第1話

文字数 32,925文字

第一章

 煙は出ているだろうか。
 彰はふとそう思い、待ち時間の間に外に出てみたけれど、少し前から降り出した雨はゲリラ豪雨なみの土砂降りになっていた。
 傘の下から目を細めて見上げてみても、煙突の先すらよく見えない。
 ──古い映画や漫画なんかでは、こういう時に、煙を見て「魂が天に昇っていくんだな」なんて主人公が呟いてたりしたよなあ。
 今もあんな風に煙が出るものなのだろうか。
 こんなに激しく降っていては、昇るどころか、押し戻されてくるんじゃないか。
 そう思った瞬間、足が勝手に前に出ていた。
 手からするり、と傘の柄が離れて、額から肩から指の先から、一瞬で全身が濡れそぼった。喪服とネクタイの黒が、いっそう深く濃く変わる。
 見上げると雨の強さに目も開けられず、鼻筋から唇の先にどんどん雨がつたった。
 降りてくればいい、頭の中で、そう強く叫んだ。
 天になんか昇らなくていい。ここに、地上に、降りてきて、こうやって自分の全身に染み込んで、そのままずっと、一緒にいればいい。
「──皐月」
 うめくように口の奥でその名を呼ぶと、後ろから「御堂様!」と高い声が飛んで、ぐっと腕を引き戻された。
「風邪をひかれてしまいますよ。中へお戻りください」
 スタッフの女性がそう言いながら彰の手の中に傘を押し込んで、ぐいぐいと背中を押して玄関へと連れ戻す。
「今、タオルを持ってきますから、どうかこちらでこのままお待ちください」
 そう言って小走りに去っていく背中を、彰はぼんやりと見送った。風邪をひこうが手や足がもげようが、どうだっていいのに。自分の体のことなんて、もうどうだっていい。
 彼女がいないのだから。
 彼女がいない世界で自分の体がどうなろうが、そんなことはもうどうだっていいのだ。
 冷房の風にひんやりと冷えた雫がぽたぽたと落ちる体に、頰の上だけつうっと、熱い水がつたった。


 忌引の休みは十日間だった。
 やらなければならない行事や手続きは山のようにあり、皐月の両親がその多くを手伝ってくれたにもかかわらず、すべてにどうにか片がついたのは休みも終わりの頃だった。
 成程、こういうことに忙殺されていると気持ちがそっちに持っていかれてかえって楽なのかもしれない。
 合理的にできているものだ、仕事復帰を明日に控えて、彰はそんな風に考えた。役所や銀行での堅苦しい手続きで、何だか気持ちまで四角四面に仕上がってしまったようだ。
 夜も更けたリビングで、彼はテーブルの上に置かれた携帯端末をふと見やった。
 ──御堂皐月さんのご家族でいらっしゃいますか? 気を落ち着けて聞いてください。皐月さんが事故に遭われて、病院に搬送されました。
 早口で一気に言われたその三つのフレーズだけを、今もくっきりとよく覚えている。
 それから後は、記憶が曖昧だ。
 気がつくと病院の廊下の長椅子に座り込んでいて、目の前の部屋の中から女性が泣き叫ぶ声がした。あれは、皐月の母親の声。
 ふらりと立ち上がって部屋に入ると、ベッドにすがりついて泣いている母親の背中を、父親がなだめるように撫でていた。その頰にも、幾筋も涙がつたっている。
 彰は入り口に立ち尽くして、その光景をどこか他人事のように眺めた。
 ベッドに横たわっている皐月の顔は、紙のように白かった。
 すべすべでしっとりしていて本当に綺麗だ、そう思いながら何度も撫でた頰だった。
 言葉も涙も、何一つ出なかった。
 泣いたのは、ただ一度だけ。火葬場で雨に濡れた、あの一度だけだ。
 あれからずっとばたばたとしていて、落ち着いて何かを振り返る、なんてこともできなかった。
 耳にいつもかけている端末のリモコン──全体的にはおたまじゃくしのような形で、しっぽの部分を上に引っかけ、頭の部分を耳の穴に入れて装着する──のつるの部分を指で撫でると、テーブルの上の端末が起動する。
 ふた昔前は「携帯電話」、略して「ケータイ」と呼ばれ、その内に「スマートフォン」へと進化したそれは、ネット回線での無料通話が当たり前となったことに加え、部屋の家電の操作や他の日常的な機能の比重が遥かに大きくなり、今ではその呼び名は一周回って「携帯端末」、略して「携端」と呼ばれるようになっていた。
 大きさは様々だが、一番人気は開くと大人の両手くらいのサイズのもので、携帯時には小さく畳むことができる。リモコンは耳かけタイプが主流だが、時計やブレスレット、ネックレス型のものもあり、皐月は学生の頃からブレスレットタイプを愛用していた。
 ホーム画面の中央に、大量の未読メールの通知が点滅している。
 爪の先で軽くリモコンの丸い頭を叩くと合成音がメールを読み始め、彰は体の力を抜いて目を閉じた。音は聞こえてくるけれど、内容は全く頭に入ってこない。
 街で買い物をしていた皐月は、自動運転装置や安全システムを違法に改造した、無免許の飲酒運転の車に突っ込まれて命を落とした。
 昔からどこかで何度も聞いたような、ありふれた事故だ。
 運転手と同乗していた友人の男は、二人とも噓のように軽いかすり傷で済んだそうだ。
 事故の後、皐月が息を引き取って、その日の夜に彰の元に警察を通じて連絡が入った。
 その事故では子供を含む四人が亡くなり二人が重軽傷となったのだが、遺族の一人から、被害者の会を結成して運転手を相手に損害賠償請求をしましょう、という誘いが来たのだ。
 まだ何一つまともに考えられないままに連絡先を教えてしまったけれど、それから立て続けに届いた何通ものメールには一度も返事をしていない。いや、読みすらしていなかった。そんなことにはまるで興味が起きなかったのだ。
 もっと日が経てば自分もそうじゃなくなるのだろうか。何もかももうどうだっていい、そういう気持ちがこの先いつか、変化する日がくるのだろうか。
 けれどどう考えても、そんな気はしなかった。


 仕事への復帰は、すんなりと済んだ。
 二十七歳にして妻を失った彰を、周囲は最初、腫れ物に触るように扱った。が、当人がまるっきり前と変わらぬ様子で仕事をこなすのに拍子抜けしたようで、十日もしない内に普通の態度に戻っていった。彰の会社は主に知育玩具を扱っており、営業担当の彼は一日の大半を外回りですごしていて、あまり社内にいなかったせいもある。
 復帰して半月程が経ったその日も、彰は淡々と午前中の仕事を済ませ、外を歩いていた。
「おう、御堂!」
 すると後ろからそう声がかかったが、彰は全く反応せずに歩を進める。
「あれ? おい、御堂だろ?」
 ぐい、と肩に手を置かれて、初めてその声が自分を呼んでいたことに気づいた。
「やっぱり。良かった、勘違いじゃなかった」
 振り返った彼にそう言ってくりっとした目を細くして笑いかけてきたのは、高校と大学の同級生でサークルも同じ、二人の結婚パーティにも、そして皐月の葬式にも参列してくれた羽柴宏志だった。今は親の仕事を継いで小さな定食屋をやっているのだが、今日は休みなのか、ジーンズにTシャツと明るいグレーのパーカーというラフな格好をしている。
「……ああ、宏志」
 三テンポくらい遅れて彰が呟くと、相手の顔がわずかに曇る。
「なんか、瘦せたなあ、御堂……今仕事? 昼飯行かね?」
 相手の言葉がどうにも頭の中に入ってこずに、「え?」と彰は顔をしかめた。
「昼飯。食ったの?」
 小さく首を横に振って口を開こうとすると、間髪をいれず宏志が声を上げた。
「じゃ行こうや。あ、用事ある?」
「三坂百貨店に顔出しに」
 予定を言うと、宏志は時計を見る。
「それ、何時から?」
「いや、アポ取ってはいないから。新しいカタログ置きに行くだけ」
「なんだ、じゃあいいじゃん。行こう。この近く、美味いラーメン屋あってさ」
 肩をぽん、と叩いてさっさと歩き出した相手に、彰は声を上げた。
「ごめん、いいよ」
「……なんで」
 振り返った宏志の顔は、咎めるような、けれどひどく心配げないろをしている。
「じゃ、俺待ってるよ。カタログ置きに行くだけならすぐだろ。その後に食おう」
 ぐいぐいと強い調子の言葉に、彰は何も言えずにただ小さくかぶりを振った。
 宏志はため息をついて両腕を組む。
「お前、仕事は大体、外回り、て言ってたよな。いっつも昼どうしてんの」
「……面倒で」
 うつむきがちにぼそりと言うと、聞き取れなかったのか「え?」と宏志が眉をひそめながら身を乗り出してくる。
「面倒なんだ」
 最初に「昼は食ったのか」と聞かれた後に言おうとしていた言葉を、彰は抑揚のない声で言った。それを聞いて、真向かいで宏志が一瞬絶句する。
「……え、何、じゃ、お前……昼飯、食ってないの? ずっと? あれから?」
 あれから、という言葉が、ずしんと彰の心臓を重くした。
 押し黙ったままでいると、宏志が一瞬泣きそうな顔をして、ぐしゃぐしゃ、と自分の茶色がかった髪の毛をかきまわした。
「御堂、この後時間決まってる仕事あるのか」
「え……いや」
「じゃ来い」
 宏志はそう言うと彰に反論の暇を与えず、ぐい、と肩を押して道を歩き出す。
 タクシーに乗せられ連れて来られたのは、宏志の実家の定食屋だった。
『本日定休日』と札がかけられた引き戸をがらがら、と開いて中に入ると、宏志は彰の腕を強く引き両肩を上から押し込むようにして、テーブルの前に座らせる。
「ちょっと待ってな」
 そう言って厨房に入って少しもしない内、彰の目の前に大きめの汁椀が置かれた。
「とりあえず、それ飲んで待ってて」
 見おろすと、内側が赤く塗られた黒い椀になみなみと豚汁がつがれている。湯気の向こうに油の透明で小さな粒がゆらゆらと揺れていて、上にのせられた鮮やかな青葱の隙間から人参や油揚げが覗いて見えた。
「何やってんだよ、飲めよ」
 カウンター席の奥から顔を出して怒ったような声を出す宏志に、彰は仕方なく箸入れから塗り箸を取った。
「……いただきます」
 手を合わせて小さく言うと、椀を持ち上げ、ずっ、と汁をすする。
 熱を持った液体が喉をすべり落ちていくのは判ったが、舌の先には何の味もなかった。
 もうずっと、そうなのだ。『あれから』ずっと。
 何を食べても飲んでも、何の味もしない。どれだけ食べても満腹感もなければ、何も食べなくても空腹感もなかった。そうしたら、面倒になってしまったのだ。
 食べても食べなくても、自分は何にも変わらない。味がしないものを嚙んでいても、口が疲れるだけだ。
 だからといって、勿論『あれから』何も食べなかった訳ではない。朝はヨーグルトを、夜には皐月の両親が手配してくれた宅配の食事をかろうじて摂取していた。
 ヨーグルトは、大好物だった皐月が東北の牧場から直送で毎週送ってもらっていたものだ。皐月がいた頃にはそれにあれこれフルーツがのったり、様々なジャムやシリアルが混ざったりもしていたが、今は何も手を加えずにそのまま、ただただ真っ白い味のない物体を口に運んでいるだけだった。
 別に食べなくても良かったのだけれど、皐月が手配した品を止めてしまうのも、食べずに冷蔵庫に容器がたまっていくのも怖かった。何かが、崩れてしまうようで。
 夜の食事を食べるのはもっと単純に、一週間分まとめて届くので食べないと冷蔵庫がすぐに一杯になってしまうからだった。止めてしまって皐月の両親に知れたら面倒だし、捨てるのも気がひける。
 本来はレンジで温めて食べるその食事を、彰は冷蔵庫から出してきた冷たいままで食べていた。どうせ、味など判らないのに余計な手間などかけたくない。
「御堂……お前、大丈夫か」
 はっと目を上げると、隣にエプロンをした宏志が心配げな顔で立っていた。
「あ、ああ、悪い」
 一口すすっただけで完全に箸が止まっていたことに気がつき、彰は身を起こした。と、椀を取ろうとした手を、上から宏志が押さえる。
「まずいか」
 静かな声で尋ねてくる相手に、彰はとまどって小さく首を振った。
「じゃあ、美味いか」
 畳みかけられた言葉に、咄嗟にうなずくことができなかった。
「……御堂」
 ため息混じりに、宏志は彰の真横に座る。
「御堂、お前、駄目だよ、それ……そんなんじゃ駄目になるよ、御堂」
 宏志はテーブルの上に置かれたままの彰の手を軽く叩いた。
「奥に布団敷いてやるから、とりあえずちょっと寝ろ。それから後のことは、またゆっくり話そうや」
 ──後のこと、なんてもう自分にはどうだっていいのに。
 肩を抱くようにして椅子から立ち上がらせる相手の腕に素直に従いながら、彰は胸の奥で、そう小さく呟く。
「……ごめんな」
 少しだけ先を歩きながら、宏志が小声で言った言葉に、え、と見ると、こちらを振り向かないまま、
「ずうっと、気にかかってたんだけど……今は逆に放っておいた方がいいのかな、と思ってた。ほんと、ごめん」
 と続ける。
 その心底から悔恨のこもった声にも、彰はただ「全然宏志のせいなんかじゃないのに、一体何を言ってるんだろう」程度の気持ちしか動かなかった。


