通り雨のような人

文字数 30,304文字

    ⁂

「博さ〜ん」
 その声に反応して振り返ると、黒田ラミが手を振って近づいてくる。それにしても良く通る声だ。まだいくらか距離はあるのにハッキリとこちらまで届く。手を振り返すと彼女は小走りをした。急がなくて大丈夫だよ。履いているミュールが折れないかと心配になり、手のひらを彼女に向けて合図を送るが彼女は止まらない。ヒールがアスファルトを叩く音が近づいてくる。最近みた韓国ドラマの弁護士役のヒロインみたいに、長い髪を靡かせてこちらに向かってくる。その姿をみて惚れ惚れすると同時に、今日も終電まで呑むのだろうなとぼんやりと思った。

    ⁂

 彼女から苗字ではなく、博さん、と下の名前で初めて言われたのはいつからだっただろう。わりと自然に下の名前で呼ばれていた。それに気づかないくらいに本当に自然だった。
 彼女はきっと初対面の人とでもその距離を詰めるのが上手なのだろう。だからといって、馴れ馴れしい感じはしない。むしろ礼儀正しい。言葉づかいも丁寧な印象を受ける。敬語で話をし、お互いの距離を良好に保つ女性には、意外とこれまで私の人生の中で出会ったことがない。

    〻

 彼女とは、ラミとは三線のカルチャースクールで知り合った。
 3年前の春にふと思い立ち、三線を習おうと決めた。その時の私はなぜ三線を選んだのか。それはその前年に沖縄本島に初めて旅行したことに関係する。
 私はこれまで沖縄に旅行することを避けていた。恥ずかしい話だが飛行機に乗ることが怖かったこともある。でもやはり一番の理由は、一緒に行く者がいなかったことだった。もっと若いうちに沖縄に行っておけば人生の価値観が変わっていたのかもしれない、と実際に行った後で後悔が先立った。
 3泊4日の旅だったが、あからさまにすべてが非日常であまりにも充実しすぎたため、旅の終わり間際には心底ここから離れたくないと思った。
 戻ってきた後も旅の余韻が強すぎてしばらくまともには働くことはできず、どこか心はまだ沖縄にあって、まだ自分が沖縄にいるような感覚を何度も味わった。魂を沖縄に落としてきたようなそんな日々を送った。
 だから落とした魂を取り戻しに行かなくてはと、毎晩沖縄に移住をしようかどうか悩んだ。向こうに行ってかかる費用や仕事のことなど色々算段したりして、ある程度の目処はついた。
 しかし行動できない。
 葛藤で悶々とする日々。独り身だからフットワークが軽いはずなのに、どこか制限してしまう自分が恨めしかった。何を迷っているんだ。いっそ早く経ってしまえ。そんな自分と株を守る自分とが毎晩せめぎ合った。
 でも、そんな想いもいつもの変わり映えのない日常が続くにつれて、薄れていき、気がつけば年を重ねていた感じになってしまった。沖縄へ移住することそもそもがそこまでの熱情ではなかったということだろうと自分を納得させたりした。
 沖縄移住を阻んでいた要素としては、仕事と年齢が主な理由だった。すべてを投げ捨ててまで、これまで積み上げてきたものを捨てる勇気が、よく言って平凡な人生を送って自分にはなかったのだ。昔から、危ない橋は渡らないように安全に安全にと両親から教えられてられきた。博打のような人生は打たない。冒険はしない。それはもう私の中に染みついてしまっていた。だから今更だったのだ。

