉本博司さんのことだった。私も直島で海景と呼ばれるシリーズの作品を見たことがある。雲一つない空と穏やかな海が画面に半分ずつ写っている写真シリーズで、永遠に変わらないことの象徴だと聞いたことがあった。

「自分がどうなりたいかを、君は言ってくれただろう。十分な広さのアトリエ、いつも創作していること、コーヒーの香りと広いキッチン」
「はい」
「それを叶えるためには、どういうステップを踏めばいいと思う?」
「うーん。普通なら、作品をどこかに応募して、なんかの賞を獲るとかして、だんだん名前が知られていって、作品がいつも売れるようになって、オーダーをもらえるようになって、信頼がたまって依頼がくるとか、かなぁ」
「そうだよね。普通はそう思う。一つずつ実績を積み上げてって」
「はい。私もけっこうそれを意識してたかも。ちゃんと実績を積み上げようって」
「無名のスギモトが最初にやったことは、ニューヨークのMoMAに売り込むことだったと聞いているよ」
「ええっ」
「そしてMoMAにコレクションされた」
「ええー、ほんとですか、それ」
「日本語のほうが情報はあるんじゃないかな。いくらだったかは知らない。普通は階段を探してしまうだろう。一歩一歩、着実に登っていこうって。でもスギモトはトップから下がっていこうって考えたみたいなんだ。レンタルギャラリーから始めて、ちょっとずついいギャラリーを目指していくわけじゃなくて、一番有名なところから作品を見てもらおうとした」
「うわー、なんかその考え方だけでもう、普通と違う気がしますね」
「そうだよね。僕もそう思った。まったく逆転の発想だよ。そういう考えができたからこそ、彼は世界トップレベルにまで上り詰めたのかもしれない」
 海景は二〇〇八年のオークションで一億円を超える価格で落札されたはずだ。写真で一億を超える作品なんて、この世にほとんどないだろう。

「自分には無理だなぁ。すごい逆転の発想」
「でも、彼が実在すると分かったら、自分の発想だって変わると思わないか?」
「そうですね。自分専用のアトリエ住居を手に入れたいとして、有名人がいっぱい部屋あるからあげるよって言ってくれるとか!」
「ははは、それは逆転じゃないね」
「逆転じゃない? 自分で稼いで家を買うほうが階段を上ってる感じがしません?」
「違う違う、逆転っていうのは、楽をする考え方じゃないよ。それは早くうまくいくにはどうしたらいいかっていう考え方じゃないか? 早くうまくいきたいっていう考えは、多くの人が考えることだから、全然逆転してないと思うよ」
「ええ、そうなんですか。でもそれなら、どうやったら自宅アトリエまで辿り着けるだろう」
「歩いてたらアトリエが落ちてて、拾うことになるかもしれない」
「いや、落ちてないでしょう」
 ピックアップするかもっていう老人の発想に、私は思わずツッコミを入れる。
「モデルルームに受かるかもしれない。管理人を頼まれるかもしれない。後継者がいない家をもらうことになるかもしれない。作品をここでつくってくれと頼まれるかもしれない。理由なくいきなりもらうかもしれない。作品を三十年分買いたいって人が現れるかもしれないし、宝くじに当たるかもしれない。夫が十人くらいいっぺんにできるかもしれないし、子どもがプレゼントしてくれるかもしれない」
「宇宙人が宇宙船を一つ分けてくれるかも!」
「ははは、そうだよ」
 老人はワインを飲み干して笑う。

「階段っていうのは、自分がすでに思いつくルートだ。それを上れば確実に上がっていける。でも、周りを見渡しながら階段を上っていれば、エレベーターが見えた時にすぐ飛び乗れるよ。それは飛行機かもしれないし、宇宙船かもしれない。
 だからいつも、可能性を受け入れる気持ちでいるといい」
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