 小学校の終わりから中学の半ばにかけて彰は立て続けに二親を病気と事故で失った。
 父方の祖父母は当時既に亡く、母方の祖父母はもうずっと先に離婚していてどちらも新しい家庭を持っていたので、彰は父親の弟夫婦に引き取られることになった。
 だが転勤族だった叔父夫婦と性別も歳も違う子供二人とはそれまでろくに交流がなかったので、そこでの生活はどうしても他人行儀で息の詰まるものにならざるを得ず、彼は寮のある高校に進学することを選んだ。
 生命保険を含めた親の遺産で学費や生活費は賄えたのに、高校時代のそれは叔父達が全部、負担してくれた。それだけで充分、彰は叔父夫婦に感謝している。
 皐月の事故の時には、叔父夫婦はカナダの研究所に勤務していた。そこからわざわざ来てもらうには及ばない、彰がそう固辞したので、葬式もその後の諸々も、彼の面倒をみてくれたのは皐月の両親だった。
 だからこの時も宏志が連絡を取ったのは、彰の叔父ではなく皐月の両親の方だった。
 その日の内に二人はすっ飛んできて、あれこれと彰の世話を焼いた挙句、病院で「鬱病一歩手前だ」という診断をもらうと、瞬く間に病気休暇の手続きを取り付けてきた。
 彰はそのすべてを、流れる川のようにただ見ていた。
 彼が意志らしいものを見せたのは、「しばらく自分達の家で療養したらどう」と皐月の両親に誘われた時だけだった。二人がどうなだめてもすかしても彰はうなずかず、両親の方が先に音を上げたのだ。
 何かあったらすぐに連絡して、そうしつこい程に何度も言って二人が帰っていくと、家の中がまた、しん、と静まり返る。
 殆どものを感じなくなっていた頭の中に、それでもほっとしたような気持ちが漂った。
 病院で出されたいくつもの薬を機械的に口に含むと、彼は夢のない眠りに落ちた。


 薬を飲み出して一週間程で、彰の頭の中のかちかちに凍った部分がじんわりと溶け始めてきた。
 それまでは布団に入っても三時四時まで眠れず、かといって何か別のことをする気力も起きず、ただ仰向けに横たわって呆然と天井を見つめているだけだったのに、薬を服用するようになってからはすとんと寝つけるようになった。病院で処方された亜鉛の錠剤のおかげか、少しずつ味覚も回復してきている。
 その変化を彰は信じ難い気分で自分の中から眺めていた。
 自分がこんな風になってしまったのは、皐月を突然、理不尽に失ったからだ。それは実に因果のはっきりとした事象であって、にもかかわらず、「因」の衝撃や重さは何一つ変わらないのに、錠剤数個で「果」の方が消えてしまうだなんて。
 たかが薬でこんなになって、自分は薄情なのか、彰はうっすら、そんなことまで考えた。
 このまま元の自分に戻ってしまうのは辛い気がして、薬をやめようか、とさえ思ったけれど、ああして無感情のただ中にいようが感覚を取り戻そうが、皐月がいない、その事実には何の変わりもない、と気づいて惰性で薬を飲み続ける。
 皐月の両親は彰にひとり暮らしを続ける条件として、週に一度、必ず宏志の店に顔を出すことを約束させた。その時にまた元の様子に戻っているようでは、今度こそ二人の家にひきずっていかれてしまう。結婚してから三年弱、皐月とすごしてきた2LDKのこのマンションを彰は離れたくなかった。
 食事時には宏志の店はいつもそこそこ混んでいて、まだあまりごちゃごちゃしたところにはいたくない、と思う彰を気遣って、昼営業と夜営業の間の休憩時間に顔を出すといい、宏志はそう言ってくれた。
 遅い昼飯を食べ、他愛ない話をして、夕飯を弁当箱に詰めてもらって帰る。
 勿論、断る宏志達に押しつけるようにして毎回代金は払っていたけれど、それにしたって彼の友情には頭が下がる思いだった。
 ──なのに時々、それをひどく重たく感じる。
 喉の辺りにどんどん何かがたまっていって、首の皮膚が伸びて重たく垂れ下がっていくような、宏志の店に向かっていると時々そんな奇妙な感覚を覚えた。


 それは休みを取り始めてからひと月近く経った、十月も半ばの風の涼しい日だった。
 宏志から店に来る前に買い物を頼まれていた彰は、駅前の百貨店に足を向けた。すると、百貨店の前に立っている、丈の短い派手な揃いのワンピースを着たいかにもキャンペーンガール的な女性達の一人に、ぱっとチラシを差し出される。
「ただいまキャンペーンで割り引き中です。バーチャルワールドで素敵なリゾートを楽しんでみませんか?」
 押しつけるように渡されたそれを断るのも面倒で、適当に畳んでシャツのポケットに突っ込みながらも彰はとりあえず中へと急ぐ。
 エレベーターに乗って、何とはなしにそれを取り出して眺めてみた。
『「パンドラ」で手軽なバカンス体験を! 一周年記念キャンペーン中!』
 チラシの一番上にはそんなキャッチコピーが躍っていたが、彰はそれ以上内容の説明を読まずにくしゃっと丸めかけ──ふっと、その手を止める。
 何かが、気になった。
 もう一度開いて、下の方の細かい文字に目を落としてみる。
『仮想世界であなたも未来のバカンスを楽しんでみませんか?』
『この研究は未来への投資です!』
 ぱっとそんな文字が目に入って、なおも読み進めようとすると、チン、と音が鳴ってエレベーターの扉が開いた。早足で降りながら、彰はチラシを畳み直してポケットに突っ込む。後で家に帰ってからゆっくり眺めよう。
 そして夕刻、家に帰ると彰はチラシの隅にあったコードを携端で読み込み、部屋を暗くして壁の一面に取り込んだ動画を投影させた。
 明るい音楽と共に、五つ星ホテルのフロントにいそうな、髪と化粧をぴっちりと整えたいかにも知的な雰囲気の女性が、口角をきゅっと吊り上げた笑顔で現れる。
『「パンドラ」一周年記念キャンペーンにようこそ!』
 女性は高くもなく低くもない絶妙に明るいトーンの声と淀みない口調で、『パンドラ』について映像を交えながら説明を始めた。
『パンドラ』は、つまりはコンピュータ内にある仮想の世界でバカンスを楽しむ、というアトラクションだった。名称は「パーソナル・ドリーム・ライフ」から付けたのだという。そしてその基幹システムには、元は脳機能の改善の為につくられた巨大仮想市街が利用されている、そう説明は続けられた。
「……え?」
 そこまで聞いて、はっと気がつく。──そのシステムには、聞き覚えがある。
 彰は目の前で進んでいく映像を放ったらかして、携端で検索を始めた。そしてその仮想市街を構築した研究所の歴史を解説しているサイトを見つけ、説明を読む。
 もともとそれは、関東のとある大学が始めた研究がきっかけだった。
 事故や病気で意識障害を起こし、自発呼吸はあったり目は開いていても意識が全くない、いわゆる「寝たきり」状態が長く続く患者に対し、脳に直接アクセスができないか、という発想がその研究の基だった。神経に電気を流したり映像や音楽を聞かせる治療は昔から行われていたが、それとは違い、患者の脳内に直接コンタクトを取ろうというものだ。
 意識状態が極度に低下している状況は全身麻酔と同様、通常の睡眠とは異なる為、基本的に夢は見ていない。が、当時の研究者達は「患者の脳内に夢を創り出し、そこに割り込む」ことで意思の疎通や意識の回復、更には回復時の脳のリハビリをはかれるのではないか、と考えたのだ。
 様々な手段が模索された後、あるゲーム好きの研究者が思いついたのが「脳を仮想空間に接続させる」方法だった。つまりこちら側で「夢の空間」を用意して、そこに脳をリンクさせる、という発想である。
 研究が進む中、プロジェクトは大学内にとどまらず産学官の連携による脳機能総合研究所の創設へと発展した。そこで参入してきたのが、リアルな仮想空間は治療目的のみならず将来的に巨大なレジャー産業に繫がると踏んだ、ある大手グローバル企業だ。そこから世界各国の優秀な研究者や開発者が派遣されたおかげで、飛躍的に仮想空間と脳とを繫ぐ技術が発展した。その状況を見た政府が、この技術を日本の看板として世界に打ち出したいと、多くの資金を提供するようになったのだ。
 そして年々、本来の治療についての方向よりも仮想空間と人工知能の研究の方に重きが置かれるようになり、そんな中で一年前にオープンしたのが『パンドラ』だった。そもそもの仮想市街空間の研究費用の捻出と、『パンドラ』内での人々の行動や反応を研究に利用するのが目的らしい。
 いきさつがすっかり頭に入って、彰はまだ終わらない壁の映像に目をやった。そんなものがオープンしていて、もう一年も経っていたなんて、自分も皐月も全然知らなかった。
 皐月の名が頭に浮かんだことで、過去の記憶が脳内にあふれ返ってくる。
 彰の手が素早く動き、『パンドラ』公式サイトの申し込みページを開いた。
『パンドラ』を利用するにはあれこれと手続きが必要だった。身分証明の提出は勿論、説明会に参加した上で、様々な審査に通って初めて利用可能となるのだそうだ。
 少し尻込みしかかったが、彰はぐっと息を詰め、「申し込み」のボタンを押した。