 その旅で、行く先々の景勝地やお店でよく三線の音色を耳にした。どこか心が洗われてゆくような、郷愁を誘うようなその音色に、その時のある出来事を喚起して泪したこともあった。そういう諸々のことが合わさって三線を習いたいとの思いに繋がったのかもしれない。
 沖縄移住は叶わなかったけれど、これからは思って決めたことはすべて行動しよう。もうすぐ40になるのだから思い残すことはないようにと。
 そんな思いを持ち、ネットで調べるとちょうど空きがある三線教室が横浜駅にあり、すぐに申し込み手続きをして入会をした。
 結局1年近くその教室に通った。
 真剣に練習して、課題曲として練習をした━ザ・ブームの『島唄』と民謡『伊良部トーガニ』とネーネーズの『バイバイ沖縄』の━3曲は弾けるようになり、厳しい指導をする講師の先生からも、あんたはセンスがあるねと褒められたりした。その講師の先生は宮古島出身の老先生だった。
 そして上達すると自然と声をかけてくる人たちが増えた。挨拶を交わす程度の関係から、一言二言会話する関係になり、そのうち飲み会にも誘ってもらえるようになった。
 飲み会を開くのが好きだった人達だったから、仲の良いメンバーで週に一度のスクールが終わった後は必ず近所の韓国料理屋で酒を飲むのが常になっていた。
 その私を入れて7人のメンバーたちみんな年齢が40オーバーで、比較的年齢が近かったのもその輪の中にすんなり入れた一因であった。世代共通の話題も山ほど出てきて、あゝそんなこともあったなぁと思い出すようにして彼らの話を聞き、思いっきり笑うことができた。そんな感覚を味わうのは随分久しぶりで、私は自分から率先して話すようなタイプではなかったが、そのメンバーの前では変に気構えることなく、笑いあい、一緒の時間過ごした。
 そのメンバーの中に彼女、黒田ラミがいた。
 ラミという名前も印象的だったが、彼女は一見、清楚な印象を受けるのに、話好きで止めなければひとりでずっと話しているような人だった。
 ━━ラミは喋らなければきっと良い人と結婚できたのにな。
 と、あるメンバーにイジられても、彼女は、
 ━━あたしから喋りを取ったら何が残ると言うんですか?
 といつも真顔で返した。
 ━━いつかあたしの魅力に気づいて、あたしだけを奪い去ってゆく男が現れるんですよ〜。
 ━━それ、DEENの歌ですか?
 とさらにイジられ、メンバーの何人かがその年代的なネタを使った話に気づいて笑う。そこで話を終えないラミは、
 ━━あたし、DEENのライブに行ったことあるんですよ。良い曲いっぱいあるんですよね。
 としたり顔をするものだから、皆のどよめきが走り、また一通りそのネタでメンバーは盛り上がった。
 メンバーの話題はいつも三線を教えている講師の悪口か、ラミのことだった。話の中心にはいつも彼女がいた。彼女には華があった。明るくて笑顔が可愛くて、皆から愛されていた。
 その会でのおかしな決まりごとのようなものがあって、それは韓国の酒、チャミスルだけを呑むことで、ある時、どうしてチャミスルばっかり呑んでいるのかと尋ねたら、
 ━━緑色の空き瓶がテーブルに溜まっていくとなんか気分が昂ってこないか?
 とあるメンバーから逆に訊かれ、私が首を傾げていると、
 ━━韓国ドラマのワンシーンっぽいだろ?
 と別のメンバーが得意げに言う。
 まったくの意味不明で、その真意を考えているとラミが、
 ━━ここにいる人たち、みんな韓国ドラマのファンなんですよ。チャミスルの空き瓶が多ければ多いほど、仲が良くて友情が深いッて勝手に思ってるんです。ホントにバカですよねぇ。
 と私の隣でそう言った後、彼女は手に持つガラスのおちょこに注がれたチャミスルを一気に呷った。すると周りのメンバーはおぉと歓声をあげ、嬉しそうに彼女の持つ空いたお猪口にすぐさまチャミスルを注ぐのだった。そして空になった瓶をテーブルから下げようとする新人の店員がいると本気で怒るメンバーがいる。それを嗜めるメンバーがいる。その様子を見て大きな笑い声を上げるメンバーがいる。いつものことだからと落ち込む店員に優しく声をかけるメンバーがいる。後でラミから教えてもらったがいつものお決まりのことらしく、はじめのうちはまったく面倒くさい人たちだなと思った。
 でもそれは慣れてくると随分違ってきて、久しぶりに味わう学生時代の仲間たちと呑んでいるような懐かしい感覚になった。久しくみんなでわいわいすることなんてなかったこともあるだろう。年を重ねるにつれて、友人関係は萎んでゆき、気がつけば周りは次々と結婚していた。結婚してからは子どもができて、子育てが忙しくなるとさらに関係は疎遠になり、今では学生時代に仲の良かった友人たちとは何年も会っていないし、連絡もなくなってしまった。結婚するとはきっとそういうものなんだろうと思うようにした。
 でもこうして仕事関係とは全く違う場所で、良い意味でこうした能天気な人たちと巡りあうことになるとは思いもしなかった。三線なんかちっとも上手くならないのに、まぁメンバーのほとんどは上手くなろうとする気もさらさらないから、三線教室の後の呑み会が本丸のように、呑んで騒いでいた。そしてその中に私もいる。程なくして私も彼らと同じようにその場ではチャミスルだけを呑むようになった。本当に人生はわからないものだと思っていると、
 ━━まだまだ博さんは韓国ドラマを見足りていないようですね。
 とラミが言う。
 それからというもの、呑み会でメンバーたちから教えてもらったお薦めの韓国ドラマを夜な夜なNetflixで見るようになり、そしてそれにどっぷりはまってしまうのだから、本当に人生はどう転ぶかわからない。