 説明会の前の晩は、薬を飲んでいたのに殆ど眠れなかった。
 服を着替えながら、緊張で心臓がどくどく波打っているのが自分で判った。この感じ、就活の面接以来だ、と一瞬思って、いや、違う、と思い直す。
 皐月にプロポーズするんだ、そう自分で決めた、その日の朝も、こんな風だった。
 ずきり、と胸に直接的な痛みが響いて、その感覚があまりに久しぶり過ぎて、妙な懐かしさすら感じる。
 会場はそれ程広くないホテルの宴会場だった。
 入り口で携端の申し込み画面を見せると、名札とパンフレットを渡される。
「会場内では携端はご使用いただけませんのでご了承ください」
 受付の女性の言葉に耳のリモコンと手の中の携端を鞄にしまい込む。コンサートや映画館でも、携端の撮影機能やネット接続がジャミングされるのは今どき普通のことだった。
 二十数名程の席の大半はもう埋まっていた。
 そもそも二十歳未満は申し込めないこともあって、座っている多くは三十代、それからもう少し上の世代ばかりだった。カップルらしき男女や友達同士で来ている人が多く、一人なのは彰を含めても半数以下だ。
 一つ息をついてパンフレットをぱらぱらとめくると、最後のページに「以下のような方にはご体験をお断りしております」という但し書きがあるのを見つけた。

・二十歳未満の方
・妊婦の方
・生理中の方
・心臓疾患をお持ちの方
・血圧に異常のある方
・重篤な呼吸器疾患をお持ちの方
・体内に精密機械を埋め込まれている方
・閉所恐怖症の方
・その他、特定の疾患をお持ちの方
・健康診断にて弊所の定めた基準値を満たされなかった方
・前回『パンドラ』を利用されて後、七日未満の方
・以前に『パンドラ』内にて行動規範に違反する行動をとられた方

 ──その十二項目を見返しながら、この「特定の疾患」に精神的なものも含まれるのか、「健康診断」の中に性格テストも入っているのか、そんなことを彰は考える。
 それにしても、「行動規範」とは果たしてどのようなものなのか、そう思って他のページにも目を走らせようとすると、辺りが少しざわついた。はっと目を上げると、明るい薄めのグリーンのスーツを着た背の高い女性が壇上に姿を見せていた。
「皆さん、本日は『パンドラ』説明会にお越しいただきありがとうございます」
 女性はそうにこやかに挨拶をした。
「本日は約三十分をかけまして、『パンドラ』について説明をいたします。その後、ご体験を希望される方には残っていただき、ご登録と健康診断のご予約をお願いいたします。すべてが終了するのは午後二時頃となる予定です」
 彰を含め、全員が小さくうなずくのを見渡して確認すると、彼女は軽く手を挙げる。
 すると会場が暗くなって、正面に映像が映し出された。
『それでは「パンドラ」で皆さんがどんな体験ができるのかをご説明いたしましょう!』
 音楽と共に、美しく夕陽に照らされた山や青く輝く湖の空撮映像がいくつも画面を流れていく。その説明の多くは先日見た動画と重なってはいたが、彰は改めて熱心にそれを聞いた。
『パンドラ』の仮想空間には三つのバカンスゾーンが用意されている。一つは山のリゾート、そして空のリゾート、もう一つは夜のリゾートだ。
 山のリゾートはアルプスをモデルとした登山や鉄道の旅が楽しめる。空のリゾートは、ハンググライダー、パラグライダー、スカイダイビング、バンジージャンプなどのいわゆるスカイスポーツを楽しむことができる空間だ。夜のリゾートは、カジノを中心とした、クラブやバーなどの遊びが楽しめる街となっている。
『「パンドラ」でのご体験なら、高山病や悪天候、次の日の筋肉痛の心配もなければ、空のスポーツでの事故の不安、カジノで大損をしたりバーで思いも寄らぬ高額料金の請求をされたり、ひどい二日酔いに苦しんだりすることもありません。すべてがリアルでそれでいてリアルなリスクはゼロ、それが「パンドラ」のリゾートの最大の利点です』
 自信に満ちた笑顔を浮かべて、画面の中で女性は続ける。
『「パンドラ」にアクセスされる際には、このような専用カプセルの中にお入りいただくこととなります』
 画面の中には繭のような形をした大きなカプセルがあって、そこに全身にぴったりとした黒地に青いラインの入ったタイツをまとった別の女性が笑顔で横たわっていた。目元をコードの通ったアイマスクで覆い、口と鼻に薄く透明なマスクを装着している。髪はぴったりとした水泳帽のようなもので覆われていて、耳にはヘッドホンに見える機械、手には手袋、足には厚いブーツ。それ等にも皆、コードが繫がれている。
 蓋が閉まると、中の様子がCGで表示された。
『このカプセルはいわゆるフローティング・タンクとなっていて、当研究所が開発した安全な液体で満たされることにより、外部との感覚遮断を行い「パンドラ」へのアクセスをより快適なものにいたします。勿論、酸素マスクにより呼吸には全く問題はございませんのでご安心ください』
 言葉と共に、カプセルの断面図の画像内に液体が満たされ、そこに描かれた女性の体がぷかりと浮いた。
『「パンドラ」内でどんなことが可能か、それはぜひ皆様が実際にご体験ください。今後の研究が進むことで、「パンドラ」での楽しみ方はより広く、より深く広がっていくこととなるでしょう。その一歩にぜひ皆様のご参加とご協力を!』
 音楽が終わって映像は消え、会場内が明るくなった。ぱらぱら、と聴衆からまばらに拍手が起きて、彰も慌てて小さく手を叩く。
「ありがとうございました」
 女性が壇上に戻ってきてぺこりと頭を下げる。
「それでは、先程の映像をご覧になって、『パンドラ』ご体験を希望されるお客様は、このままお席にお残りください。なお、料金につきましてはサイトに記載された通りですが、お手元のパンフレットにも料金表の用紙がはさんでありますので今一度ご確認ください。ご体験を希望なさらない方はご退出いただいて結構です」
 女性の淡々とした説明に、皆一斉にパンフレットをめくり出す。既にサイトはチェック済みだったが、彰も念の為もう一度それを見た。
 一回の利用料金は三つ星のレストランでお酒抜きでディナーを食べるくらいの値段で、初回はそれに保険金と装備代が上乗せされている。ただ、今回は一周年記念キャンペーンとかで、かなりの割り引き価格となっていた。二度目以降の利用には回数券を使用することもできるようだ。
 やがて会場には彰を含めて、七割程の人数が残った。
「それでは、ただいまより配付します電子ペーパーに必要事項をご記入ください。末尾にアンケートがございますので、よろしければご協力をお願いします」
 手元に配られたそれに画面の指示通り名札を当てると、説明会の申し込みの時に申告していた名前や連絡先や生年月日が自動入力される。彰はそれに、付属のペンで健康診断の受診場所や日付の希望、アクセスポイントの希望などについて記入していった。
 すべての項目を埋めて右下の端の『次へ』ボタンをペン先でクリックすると、アンケートが現れる。
 性別や職業、それから独身か既婚かの問いに、彰は一瞬ペンを止め、少し考えてから「独身」をクリックする。
『パンドラ』のことをどこで知ったか、最も体験してみたいゾーンはどれか、などの一般的なアンケートによくある問いに答えていって、最後の問いでまた手が止まった。
 ──七年前に実施された『仮想都市開発プロジェクト』の実験に参加されましたか?
はい/いいえ
 息の音が深くなるのを耳の裏で感じながら、彰はじっとその質問を見つめた。


 健康診断は、ごくごく普通の、ありきたりの内容だった。身長に体重、視力、聴力、血液と尿の検査、心電図、エトセトラ、エトセトラ。
 会場は民間の健診センターで、フロアには『パンドラ』とは関係のない、一般の健診を受けに来た人達も混ざっているようだ。
 それが終わると別階に通されて、かなり豪華な昼食が待っていた。どうやらこれは、一日を費やして検査を受ける客側へのサービスらしい。
 脂や塩気の濃いものはまだいささか喉につかえたけれど、彰は少し無理をしてその食事をすべて平らげた。あまり残してしまって「健康状態が良くないのでは」と思われるのを懸念したのだ。そうは言っても、ほんの数週間前だったらこんな食事は二口三口も喉を通らなかっただろう、と思うと自身の回復ぶりに彰は内心で舌を巻く。
 それは勿論、薬のおかげが大きいけれど、それよりも更に大きく自分の精神に影響を及ぼしているのはこの『パンドラ』のプロジェクトだ、そう彰は自分で判っていた。
 説明会の後に病院に行って「薬を減らしてほしい」としっかりとした口調で語る彰に、医者はいぶかしみながらも少し軽めの薬を出してくれた。そして更に一週間後、健康診断の直前での通院では「一度睡眠薬をやめてみましょうか」と言われた程に体調は回復していた。睡眠薬をやめ、今出されている程度の薬だけならそれ程大したものではなくて、これなら『パンドラ』の審査にもさして影響しないだろう、彰はそう期待していた。
 午後の最初には、会議室のような場所で性格診断のテストがあった。内容は大学や会社でのメンタル診断に使われるような一般的なもので、その後、別室に案内されて、問診までここで休憩するよう伝えられる。
 彰が呼ばれたのは六番目だった。
 案内の男性の言葉に従って番号のふられた問診室の一つに入ると、ずいぶん薄くなった白髪に瘦せ気味の、人の好さそうな白衣の男性の医者が、机の向こうからぺこりと頭を下げて手で椅子を勧めてきた。
 彰は「お願いします」と小さく頭を下げ、それに腰をおろした。
「えーと、ざっと拝見しましたところ、健康状態に特に問題はなさそうですね」
 机の端に置かれたモニタと手元のタブレットを交互に見ながら、医者はそう言った。
「こちら、斉藤クリニックというのは、これ、いつから通われて?」
 通っている心療内科の名前を不意に言われて、彰は背中を叩かれたような気分になる。
「……そう、ですね、あの、ひと月半程前から、です」
 我ながら硬い声だ、そう思いながら告げたのに、医者は何でもないような顔と声で「ああ、そうですか」と言って、タブレットの画面を叩いた。
「これは、何か、あれですか、気持ちがしんどくなるようなことでも? あ、別にいいんですよ、おっしゃらなくてもね、そこまで個人的なことはね」
 おっとりとした口調でそう言われて、彰は一瞬考えてから「ちょっと、仕事で。忙し過ぎるのと、人間関係が」と言うと、医者はこちらを見ないまま大きくうなずく。
「そうですか、そうですか。いや、多いですよ今そういう方はね。皆さん同じです。よく言うでしょ、風邪みたいなものって。そういうもんですね。見ましたところ、お薬も軽いものですしね、問題ないでしょう」
「ありがとうございます」
 こちらを力づけるようなそのおおらかな話しぶりに、思わず口元からほっとした息がもれるのを抑えられないまま頭を下げると、医者がちらりとこちらを見て微笑んだ。
「いいですよ、そういう方が『パンドラ』を使われるというのはね。将来的にはそっち方面の治療にも利用できるんじゃないかとか、そういう研究もね、考えてますんでね」
「研究……」
 思わず呟くと、医者は柳の葉のような目をくるんと大きく開けて、手をぶんぶんと振ってくる。
「いや、これは失礼なことを言いました。申し訳ありません」
「あ、いえ」
 彰は急いで小さく首を振った。気になったのはそこではない。
「あの、『パンドラ』のお仕事、もう長いのかと思いまして。中は実際どんな風なのかなあ、って」
「ああ、そうでしたか」
 医者は見るからにほっとした顔つきになって、また細い目に戻った。
「いや、まあ実はわたしは、こちらはそれ程長くはないんですけどね。勤めてた大学病院を退職した後、三年程前にお誘いいただいた、という訳なんです」
「そうなんですか……それじゃ、『パンドラ』の元の仮想市街のことは、あまりご存じないのですか?」
「え? ああ、そういえば御堂さん、前の実験にご参加でしたね」
 彰が更に突っ込んで質問すると、相手がまた画面を一瞥してそう言ったのにぐっと緊張したが、医者は何故かにっこりと微笑んだ。
「じゃあね、驚きますよきっと。あの頃とはもう、仮想空間の技術が段違いですからね」
 何とも嬉しそうなその顔に緊張を解かれながら、彰はこの気の好い相手にならいろいろと聞けるかもしれない、と姿勢を正す。
「あの、それじゃ今回の『パンドラ』は、前のあの街とは全然別につくられたもの、なんですか?」
「いえ、そういう訳ではないですよ。中でちゃんとね、繫がってます。『パンドラ』で取れたデータをあちらにも反映させたいので」
 タブレットを机の端に置いて、すっかり世間話モードで医者がそう言うのに、「繫がってるんですか?」と思わず彰の声が大きくなった。
「ええ。あ、でもね、市街地と『パンドラ』とは壁で区切られていて、行き来はできないようになってるんですよ。なんて言いますかね、元の都市の端に付け足すような感じで、ぐるっと壁を巡らせて、その中につくってあるんですね」
 医者はそう説明しながら胸ポケットからペンを出し、傍らのメモ用紙を破って一つ円弧を描くと、その線の外側にぼこっと半円を描き足した。
「……そう、なんですか」
 彰の声がわずかに落ちたのに気づかず、医者はにこにこと笑った。
「ああ、でも、わたし、肺に病気がありましてね。『パンドラ』の仕事をしてるのに、入ったことがないんですよ、『パンドラ』。だから皆さん、羨ましくてね」
 その屈託のない笑顔のままそんなことを言われて、彰ははっと我に返った。見た目は明るく元気そうなのに、人にはそれぞれの事情があるものだ。
「あっと、すみません、つい無駄話が長くなってしまいましたね。ええと、はい、ひと通り拝見しまして問題ございませんので、『パンドラ』体験にご参加いただけるということで。よろしいでしょうか?」
「え、ええ。勿論です」
 ちら、と時計を見た医者が急に早口になってひと息にそう言ったのに、彰は反射的に背筋をぴんと伸ばしてうなずいた。当然、異論などない。
「ありがとうございます。そうしましたらですね、この後、体験の際にお使いいただくウェアのサイズを合わせますので、全身の3D計測をしていただきます」
「え、オーダーメイドなんですか?」
 驚いて聞くと、医者は笑って首を振る。
「いえ、さすがにそこまでは。大まかなサイズの把握と、ウェアの下に着る下着は、衛生面もありますのでお一人ずつに用意しますからその為の計測です。それに頭にかぶる帽子も、個人個人の骨格にぴったり合っている必要がありますからね」
 成程、と彰は納得して、気の好い医者に深々と一礼すると部屋を出て計測に向かった。
 すべてを終えて外に出るとまだ夕方の六時頃だったが、十一月の陽はもう完全に落ちていて辺りは真っ暗だ。無防備に開いていたコートの襟元に吹き込む風が冷たくて、彰はぶる、と身を震わせて歩き出す。
 数歩歩いて、何気なく振り返ると、空に月が出ていた。
 目を細めて、それを見上げる。
 もうすぐだ。
 行くんだ、あの『パンドラ』へ。