    〻

 でもそんな居心地の良い場もなくなることとなる。三線を教える講師の体調が優れず、休みが続き、講師は地元の宮古島に帰ることになった。私が結局1年続いたというのは、そういうことだ。講座は急に休講になったのだ。
 メンバーはなんとか講座を存続するように上にかけあったが、休講から1ヶ月後代行の講師が来て再開したものの、講師がなかなか固定にならなかった。そしてしまいにはその三線講座自体が無くなることが決まった。運の悪いことに、5万円で購入した三線をちょうど沖縄の業社から届いたばかりのタイミングであった。
 三線講座が無くなり、私を含め、メンバーたちの落胆は大きかった。別の場所で皆で習いにいこうとあるメンバーが提案するも、皆が集まれるような適度な場所はなかったし、じゃあボウリングのサークルをつくろうかと別案を出すメンバーもいたが、みな乗り気ではなかった。それなら、定期的に呑み会を開こうかという案で一旦落ち着いたが、いざその会を開こうとすると、みな集まれない。決めた日にちが近づくとみな都合が悪くなる。それでも人数を絞ってでも会を開こうとするが、2、3人で呑んでもちょっと趣旨が違うんじゃないかという声があがり、結果、講座がなくなって1年が経つ頃には連絡を取り合うこともなくなり、グループLINEは機能しなくなり、連絡を送っても既読にはなるも返事は返って来ないほど、関係は疎遠になっていった。
 あんなに仲の良かったメンバーたちも共通の場がなくなると散り散りになってしまうのだな、と悲しい気持ちになった。2、3人だけでも呑むのを続けていけば良いのにとラミに電話で話したことがあるが、
 ━━みんな緑の空き瓶の数が少ないと悲しくなるんですよ。
 と彼女は寂しい声で言った。
 みんな「緑の空き瓶の数が友情の深さを現す」という理論を信じているのだろうか。でも、今の私にはその気持ちが少しは理解できるような気がする。韓国ドラマをもう50本近く見てきた。確かに見てきたどのドラマにも緑の瓶は登場する。その瓶に韓国ドラマの魂、ソウルのようなものを感じるのは私だけだろうか。それがないと韓国ドラマでないような。いわばあのグループはチャミスルあってのグループだったということになる。
 ━━そんなわけないです。
 とラミに一蹴され、ふと我に返る。そうですよね。
 そして、今となってはそのメンバーで繋がっているのはラミと、龍平だけになった。