 ──皐月のいる、あの街へ。
皐月・1 君の為にできること
 宏志と彰は、高校で出逢った。
 彰の高校の選択の第一条件は「寮があること」で、その上に自分の偏差値や叔父の家からあまりにも遠方でないなどの条件を加味すると、候補は三ヵ所程しか残らなかった。将来的なことも考えて、その中から東京に一番近いところを選んで進学した。そこでクラスメートとして知り合ったのが宏志だったのだ。
 入学したその日に彰はくじ引きでクラス委員に選ばれて、しばらくして宏志が季節外れのインフルエンザで学校を休んだ時に、担任から彼の為に授業の補佐をするよう頼まれた。根が真面目な彰は授業の内容を上手く要約して彼に伝え、次のテストで宏志の点数は二割近くアップした。それに宏志は勿論、両親も大感激して、彰をしばしば店に招くようになったのだ。「お礼だから」といつも代金は受け取ってもらえなかった。
 高校の寮は、夏休みは部活の関係もあって開いていたが、冬休みには閉寮される。高一の秋に叔父夫婦は転勤で一家揃ってアメリカに移住してしまったので、当初はウイークリーマンションでも借りてしのごうか、と思っていた彰を宏志が家に誘ってくれた。
 いくら何でも年末年始という家族的な時間の中に他人の自分が二週間近く居座るのは、と渋る彰を、宏志は半ば強引に自宅に引っ張っていった。
 店に入るとあらかじめ宏志から話を聞いていたのか、母親が「はい、これ着けて!」とエプロンを投げて寄越して、訳も判らない内、彰は店員として働かされていた。
 嵐のような数時間が過ぎた後、夕食を出されて「いい働きっぷり。合格!」と宏志にそっくりの大きな瞳を細めて微笑む母親と、「うちは年末は大晦日まで、年始は四日から。がっちり働いてってくれよ!」と豪快な笑い声を立てる父親に、彰は両親を亡くしてから初めて、「ああ、自分はここにいてもいいんだ」とじんわりとした気持ちを味わった。
 そして進路相談の時、「店の手伝いもあるから自宅から通える範囲の大学にする」と宏志が話していたのを聞き、彰も漠然と「なら自分もその範囲で決めよう」と考えた。
 とはいっても、つきあいが続けられれば良かったので志望の大学名までは聞いていなかったのだが、高三になって最初に出した第一志望の受験先が学部こそ違えど同じ大学だったことに、彰は驚きと共に嬉しく思った。
 二人して学力的に大きな無理はない大学だったので、春には無事二人とも合格し、晴れて同じキャンパスに通うこととなる。
 彰は大学から歩いて十五分の立地に安いアパートを借りた。講義の後に宏志が立ち寄ってそのまま泊まっていくこともよくあったものだ。
 そして入学して一ヵ月半が過ぎた頃、宏志が彰をサークルに誘ってきた。
 そこに、皐月がいたのだ。
 もともとは二人とも、そのサークル、演劇部に入ろうと思っていた訳ではなかった。宏志は高校で放送部に入っていて、一年上の先輩が同じ大学に進学していた。その彼が大学で入っていたのが、演劇部だったのだ。
 新入生の勧誘を兼ねた公演で、宏志は街中の群衆役、つまりはエキストラをその先輩に頼まれた。とにかくたくさんの人ががやがやと騒いでいるビジュアルが欲しい、だから知り合いがいたら何人でも連れてきてくれ、そう言われて宏志は彰を引っ張り込んだのだ。
 出番そのものは確かに短く人数も多くて目立つこともなく、それ自体は楽な仕事だったけれど、先輩が「飯奢るから」とちゃっかり頼んできた荷物運びや後始末の力仕事にまで彰達はつきあわされることとなった。
 皐月もそのエキストラのひとりだった。演劇部の正式な部員だった同じクラスの友人に頼まれたのだと、手伝いの合間に教えてくれた。
 フルネームは遠野皐月。文学部の英文学科で、すらりとした体つきにふわりとボリュームのある黒髪のショートヘア、丸みを帯びた瞳とはきはきと話す声が印象的だった。
「力仕事なら全然いいけど、舞台はもう勘弁」と言って笑う姿に、「舞台映えしそうなのに、もったいないな」と彰は密かに思ったものだ。
 先輩はそれからも度々、宏志と彰に手伝いを頼むようになった。その都度、学食の安い定食ではあったが本当に奢ってくれたので、空いている時間は二人ともその頼みを引き受けていた。そうやって何度か通う内、そこで皐月に再会したのだ。
「ちょっと手伝ってみたら意外と面白くて。『裏方だけでいいなら』て約束して入部しちゃった」と皐月は舌を出して笑った。そして「二人もこれだけ来てるならもう入っちゃえば?」と。
 顔を見合わせる彰達に、「それ自分も賛成」と、当の先輩以外の上級生も言い出して、二人はなしくずしに入部することとなった。人前で演技なんてとんでもない、と思っていた彰は「絶対に裏方のみ」と条件をつけてだったが。そもそも生活費はバイトで賄っていたので、台詞を覚えたり稽古をしたり、なんて余裕はない。
 けれど皐月がやっている道具関係の仕事には興味がわいた。そもそも彰は、理工学部でプロダクトデザイン専攻なのだ。
 物の形を忠実に再現するのではなく、客席側から見た時のことを考えて色や形をデフォルメしたり、演者が持ちやすいように滑り止めを付けたり持ち手の形を工夫したり、そんなアドバイスをしている内に彰と皐月はよく話すようになっていった。
 けれども彰にとってそれは、宏志に対して抱く「友情」とさして変わらない感情で、宏志に「お前等つきあっちゃえばいいのに」と言われても、いっそぽかんとするくらいだった。どちらかと言うと女子と話すのが不得手な彰にとって、皐月は向こうからはきはきと話しかけてくれることと、論理が明快で理屈がきちんと通ることで、会話していて気持ちの良い友人、という感覚だったのだ。
 それは多分、向こうにとっても同じだったと彰は思っている。
 彼女はいつも、しゃきしゃきとした態度で彰と対峙していて、そこに男女の感情は全く見てとれず、それが逆に彰にはとても好ましく感じられた。きっとこのままずっと「良い友達」としていられる相手、それが彰の皐月に対する評価だったのだ。
 それに彰は内心で「自分は恋愛に向いてない」とずっと考えていた。
 宏志には中学時代からの彼女がいたのだが、高三の夏休み直前というなかなか微妙な時期に「バイト先で好きな人ができた」とあっさりふられてしまったのだ。
 その時の宏志のやつれようはひどいもので、隣にいると、彼のまわりだけ空気の色が黒っぽく暗くなって、ずしんと肩が重くなる気さえした。普段が底抜けに明るいだけに、その落差がまた雰囲気の暗さに拍車をかけたのだ。
 その時の宏志の崩れようは、彰にはとても印象に残った。
「本当の恋」をして、それを失う、というのはこんなにも辛いものなのか、と。
 そんな辛さに、自分は耐えられる気がしない。
 こんなにも心に食い込んでしまって、こんなにも自分の人生から外せないものになってしまうだなんて、そんな恐ろしいことはとてもできない、そう。
 まだ自分という人間が自分の中でも確定できていないのに、そんな大変な枷を自分で自分にかけるなんて空恐ろしい真似、とても無理だ。
 そう、思っていた。
 だから今は、恋なんてしない。
 そう思っていたのだ。
 あの日まで。


 ──笛の音がする。
 部室の裏で、次の舞台用のセットの木を切りながら、彰はふっと顔を上げた。
 やけに懐かしい、古ぼけたような音色……ああ、これ、リコーダーだ。
「上手いね、皐月」
 隣でドアをハケで塗っていた同級生も、手を止めて音の方へ顔を向けながらそう言う。
「え、これ、遠野さん?」
「うん。今度の舞台、ナマ音がさあ、欲しいんだって。部長が。そしたらあの子が、リコーダーなら持ってる、て言って」
「ああ、それで……これ、なんて曲?」
「ええと、あれよ、ほら……そう、『韃靼人の踊り』」
 メロディは知っていたけれどそんな奇妙なタイトルがついていたとは知らなかった、彰はそう思いながら音の聞こえてくる部室の方をもう一度振り仰いだ。
 周囲で別の大道具の作業をしている仲間達も、手を止めて音に耳を傾けている。
「いい曲だなあ……」
「ね。リコーダーの音、合ってる。ナマの音で聞かせるの、正解ね」
 背筋を伸ばして見上げると、陽が傾きかけた紺色の空を、烏が一羽、横切っていく。
 その羽に音が乗って更に遠くに飛んでいくようで、彰は胸の中がすうっと澄んでいく心持ちを覚えた。


 それは、後期試験の真っ最中の出来事だった。
 さすがに試験中にはサークルも休んで、バイトも入れずに彰は勉強に専念していた。学校から成績に応じて学費軽減の措置をもらっているので、落とす訳にはいかない。
 四時限目の試験の後に、食事をつくる時間を節約して明日の予習をしよう、と売店へ向かう。近道にとサークル棟の脇を横切っていくと、見覚えのある人影が走り出てくるのが見えた。
 ──遠野さん?
 立ち止まって目で行方を追うと、皐月はその隣、今はもう使われていない、かなり古いサークル棟の外付けの非常階段を、カツカツと靴音を鳴らしながら駆け上がっていく。
 そのどこか切羽詰まった様子に、彰は気になってそちらに足を向けた。
 鉄骨の階段の冷たい手すりに手をかけ見上げてみたが、のぼり切ってしまったのか皐月の姿はもう見えない。
 陽の落ち始めた、明かりのないその階段を、彰は用心しながらのぼった。階段の一番上は、そのまま屋上に繫がっている。
 そこへ足を踏み出しかけた瞬間、「来ないで」と小さいが鋭い声がして、びくり、と彰の動きが止まった。三メートル程先に内階段からの出入り口の石段があって、そこにしゃがみ込んでいる人影が見える。
「……遠野、さん?」
 その声に確かに涙の気配を聞き取って、彰は息を吞みながらそう呼びかけた。
「大丈夫だから、こっちに来ないで」
 すぐに返された声は、やはり確かに涙声で、彰はどうしていいのか判らずにその場に立ち尽くしてしまう。
「あの……」
「あのね、落としちゃったの」
 何を言えばいいのかも判らずにかけた声を遮った言葉に、彰は面食らった。
「コンタクト。急にゴミが入って、すごく痛くて、目をこすったら落ちちゃった。それで涙が止まらないの。こっちに来たら踏んじゃうかもしれないから、御堂くん下戻ってて」
 ほんの少ししゃくりあげながらもしっかりとした口調でそう説明されて、彰の動揺は急速におさまった。それと同時に、さっと頭が動き始める。
「じゃ、ここで落としたの?」
「……え?」
「踏んじゃうかも、てことは、上がってきてから落としたんだよね?」
「え……え、ああ、まあ」
 急にてきぱきとした口調になった彰に比べ、皐月の声は妙に曖昧な響きに変わる。
「この位置から、そこに行くまでの間に落としたんだね?」
 それを全く意に介さず、彰はそう続けて。
「まっすぐ歩いた?」
「……多分」
「そう」とうなずいて、彰はその場にしゃがみ込んだ。
「御堂くん?」
「そこ、動かないで」
 彰はポケットから家の鍵を取り出すと、キーホルダーに付けた小さなライトを点灯させた。
「コンタクトの大きさから考えて、ここからその位置まで、一辺十五センチくらいのグリッドを横九マスくらいで一つ一つつぶしていったら、踏まずに、確実に見つかるから。だから遠野さんは動かずにそこにいて」
 そう言いながら、彰はセメントの上にさっと目線を走らせていく。
「御堂くん……」
「大丈夫。俺、目はいいから。心配しないで」
 ライトの光を動かしながら顔を上げずに言うと、皐月が身じろぎする気配がした。
「……ごめん」
 そして唐突に放たれた言葉に、彰はえ、と顔を上げる。
「ごめん、噓」
「……えっ?」
 全く事態が摑めずにすっとんきょうな声を出すと、皐月が肩を動かして大きく息をついた。
「噓。わたしも視力、結構いいんだ」
 地面に片膝をついたまま言葉もなく皐月を見つめると、その視線に困ったように、皐月はわずかにうつむいた。
「……泣いてる、って、思われるのが嫌で」
 ──どきん、と彰の心臓が大きく打った。
「あっ……」
 すっくと立ち上がると、どうしていいのか判らずに頭をかく。
「えっ……えっと、あの、こっちこそごめん、あの……それじゃ」
 我ながらしどろもどろに言葉を繫いで、とにかく一刻も早くこの場を立ち去ろう、と身を翻しかけると、「御堂くん」と小さい声が、その動きを止めた。
 彰は一度大きく深呼吸して、覚悟を決めると相手に向き直る。
 皐月はしゃがみ込んだまま、泣き笑いのような顔でこちらを見上げた。
「噓ついて、ごめん。……良かったら話、聞いてくれる?」
 今度は心臓が喉の奥からせりあがってくるような感覚を覚えつつ、彰はこくり、とうなずいた。
「……この子。茶太、ていうの」
 皐月の隣に並んで座って差し出された画面には、白みが強い茶色の柴犬の仔犬と頰を寄せ合って、弾けるような笑顔を浮かべている五歳くらいの女の子が写っていた。
 その笑顔には、はっきりと今の皐月の面影がある。
「うち、わたしが四歳の時に、父親、脱サラしてね。それまでは大手の製パン会社にいたんだけど、独立して自分のパン屋、地元の石川にオープンしたの。でも当たり前だけど最初はなかなか、上手くいかなくて」
 彰に向かって話す、というより独り言のような口調で呟きながら、皐月は手首に着けた金の細い鎖のブレスレットの青い雫形のリモコンに、規則的に指を動かした。
 その度に現れる写真には、すべて先刻の柴犬の姿がある。
「両親とも夜も昼も時間を惜しんで働いて、わたしはその間、近所の父方の祖父母の家に預けられてて。引っ越してきたから近所に友達もいなくて、祖父母が気の毒に思って、この子、飼い出したの」
 彰の目の前を流れる写真の中で、少しずつ仔犬も子供も成長していく。
「両親や祖父母が自分を大事に思ってくれてることは判ってたし、どっちも大好きだった。でもそれはやっぱり、子供が親を好き、て気持ちで、でもこの子はわたしにとって、対等な『親友』だったの」
 中学校の制服を着て、卒業式なのか花束を持った皐月の隣にぴたりとくっついてお座りしている柴犬の姿がかわいくて、相手の声のトーンにもかかわらずつい彰の口元に笑みが浮かぶ。それをちらりと見て、皐月の口元にもさびしげな笑みが横切った。
「ずうっとね、こうやって、一緒に……一人で留守番できるような歳になっても、この子に逢いたいからこっちの家に行ってね。結局散歩は毎日わたし。受験の時にはちょっと控えなさい、て言われたけど、絶対受かるから、て言って」
 次は高校の入学式なのか、満開の桜がつらなった川縁で、制服を着た皐月が犬のリードを引いている。
「親と喧嘩したり、学校や友達のことで悩んだり……他の誰にも言えないような悩みも全部、この子に話すと落ち着いて考えることができた。こっちが落ち込んだり泣いたりしてるとね、ちゃんと判るんだよね。きゅうきゅう鼻鳴らして体くっつけてきて、慰めようとしてくれてるの、ちゃんと伝わるの」
 言葉の最後が震えて、ぽとん、と画面の上に雫が落ちた。
 彰ははっと息を吞んで、つい相手の横顔をまともに見てしまう。頰をひと筋、涙がつたっているのに気づいているのかいないのか、皐月は食い入るように画面を見つめていた。
「……もう、駄目なんだって」
 息をきゅっと吸い込みながら、皐月が呟く。
「もうね、そもそも、歳だから……あちこち悪くして、最近は散歩にも行けなくて。それでもね、トークかけて顔映してもらって声かけると、寝てても絶対起きてこっち見るの。もう目も殆ど見えないのに。名前を呼ぶとね、不思議そうに匂いかいで、鼻鳴らして……『どうして触れないの』って顔して、じいっとこっち、見てるんだ」
 ぽたぽた、と立て続けに画面に落ちる涙を、彰は見おろす。
 皐月と一緒でなく犬だけが単独で写っている写真は、きっと殆ど彼女が撮ったのだろう、そう感じられた。カメラに向けられた黒くつややかに輝く瞳に、撮り手に対する全幅の信頼と愛情がはっきり、見てとれて。
「多分、今夜……明日までもつかどうか、って」
 軽く洟をすすって、皐月は携端のスイッチを切った。
 いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていて、急な暗闇に彰はとまどう。
「……判ってるんだ、帰ればいいって」
 その闇の中から、皐月の硬い声がする。
「試験なんか放り出して帰る。それが絶対、人として正しいって判ってる。でも」
 すぐ隣にいる筈なのに、その声は何故かひどく遠いところから聞こえる気がする。
「明日の一限のテスト、絶対、落とせない。あの先生、試験出なきゃ絶対に単位くれないから。そしたら学費軽減、なくなっちゃうから」
 彰は暗闇の中で目を見開いた。うすぼんやりと、相手の輪郭が見えてくる。
「高校に入ってから、父さんしばらく、体壊してた時期があって。その間お店は休まなくちゃいけなかったから。受験の時は、もう大丈夫だから学費のことは心配しなくていい、て言ってたけど、それでもやっぱり、軽減の話、した時にはほっとした顔してて」
 暗さに慣れてきた視界の中で、長いため息をついて髪を耳にかける皐月の横顔。
「夜行バス、行きはあるけど、帰り、一限に間に合うのはなくて……だから、無理。帰れない」
 一度きゅっと唇を嚙みしめると、皐月は両膝の上に額を落とした。
「あんなに待ってるのに、帰れない。……わたし、ひとでなしだ」
 その言葉と同時に、彰はすっくと立ち上がった。
「行こう」
「……え?」
 目の前に立った彰を、皐月はどこかぼんやりとした瞳で見上げる。
 彰はさっと自分の携端のリモコンを叩いて時刻を確認した。
「すぐ行こう。石川のどこ? 住所、判るよね?」
「え、え……」
「駅前のレンタカー屋で車借りて行こう。それで、一限に間に合うように帰ればいいよ」
「あの、御堂くん」
 てきぱきと語る彰に、皐月は混乱しきったまなざしと声を向けた。
「何言って……無理だよ、そんな」
「え、どうして?」
 一方、相手の言葉の意味が全く判らず、彰はきょとんと目を丸くする。
「今五時だから、石川のどこかにもよるけど、日付変わる前には着けるよ」
 まるで当たり前のようにそう話す彰に、皐月は片手を振った。
「だって、そんな……そもそもわたし、免許持ってないもの」
 なんだ、自分で行くつもりだったのか、と彰は得心して大きくうなずく。
「運転は俺がするから」
「……え?」
 皐月の声が一オクターブは跳ね上がる。それを、彰は自分の運転に対してだと取った。
「いや、大丈夫。大丈夫だから。免許取ったの高校の時だし、大学入ってからずっとバイトで運転してるし。最近の車の運転アシスト、すごく性能よくて。居眠りしたら起こしてくれるし、めったなことでは事故らないし、心配しないで」
 諄々と説き聞かせようとする彰に、皐月がいよいよ混乱極まった様子で頭を振った。
「あの、そうじゃなくって……どうして御堂くんが、そんなことしてくれるの」
 彰としては全く思ってもみなかった相手の言葉に、軽くのけぞる。どうして、って、そんなこと当たり前なのに。
「だって、これが最適解でしょ?」
「えっ?」
「だって遠野さんは今夜中に絶対にその子に逢わなきゃ。で、絶対に明日の一限のテストも受ける。バスや電車では無理。車しかない。遠野さんは無免許だけど、俺は免許持ちで、運転も慣れてる。そしたらこれが、最適解じゃない?」
「だってそれじゃ、御堂くんにあんまり負担が」
「多分向こうに数時間はいられる。その間仮眠させて。俺、明日は試験、二限目からだから、遠野さん送った後も少し寝られるし。遠野さんは移動中に寝ればいいでしょ」
 もはやすっかり言葉を失った様子で、皐月はただただ、彰を見上げる。
 その視線に気づかず、彰はもう一度時計に目をやった。
「ああもう、時間もったいないよ。早く」
 焦る気持ちも手伝って、そう言いながら無意識に差し出した手を、皐月は数秒見つめて、そうっとそこに指をのせる。
 そのひいやりとした手触りに、彰ははっと我に返って一瞬で顔が熱くなるのを感じた。
 ゆっくりと皐月の指に力が入って、手が握られる。
 更に爆発的に頰に血がのぼるのを感じながら、彰はそれを隠そうと、ぐい、と殊更に勢いよく相手の体を引っ張り上げた。きちんと立ち上がったのを確認してぱっと手を離す。
「御堂くん」
 恥ずかしくて相手の方を向けずにいると、皐月が腰から体を折って、深々と頭を下げた。
「ありがとう。……どうか、よろしくお願いします」
 その姿にと胸をつかれて、彰はのぼった血が一瞬で下がるのを感じる。
 それと同時に、さっと頭が切り替わった。
「うん、任せて。……行こう」


 車を借りてまずコンビニに寄ってパンやコーヒーを買い込むと、皐月がカゴを奪うようにして「ここはわたしが払う」と言ってきた。
「え、いいのに」
 彰が面食らって言うと、皐月はそれを防ぐようにオートレジの読み取り台にカゴを置き、強く首を振る。
「駄目。あと、ごめん、レンタカーとか高速とかガソリン代とか、分割払いでもいいかな」
「ええ……別に、それもいいのに」
 本当に何のてらいもなく素でそう言うと、買ったものを袋に詰めて歩き出しながら、皐月が大きな目を更にまん丸くして彰を見た。
「なんでそうなるの。そんなのおかしいでしょ」
「いや、だって……今俺、お金結構余裕あるし。年末年始、配達とか引っ越しとかやりたがらない人多いから、手当、いつもより付くんだよ。かなり儲けたよ」
「だから、そういうことじゃなくって……」
 どこか呆れたような口調で言いながら、ごくわずかにくすんと皐月の唇の端に笑みがもれたのに、彰はほっと嬉しくなる。一体相手が何を気にしているのかはよく判らないが、今日初めて笑ってくれた、それがたまらなく嬉しかった。
「……まあもういいや。とにかく払うから」
「いいのになあ」
「御堂くん、変わってる」
 車に乗って、袋からコーヒーを出して手渡しながら、やはり呆れ声で皐月が言った。
「え? どこが?」
「全部。……大体、年末年始ずっとバイトって、家帰らなかったの?」
「ああ、俺、実家ないもの」
「え?」
「親死んだから。中学の時は叔父さんちにいたけど、仕事でアメリカ行っちゃって」
 エンジンをかけて車をスタートさせながら、彰は相手の様子に全く気づかないまま、何気なしに続ける。
「高校の時は寮だったから、年末年始は宏志の家にいたんだよ。……あ、宏志んち、知ってる? 飯屋なんだけど。まだ行ったことなかったよね、今度皆で行こうよ。どの定食にも豚汁付いてくるんだけど、それがすごく美味いんだよ」
「──ごめん」
 すっかり陽気に話していたのに、突然隣からひどく重たい響きの声がして、彰は意表を突かれた。運転しながらも急いでちらりと横目で見ると、膝の上に紅茶のボトルを置いたまま、皐月が硬い目をしてうつむいている。
「え、ええっ、何……あっ、もしかして遠野さん、豚汁嫌い?」
 相手のその態度の理由が咄嗟には判らなくて、けれど次の瞬間、はたと思いついてそう言うと、皐月がばっと顔を上げた。真っ黒い瞳がリスのように大きく見開かれている。
 そのまなざしに、彰は自分でも理由が判らないまま更に慌てた。
「あっ、やっぱり? ああ、あの、確かあるよ、お吸い物とかも。……えーと、うん、確かに若い女の子が行くような店じゃないけど、でもね、ほんと何でも美味しいんだよ」
 必死に言葉を繫ぐと、皐月がぱちぱち、と音がしそうな程大きく瞬きをして、それから軽く背を折って吹き出した。
「ええっ……」
「……もう、ほんと……もう、御堂くんて、ほんと」
 あたふたしている彰を尻目に、皐月はひとしきり声を上げて笑った。顔を上げると指先で目尻の雫を拭って、にっこり、と、唇の端まではっきりとした笑みを浮かべる。
「ほんと、変わってる」
 その泣き笑いのような笑顔に、彰は何故だか、喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。