    〻

 彼は、笈川龍平はラミのことが好きだった。
 いや、好きだったと過去形にするのは違う。今でも好きだ。
 ━━何か昨日また龍ちゃんから告白されちゃったんですよ〜。
 といきなりラミから直に聞いたのは、三線のグループでの集まりが無くなり、ラミと2人で呑みに行くようになった頃のことだ。
 その頃、頻繁に彼女と会っていた。
 呑みだけでなく、一緒に街に出かけることも何度かあった。その話を聞いた場所は横浜の野毛の居酒屋で、桜木町のホールでコンサートに一緒に行き、コンサートが終わった後このまままっすぐ家に帰るのも何なんでとその店に寄ったのだった。
 彼女は龍平のことを「龍ちゃん」と呼ぶ。彼らは同級生だった。三線の会がいつから始まったのかはわからないが、私が始めたよりも2年前に習い始めたとラミは言っていたから、きっと2人はその頃からの付き合いなんだろう。
 また龍平から告白されたと言っていたから、龍平はそれより前にもラミに告白をしていたことになる。いや、それは一度だけではないかもしれない。私は彼女の言葉に大事な情報が含まれていないかどうかを聞き漏らさないように耳をそばだてた。
 てっきりチャミスルを呑んで楽しく盛り上がっているだけの仲良しグループだと思っていたが、私の知らないところでそんな男女の駆け引きが繰り広げられていたとは想像さえしなかった。
 でもよくよく考えてみたらそりゃあるよなと思い直した。男と女がいればそういう話になる。これまで生きてきて、だいたいそういう場面を目にして経験してきたじゃないか、と自分に語りかけた。
 人は、表は平静を保っていても裏の想いまではわからない。どんなものにでも表があり裏があるのだ。
 ただみんなの前では取り繕うようにして話を合わせて笑っていても、本当は狙った女の一挙手一投足を逐一確認すべくその場に居て、その本心を隠しながら知らん顔をするその行動に私は納得がいかない。そのやましい精神が、正々堂々としていないその腐った心がどうしても私は嫌だ。好きなら好きでみんなの前で告白して振る舞えば良いじゃないか。それで壊れるような脆い関係の集まりでもなかっただろう。みんなでチャミスルを呑んでいる、いわばチャミラーだろ。運命共同体だろ。何を陰でこそこそせわしく動いているんだ。お前らは鼠か。
 考えるほどに苛立つ気持ちを抑えられない私は、この後で三線の会のメンバーに一斉にLINEで報告してやろうかと思いもした。