 皐月の祖母の家に着いたのは、日付の変わる二十分程前だった。
 到着前に皐月は祖母に連絡を入れていて、着いた時には玄関まで出迎えに来てくれていた。祖父は皐月が高校の時に亡くなったそうで、家には今は祖母と犬だけなのだという。
 相手が何度も深々と頭を下げるのに、彰は何とも面映い気持ちで頭を下げ返した。
 犬は子供の頃から皐月が使っていた部屋で寝ているから、と言われ、皐月は小走りに奥へと消えていく。
 その背中を見送ると、ふう、と我知らず大きなため息が出た。良かった、間に合った。
「……本当に、申し訳ありません」
 と、隣からまた何度も聞いた言葉が繰り返されて、見るとただでさえ小柄な皐月の祖母が背中を深く丸めて頭を下げている。
「いえ、あの、もういいですから」
「いつもはあんな、わがまま言って人に無理させたりする子じゃないんですよ。むしろ人に気を遣って、我慢ばっかりするような子で。それがこんな無茶……ほんとに、よほど逢いたかったのね」
 彼女の言葉を聞いて、彰の口元にかすかに笑みが走った。ああ、本当に来て良かった。
「身内が言うのも何ですけど、根が本当に優しい子なの。だから、あなたにはこんな無理させてしまいましたけど、どうかあの子に、愛想尽かさないでやってくださいね」
「そんなこと」
 即否定すると、相手の瞳が丸くぴかっと輝いて──その意味は判らないまま、あ、やっぱり似てる、と彰は内心で思った。
「遠野さんはいい友人です。サークルでもすごく皆に信頼されてるし、自分もいろいろ、助けてもらってますから」
「……ゆうじん?」
 その瞳に何か返したくて力強くそう言うと、相手の口から少し調子の外れた声がもれる。
「はい。いつもお世話になっております」
 そう言って頭を下げると、彼女はぱちぱち、と目を瞬いて、「ああ……そうなんですか」と、かくかく小さく何度かうなずいて軽く頭を振る。
「ええと……ああそうだった、奥に、お布団用意してありますから、少しおやすみになってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
 少しでも横になれるのは本当に心底有り難くて、ぱっと顔を輝かせてまた頭を下げると、少し首を傾げながらも彼女はふっと、微笑んだ。


 目が覚めるのと同時に、傍らに人の気配を感じた。
 一瞬で頭が覚醒して、さっと顔を動かして見やると、部屋の隅に皐月が膝を抱えて座ってこちらを見ている。
「遠野さ……」
「良かった、悪いけどそろそろ起こさなくっちゃ、て思ってたとこだったの」
 彰が上半身を起こすと、皐月も立ち上がった。
 彼女がここにいる。犬の傍ではなく。ということは、つまり。
「おばあちゃんに声かけてくる。御堂くん、洗面所の場所、判るよね」
 彰が何か言う前に、皐月はそう言って部屋を出ていってしまった。
 ──でも、声はもうすっかり乾いている。
 起き上がって服を着替えて布団を畳むと、洗面所でざぶざぶと冷たい水で顔を洗う。
 良かったんだ、きっと、これで。
 ごしごしとタオルで顔をこするように拭き上げると、短い睡眠だったにもかかわらず、しゃっきりと頭の奥まで冴えてくるのを感じた。
 廊下に出ると、玄関の上がりかまちに皐月とその祖母が立っている。
「本当に、孫がお世話かけました。これ、お夜食に。召し上がってください」
 中身は判らないがずしっと重い紙袋を手渡されて、彰はかえって恐縮した。
「すみません、夜中にこんなお手間取らせて」
「何をおっしゃいます、この子のわがままにつきあわせて、こんな夜中に車で帰らせるだなんて」
 言いながら彼女は横目でちらっと皐月を睨んだ。
「本当なら泊まっていってほしいのに……あの、またぜひ改めていらしてくださいね」
「もういいから、おばあちゃん。また連絡する」
 普段は特にこちらに来る用事はないんですけど、彰がそう言う前に、皐月が少しふくれっ面をして割って入った。
「はいはい、もう、ほんとこの子は自分のことばっかり……」
 愚痴モードに入りかかった祖母の肩を軽く叩いてから、皐月は一度、ぎゅっと彼女の体を抱きしめた。
「急にごめん。でも逢えて良かったし、嬉しかった。ありがとう、おばあちゃん」
「……皐月」
 抱きしめてくる孫の肩を、祖母がぽんぽん、と叩き返す。
「おばあちゃんも、さみしくなっちゃうね……元気出してね」
「もう、ほんとにこの子は……」
 うっすらと涙声になった相手をもう一度ぎゅっと抱きしめて、皐月は体を起こした。その瞳にも、ぼやっと水の膜が張っている。
「それじゃ、行くね。春休み、帰るから」
「はいはい。気をつけて帰ってね。……御堂さん、本当にありがとうございました」
 祖母と孫のやりとりをほのぼのとした気持ちで見ていると、急に頭を下げられて、彰は慌てて頭を下げ返す。
「いえ。あの、責任持って送り届けますから」
 もう一度頭を下げると彰は皐月に続いて、家を後にした。
 ──車を走らせ始めて程なく、ちらっと隣を見ると皐月は斜めに頭を傾けて眠り込んでいた。
 少し車内の暖房の温度を上げながら、胸の内側一杯に程よい温かさのお湯のような安堵が満ちるのを感じて、唇の端にふっと笑みが浮く。このまま向こうに着くまで眠れれば、睡眠時間としては充分だろう。
 高速をしばらく走っていると、小腹が減って、トイレにも行きたくなってきた。
 時間に余裕はあるし、少し休憩しよう、と思いサービスエリアに入ると、皐月を起こさないよう気をつけながらトイレに行って、自動販売機で熱い緑茶を買う。
 車に戻って後部座席に乗ると、皐月の祖母がくれた紙袋を覗いてみた。キーホルダーのライトを袋の中に突っ込んで見てみると、アルミホイルの包みとタッパーに、割り箸と紙おしぼりの袋がいくつか入っている。
 包みの一つを開いてみると、一つずつラップにくるまれたおにぎりが入っていて、その上に貼られた付箋に『鮭』と書いてあった。他も覗くと『おかか』『梅』とある。
 何だか妙に嬉しくなってきて、彰はくすんと笑った。
「……あれ、御堂くん?」
 と、助手席から寝ぼけた皐月の声がする。
「あ、ごめん、起こした?」
「ううん……あれ、なんで後ろ? ここどこ?」
「ああ、サービスエリア。ちょっと腹減ったし、休憩しようと思って。ごめん、寝てなよ」
「そうなんだ……わたしも食べようかなぁ。あ、でもその前にわたしもお手洗い、行ってこよう」
「あ、外寒いよ」
 車内灯をつけて、後部座席に置かれた皐月のコートとバッグを差し出しながら言うと、顔半分で振り返って受け取った彼女が目を細めて笑う。
 その顔に彰は、軽く心臓が縮んだ気がした。
「ありがとう。……ちょっと時間かかるかも、御堂くん、先に食べててよ」
「あ、うん」
 その動揺を押し隠してうなずくと、皐月は車を降りていった。
 彰は小さく息をついて、タッパーを取り出して中を覗き込む。
 大きい方には唐揚げと卵焼きとほうれん草のゴマ和え、小さい方にはウサギの形に切られたリンゴとプチトマト。まさに絵に描いたような「遠足のお弁当」だ。
 彰はまたわくわくする気持ちを覚えながら、おしぼりで手を拭いて鮭のおにぎりを一つ手に取りラップをはがした。海苔がしっとりと張り付いたおにぎりを、上からぱくり、と頰張ると、口の中一杯に、ほんのりと塩の利いたご飯の味と香りが広がる。
 その瞬間に、胸の奥で何かがごとり、と音を立てて動いた。
 彰の動きが止まる。
 ──あれ……あれ、これ、何だっけ?
 歯と舌の間を、ねちっとした海苔の切れ端と一緒にほろりと崩れて歯に当たるご飯の一粒一粒、その感触が心の奥底の何かをぐいっとこじ開けていた。
 手で握られた、わずかに塩気の利いたご飯が口の中でほぐれる感覚。
 その何かをつきとめたくて、止まっていた口を動かして何度か咀嚼して飲み込むと、背骨にびり、と電撃のような感覚が走った。
 ああ……そうだ。
 おにぎりを手にしたまま、また彰の動きが完全に止まる。
 久しぶり、なんだ。
 手元のおにぎりの、上の部分がかじられたお米の粒の間にほんのりとピンク色の鮭のフレークが覗いているのを、彰はまじまじと見つめた。
 コンビニや、スーパーで買ったものじゃない、誰かが手で握ってくれたおにぎりを食べるのは……久しぶり、だったんだ。
 母さんが死んで以来。
 中学には給食があったし、何かの行事でお弁当だったりした時も、たまたまだったが、おにぎりではなかった。高校は寮の食堂だったし、宏志の店でもおにぎりは出たことがない。大学に入ってからは自炊だったけれど、昼は大抵学食だったし、家で自分でご飯をわざわざおにぎりにしようなんて、考えたこともなかった。
 だから久しぶりだった。
 久しぶり過ぎて、すっかりこの感覚を忘れていた。
 固くもない、ゆるくもない、お米の粒同士がぴたぴたっとどこか数点だけでくっついていて、それが嚙んだ途端にほろほろと口の中でほどけていくこの感覚を。
「──え?」
 ズボンの膝にぽとり、と何かが落ちたのが視界の中に映って、彰は思わず小さな声を上げた。それは合間をおかず、更にぽたぽた、と落ちていって、ズボンに小さな染みをつくる。同時に、頰が濡れているのをはっきりと感じた。
「え……え?」
 片手におにぎりを持ったまま、彰は混乱した。
 その液体が涙、であって、それが自分の目から落ちている、という事実はすぐに認識することができた。けれどその理由に至っては、全く理解することができない。
 勝手にこぼれていく涙をどうすることもできないまま、彰は手の中のおにぎりと落ちる雫とを交互に見た。
 三角形の先がかじられた、食べかけのおにぎり。
 こんな状況でも、口の中、頰の内側の端の方で、脳に「美味しかった、もっと食べたい」と訴えかけてくる感覚。
 ──ああ、判った。
 その「食べたい」という気持ちと同時に、答えが降ってきた。
 もう食べられないからだ。
 母親のつくるおにぎりを、自分はもう食べることができない。
 そうはっきりと自覚したのに、奇妙な心持ちがした。
 そんなことは知っているのに。もうずっと昔から、そんなことは知っていた。
 母親は彰が中二の時、外出先でエスカレーターの誤作動での事故に巻き込まれて死んだ。その数年前に父親は病気で亡くなっていて、母子二人、大変なこともあったが毎日つとめて明るく楽しく暮らしていた、その中での突然の出来事だった。
 その衝撃は相当なものだったけれど、既に父を失う、という経験をしていた彰には、「自分の生活の中から父が消えたように、今度は母が消えたのだ」という思考がすぐに構築された。だから自分はちゃんと判っている、そう思っていたのだ。
 自分の両親は亡くなった、それを自分ははっきり理解し、咀嚼できている、そう思ってずっと生きてきた。
 それなのに。
 手の中のおにぎりが、ずん、と重たくなっていく。
 彰は浅く呼吸をしながら、それを見つめた。
 ──もう、食べることができない。
 知らなかった。
「失う」というのは、こういうことなのだ。
 一度おさまりかけていた涙が、またぽたぽた、とこぼれた。
 亡くなった、消えてしまった、失った、それを自分は知っている、そう思っていた。
 でも違った。
 それは頭で「こうだと思っている」だけだった。
 こんな風にはっきりと、それが腑に落ちたことは、今まで一度もなかった。
 自分はどこか「長い不在」のようにそれを捉えていたのかもしれない、そう思った。
 ただの「不在」であるなら、いつかは戻る。
 けれど違った。それ等はもうすべて完璧に、峻厳に失われてしまったのだ。
 父と母、それぞれの死の報を聞いた時も、お葬式の時も、納骨の時も、自分は本当は「二人の死」を認めてはいなかった。
 今やっと、判った。
 今本当に、二人は自分の中で死んだのだ。