 龍平は大手メガバンクに勤めている。仕事のことは詳しく聞いたことはないが、大学を卒業してからずっと同じ会社にいると三線メンバーの誰かが言っていたので、それならもう年齢的にもそれなりの役職に就いているはずで、ぱっと見若々しく見えるのは着る洋服が小綺麗だからだと私は勝手に思っている。学生時代ラグビーをやっていたのもあり体格が良いし、週5でジムに通っているらしく身体は引き締まっている。腹は出ていないし、頭も禿げていない。
 ━━龍ちゃんといて楽しいんですけど、付き合うとしたら、う〜ん、どこか違うかなぁッて思うんですよね〜。
 ━━そうですか? 私はお似合いだと思いますけどね。
 ━━え〜⁉︎ 本当にそう思ってますか?
 ━━はい。龍平くんカッコいいし、稼いでるし、それに優しそうですよね。
 本心を隠すのに骨が折れる。
 ━━まぁ見た目は、ですよね。彼が稼いでいるかどうかは知りませんけど、高価なものを身につけていますから、きっとそれなりに稼ぎはあるんでしょうね。それと性格はまぁ優しいかな。そうですけど、優しい人ではあるんですけど、でも、どうしてそんな人が離婚したんでしょうか? 気になりませんか?
 龍平が離婚していたとはその時初耳だった。
 その後ラミからさらに詳しい話を聞くことになる。龍平が3年前に離婚したことや、結婚した相手とは恋愛結婚だったこと。結婚生活は10年続いたが、子どもはいなかったこと。ある日突然奥さんが家を出ていったことなど。その時、別れを告げる簡単な文面の手紙と離婚届が置いてあったという。一気に頭に飛び込んでくるそんな龍平の情報量を猛スピードで処理していった感じだった。
 一方でそこまで二人は、そんな話までする仲なんだとも思った。ラミも龍平に対して満更そこまで悪い印象を持っていないんだと思ったし、よくそこまでの他人の情報をどうして私に話すのだろうとも思った。よく会うようになったからといってもそこまでの年月は経っていない。実際に私は自分の話をほとんど彼女にはしていなかった。
 彼女は性格的に、あった出来事や身の回りのことなどを隠せずに正直に話すタイプだった。彼女と話す回数が増えるにつれて、この頃彼女のことがよりわからなくなってゆく印象を覚えた時期でもあった。真意が掴めないのだ。そういったタイプの人間にはこれまであったことがなかった。だからある意味彼女のことがもっと知りたいと惹かれてゆく時期でもあったと思う。
 自分のことを知ってほしいからか、もちろん何とも思っていない人には、そもそも知ってもらいたいとは思わないんだろうから、やはり龍平はラミが好きなんだとわかる。ラミは口では好きではないようなことを言っているけれど、本当のところはどうなんだろう。からっとした天然系の性格だからやはり本心まで読めない。
 ━━10年も連れ添った夫婦なのに、終わりは呆気なく終わるものなんですかね?
 ラミはテーブルを見ながらそう言った。
 憶測で話はできないので、私はさぁと言葉を濁した。けれど離婚するくらいだ。きっとその原因となる決定的な事件があったんだろう。
 ━━当の本人、龍ちゃんには皆目見当もつかないらしいんですよ。何なんですかね、一体。
 大事なことは話さないんですよ、人は。
 だって自分の評価を下げることを好きな人にアピールしても不利益なだけで、何の得にもならないですよね。そう言おうとしたが変わらず黙っていた。
 ━━きっと龍ちゃんが浮気したんだとあたしは思ってますけどね。
 いや、私は直感的に暴力の方だと思いましたけどね。次にお金絡み。最後に龍平個人の問題。それも言わなかった。本当にラミは素直な子だと思う。今すぐにでもよしよしと頭を撫でてあげたい思いを堪えて、
 ━━でも龍平くんが果たして浮気なんてできる人ですかね? 私には硬派なイメージがありますけど。
 ━━え〜。龍ちゃんが硬派? ないない。実際軽い男ですよ、彼。それによく喋るし。過大評価し過ぎですよ。
 ━━そうですか? 私には龍平くんが軽いだなんて信じられません。
 ━━今度一緒に呑みましょうよ。そうするとわかりますから。
 ━━でも、そういう場ではきっと私がいつも見ている龍平くんになりますよ。
 ━━そうかな?
 ━━そうですよ。
 人はですね、それぞれの場所で違う仮面をつけて役を演じているものですよ。
 喉元まで出かかったその言葉をビールで無理やり流し込む。
 ━━龍ちゃんって、あたしと2人でいる時はみんなといる時と違ってぐいぐい来るんですよ。
 ━━へぇ、そうなんですね。意外です。
 どんな風にぐいぐいなんだろう。気になる。
 ━━博さんからみた龍ちゃんの印象って、きっとあまり喋らなくて、いつもニコニコしているような印象じゃないですか? でもそれはそのグループでの彼の顔なんです。きっと別れた奥さんにはまた別の顔があったんだと思うんです。
 ずいぶん難しいこと言う。
 ━━あなたもそうなんですか?
 私は尋ねた。
 ━━え? どういう意味ですか?
 ━━ラミさんにも場面よって使い分けているそういう顔があるのかなぁって思って。
 ━━う〜ん、そうですね〜。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません。こんな答えじゃダメですか?
 彼女は濁すようにそう答え、手前にある瓶ビールを持ち、自分の空いたグラスに勢いよく注ぎこむ。あまりにも勢いが良すぎたせいで、ビールがグラスから溢れ出てしまった。すぐに近くにあったおしぼりを渡し、彼女は丁寧にテーブルを拭った。こんなコントみたいなことをする子には、きっと別の顔なんてないんだろうな。微笑ましいよ、ラミ。
 ━━変なこと言うから、動揺してこぼしちゃったじゃないですか?
 ━━すみません。
 私の言葉に彼女は笑みを浮かべて首を振る。
 ━━でも博さんは、あまり色んな顔を持ってなさそうですね。いつも冷静というか、落ち着いているというか。あ、悪い意味じゃないですよ。一緒にいて安心感があるんですよね。
 ━━不器用ですから、そんな別の顔なんて持てませんよ。
 ━━不器用? 博さんは不器用じゃないですよ。
 ━━いや、それは違います。私本当に不器用ですから。
 ━━高倉健ですか?
 そう答えると、彼女はくすっと笑った。その笑い顔が可愛くてその場で思わず抱きしめたくなったのを覚えている。
 話をする時、彼女はよく頬杖をついて視線を落とす。もう身体にしみついた癖なんだろう。彼女の横顔はどこか陰があり美しく、度々私の心をくすぐった。ずっと隣で見ていたいと思わせる何かがあった。
 その時は焼き鳥屋のカウンターで横に並んで呑んでいた。その席は焼き鳥を焼く煙が流れてきて時折煙たかった。当然店員は気を遣って、空いているテーブル席への移動を勧めてきたが、笑顔で大丈夫ですと彼女はそれをすぐに断った。彼女の眼には泪が溜まって咳き込んでいるのに、拒否する意味がわからなかったが、あまりにも可哀想だから私の席と交換するが、替わった席にも煙の流れが彼女の方に行き、何だかおかしくて声をあげて笑ってしまう。
「煙にも好かれているんですね」
 そう言うと、
「バカにしてるんですか?」
 と珍しくむっとした。怒っている顔も可愛い。
 それでも、
「焼き鳥屋はカウンターで呑むものですよね」
 と咳き込みながらビールを呑む姿に強いこだわりを感じ、三線のメンバーたちがチャミスルの空き瓶にこだわっていた姿と重なった。実は彼女は頑固なんだと初めて気づかされたワンシーンであった。

 ━━博さんは結婚を考えていないんですか?
 ━━はい。
 断言するように答えたが、それは嘘だった。
 40を過ぎたら、もうこの先独りでも良いかなという気持ちになってくるのは自分だけだろうか。
 決して結婚したくないわけではないが、結婚することはもはや諦めに近い。良い人がいたら結婚したいと思うものの、この先そんな人に巡り逢えることはほぼないのではないか。数少ない出会いの中で狙いうちするほど気力は充実していないし、恋愛の駆け引きのようなものを考えるだけ億劫になる。それにこれから子どもをもうけて自分が親になる。まったくイメージが湧かない。ゆえに私は家庭を持ってはいけないのだ。その責任感の「せ」の字も私にはないし、これからも生まれてこないだろう。でもせめて良い人と巡り合って老後まで良好な関係を続けたいとは思う。
 私にとっての良い人ってどういう人なのだろうか。
 一緒にいて落ち着ける人、楽しく呑める人、家庭的な人、心ときめく人。隣で煙を手で払う彼女をみてもいまいちピンと来ない。
 結婚を考えていないんですかという彼女からの質問自体に、そこまで深い意味を探る必要はないと思うが、きっと彼女は私のことを、何とも思っていませんよと言っているようなものなんだろう。
 ━━どうしたんですか? あたしの顔に何かついていますか?
 ━━す、すみません。
 彼女の言葉に反応して咄嗟に眼を逸らした。見つめすぎていた。
 あゝきっと彼女もいつか《私から過ぎてゆく人》なんだろう。ふと《通り雨》の言葉が頭の中に生まれた。
 そうか。
 彼女からすれば私は《通り雨のような人》なのか。そう思ったら何だか妙に納得ができた。