「──あぁ、外寒かった!」
 と、突然バタン、と後部座席のドアが開いて、一瞬の冷気と共に皐月が車に乗り込んできた。
「嬉しい、おばあちゃんのご飯、久しぶ、り……」
 両手をこすりあわせながら、わずかに鼻の頭を赤くしてそう明るく続いた皐月の言葉が、すうっと細くなって消えて。
「……え、えっと……御堂、くん?」
 大きな目で、皐月がまじまじと彰を見つめる。
「あ……ああ、うん、ごめん」
 なおもぽたぽた、と頰を雫がつたうのをどうしたらいいのか判らないまま、彰はひょこっと肩をすくめて。涙は止められなかったけれど、こうなった理由がはっきりと自分の中で判ったことで、彰の精神はすっかり落ち着いていた。
 だから頰を涙がつたってはいても、声はまるでいつもと変わらない、平静なものになっていて、それに皐月はまたぱちぱち、と目を瞬く。
「うん、ちょっと、自分でもびっくりした。おにぎり食べたらさ、あ、なんか、久しぶりだと思って」
 隣で驚いている皐月に、どうってことはないんだ、と判ってほしくて、彰は殊更に淡々とした声で説明を続けた。
「すっかり忘れてたんだけど、誰かが握ってくれたおにぎり食べるのって、中学の時に母さんが亡くなる前につくってくれて以来だったんだよね」
 少しこちらに身を乗り出しかけていた皐月の動きがぴたりと止まる。
「それでびっくりしたんだ。だからどうってことない、気にしないで、遠野さん」
 そう話している間に、自然に涙がおさまった。彰はほっとして、手の甲でぐい、と頰に残るそれを拭うと、また一口おにぎりを頰張る。
「うん、美味い」
 自然と口元に笑みが浮かぶのを感じながら、残りを一気に食べ切って。
「塩気絶妙。ほんと、料理上手なんだね、遠野さんのおばあちゃん」
 一度指先をおしぼりで拭いながらそう言うと、彰はまた笑った。
 その一連の動作を、皐月はやはり身じろぎ一つせずにじっと見つめている。
「──御堂くん」
 そしてすう、と一つ息を吸うと、少し低い声で名を呼んだ。
 その声の真剣さに、彰はと胸をつかれて相手を見直す。
 皐月は瞬き一つせずまっすぐに彰を見ると、しっとりと桜色をした唇を開いた。
「わたし、何でもする」
 そしてそこから、そう言葉が放たれた。
「わたし、御堂くんの為になら、何だってするよ」
 彰は呆気にとられて、目の前の皐月を見直した。
 皐月は冗談めかした様子など何一つない、真剣そのものの顔でそれを見つめ返す。
「茶太、目が悪かった、て言ったよね」
 それからいきなりそんな話が始まって、彰は更に面食らった。
「でも鼻や耳はそんなに衰えてなくてね。先刻、わたしの部屋、扉開けたら、部屋の奥のストーブの前からこっちに向かって、ずるずる毛布からはい出してきてて」
 話しながら、皐月の瞳がほんのりと潤いを含む。
「もうちゃんと立てないくらい足も悪いのに、ずりずりはいずって、しっぽ振りながら……急いで駆けよって毛布巻き直して抱っこしたら、心底嬉しそうにきゅうきゅう鼻鳴らして、わたしの手や顔、ぺろぺろなめてきて」
 皐月はきゅっと両手の指を膝の上で組んで、一瞬目を伏せた。
「座って、膝の上に抱いたら、もう殆ど見えてない筈なのに、一心な目でこっち見上げてきて……不思議ね、仔犬の頃は勿論子供の顔してて、それからやんちゃで腕白な顔になって、大人になって少し落ち着いて、歳とってからはいかにもお爺ちゃん、みたいなおっとりのんびりした顔つきになって……なのに最期は、また子供の顔に戻ってた」
 瞳の潤みはますますくっきりしてきたのに、その唇にはほんのりと微笑みが浮かぶ。
「ずっしり、全体重預けて、安心したみたいに目を閉じて、くうくういびきかいて眠り始めて……背中をずうっと撫でてたら、いつの間にか、部屋の中がしいんとしてて、自分の息の音しかしなくなってて」
 すっ、と息と共に言葉が切れて、頰をひと筋、涙がつたった。
 彰は声も出せずに、それを見つめる。
「わたし、考えもしなかった」
 皐月の瞳が動いて、彰の目を捉えた。
「考えもしなかったんだよ、御堂くん」
 ほんのわずかに上半身をこちらに傾けて、皐月は強い口調で語る。
「昨日の夕方、ほんの何時間か前には、自分がこんなところにいて、こんな風に茶太を膝の上にのせてるだなんて、考えもしなかったんだ」
 皐月の頰の上を涙が幾筋もつたって、それが彼女の膝の上やシートの上にぽたぽたと落ちるのを彰は声もなく見た。
「諦めてたから。だって無理なんだもの、しょうがないじゃない、て自分に言い訳して、全部諦め切ってたから」
 きつい口調でそう言って、一瞬唇を嚙む。
 泣いているのに声は全く震えず濁りもせず、まっすぐに彰の耳に届いてくる。
「──わたし、何でもするよ」
 そして皐月は、またそう言った。
「これから先、御堂くんが何か困って、助けが必要だったり、誰かに話聞いてほしかったり、ううん、そんな大げさなことじゃなくても、どんな小さなことでも、わたし御堂くんの為になら何だってする」
 彰の胸の中心を、まっすぐ細い剣が貫いた。
「この先一生、御堂くんの頼みなら何だって聞く。どんなことでも。内臓全部あげたっていい。何だって、するよ」
 彰は自分の肺の中で空気がぱんぱんに膨れ上がって、喉がつかえるような心地を味わいながら、こちらをひたぶるに見つめる皐月を見返した。
 ──ああ、初めてだ。
 熱く沸騰した頭の隅で、そう考える。
 父親も母親も、きっと自分に万一のことがあったら身を投げ出して助けてくれる、そう当然のように信じていた。でもその二人がいない今、そんな人間はこの世にもう誰もいないのだ、そう思っていた。だけどそれは、仕方のない、ことなのだと。誰かの為に身を投げ出せるなんて、親子以外でそうそうある筈がない、それなのに。
 皐月の瞳を見返すと、目の奥がじんと熱くなってきて、彰はわずかに目を細めた。
 まるっきりの、他人なのに、こんなことを言ってくれたのは……目の前のこのひとが、初めてだ。
 自分はこのひとに、いかほどのこともした訳ではないのに。
 ぐっと詰まった喉を何とか内側から押し広げて、彰は音を立てて細く息を吸う。
 目の前で皐月の瞳が、初めてどこか不安げに揺らいだ。
「──ありがとう」
 やっとそれだけ言うと、その瞳がぱっと輝いて、頰にほんのりと赤みがさす。
 顔のまわりまでふわりと明るくなるようなその表情に、彰は心を、丸ごと奪われた。
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