    ⁂

 ラミと龍平は三線の講座が無くなった後、2人で故郷の宮古島に帰った三線講師の元を訪ねている。
 ラミから、先生にワインを贈りたいので良いワインを知らないですかとLINEで相談されたことがあり、その時多少値段がしても良いならと伝えた上で私が買って、彼女に渡した。その際、私は三線メンバーからカンパをした金額を彼女から受け取っている。
 てっきり郵送で送っているものだと思っていたら、まさか龍平と二人で宮古島まで行って直接渡しているだなんて思いもしなかった。事後報告でそれを聞いた時、驚いたというよりもなぜ私にも声をかけてくれなかったのだと寂しい気持ちになった。たとえ日程的に行けなかったとしても、声をかけてくれるのとくれないでは大きな違いだ。
 三線講師の名は上里といった。下の名前は覚えていない。みんな上里先生と呼んでいた。65才だと本人が言っていたので間違いないと思う。小柄で痩せ型、いつもよれよれの藍っぽい色の着物のような服をTシャツの上に羽織り、下はジーパンという格好だった。
 どうしてあんなよれよれの服を着ているんだと気になっていたら、あれは《宮古上布》というものすごく希少価値のある高価なもので、先生が羽織っているものでも相当な額はするとラミから聞いた。
 気になったので調べたら、《宮古上布》は越後上布と近江上布と合わせて、日本三大上布と呼ばれ、麻織物の最高級品と書いてあった。
 果たしてそれが本物かどうか疑ってしまうことが私の悪いところだが、そんな最高級品なら毎回着ないかもしれないし、確かに見た感じそう言われれば高価なもののように見える気もするが、いかんせんよれよれなので、信じがたい気持ち方が勝ってしまう。
 そんな上里先生はエネルギーの塊みたいな人で、出来ない生徒にはバシバシ厳しいことを遠慮なく言っていた。いや、言っていたというより怒鳴っていたという方が正しい。それも怒鳴り散らかしていた。その声がやたら大きいので近くで聞くと耳がキンキンした。ただその指導は的確で間違ったことは決して言わない。生徒に迎合することもない。だから合う人には合い、そうでない人には合わないとはじめは思っていた。
 ただ不思議なことに、厳しいけれどみんな辞めないのだ。普段あまり怒られないからか、みんな怒られるのを求めている、というと語弊があるかもしれないが、怒られることを待っているようなそんな感じはあった。本当に不思議な光景だった。毎回講座では先生の怒号が響いていた。結果的にその声が出なくなり、そこから体調を崩して、講座は終わることになるのだが。
 また先生の求めるレベルも高かった。生徒たちには単なる趣味レベルに収まらないようになってほしいと常々言っていた。
 ━━停滞することは衰退することなんだ。常に上手くなりたいと思うことが大事なんだ。1日1歩、3日で3歩進むこと。3歩進んで2歩下がったらダメだ。
 方言混じりの言葉で、しかも先生は早口だから、ほぼ正確には聞き取れなかった。後で沖縄出身の三線メンバーにあれは何と言っていたのかを聞き、なるほどと後から理解することが多かったように思う。言葉の意味がリアルタイムで理解できていれば、3歩進んで2歩下がるのくだりの部分は、水前寺清子の歌をもじっていたのが理解できたから笑えたのにと残念に思えた。
 でも実際、年を取った60すぎの人からそんな熱い言葉が出てくるとは驚いたし、本当に叱咤激励されるとは思っていなかったから、それはそれで本当に良い刺激を受けたし、実際にやってやろうという気持ちになったのは確かだ。私は熱を入れて練習を続けた。そのため飛躍的に三線が上達したのは前に述べたことだ。
 上里先生の夢は教え子たちでライヴを開くことだった。それは発表会レベルのものではなく、きちんとお金をとって音楽をお客さんに聞いてもらうことだった。結果的にその夢は叶わなかったが、そんな夢を65才の人が持てること自体素晴らしいことだと思ったし、尊敬を超えて、自分もそのようになりたいと憧れさえ抱いた。
 だから三線講座がなくなって本当に悲しかった。沖縄の旅から帰ってきた時とはまた違う形の、喪失感に似たものが私の中にはあり、きっとおそらく上里先生のような人には今後巡り合うことはないんだろうと思うと、なぜか泪さえ出た。
 本当に人との出会いって長い人生からすれば刹那的なもので、その瞬間を、関係をその先へ持続させるものは、もはや運や縁しかないのかもしれない。
 沖縄は自分が行動すれば移住はできた。
 ただ三線講座の終わりは自分の力ではどうにもならない。私は一度も怒られたことはなかったが、できることならあのキンキンした声で一度怒鳴られてみたかった。
 また《通り雨》の言葉が頭に浮かぶ。
 そうか。
 先生からすれば私は《通り雨のような人》なのか。いや違う。《通り雨》ではなく、《にわか雨》だ。《にわか雨》はもう次に雨が降ることはないのだから。
 そう思ったら何だか急に切なくなった。

 飲み会でメンバーたちは上里先生を散々毒づいていたが、いなくなったらいなくなったで、どこか寂しかったと思う。毒づく空いてがいないのだから、それこそ話のネタもなくなる。先生の話が出ない呑み会は、チャミスルのない韓国ドラマのようだ。本当に先生は皆に愛されていたのだ。
 その人の存在感というのは、いなくなった時に初めて気づかされることが多い。
 厳しかった指導もそれだけ真剣だったからだし、指導者として受け持つ生徒を成長させたい気持ちが熱かっただけに、その指導にも熱が入る。みんなの真ん中でごうごう燃え上がっていた炎が無くなれば、そりゃ物足りなくなって、懐かしくなって、恋しくなって、淋しくなるのだろう。
 飲み会で散々悪口ばかり言っていたメンバーたちは、その愛のある指導を次第に美化していった。代講で来た講師はそれはそれは、まさに事務的な指導で、当たり障りのない指導をしていた。優しい言葉で接してくれて、褒めてくれて、正直ぬるかった。比較対象ができたことで、改めて上里先生の素晴らしさに気づかされたのだ。今では皆口を揃えて良いことしか言わなくなった。
 大事なものは本当は近くにあったんだね、と『青い鳥』のようなことを言い出すメンバーもいた。みんな厳しかった指導を懐かしく、そして恋しく思った。
 
 ━━上里先生元気でしたよ。
 宮古島から戻ってきた直後、ラミから誘われて食事に行った。彼女は私にモンテドールのバナナケーキをお土産でくれた。何でも先生のお孫さんが激推ししたものだったらしい。甘くてしっかりバナナの味がした美味しいケーキだった。
 ━━先生の家族にも会ったんですか?
 ━━はい。先生のご自宅まで届けに行ったので。夜食事までご馳走になって、島の泡盛も頂いちゃいました。先生も気持ちが昂ったのか、気持ち良さそうに三線弾いてましたよ。
 ━━それは良かったですね。
 いつも着ていたあの宮古上布は着ていなかったらしい。
 ━━結局先生の送別会も出来ないまま島に帰ったので、また上京した時には盛大に会を開きますよって言ったら、先生からこっちに来る予定はもうないってはっきり言われたんです。
 ━━そうなんですか。それは残念ですね。
 ━━来年1月にひ孫さんが生まれるみたいですよ。今回のことがあったから、家族からもう東京には行かないでくれって止められたみたいで。初めて知ったんですけど、先生65才ではなく、来年70才になるらしいです。
 ━━え⁉︎ そうなんですか。
 ━━はい。あたしもびっくりしました。70才っていうと生徒たちが自分の話を聞いてくれないと思って年齢鯖を読んだそうです。何か先生らしいですよね。
 ━━そうですね。でも70には見えませんでした。そうすると先生はこっちにいる時は、独り暮らししていたってことですか?
 ━━そうなりますよね。食事とか大丈夫だったんですかね?
 ━━確かにそうですね。でもそれなら食事とか病院とか生活に関わるいろんな面で、家族と暮らす方が断然良いですね。ひ孫さんが生まれるなら尚更、こっちには出ずに向こうでゆっくり暮らすべきですね。
 ━━そうなんです。まぁ、確かにその通りなんですけど、何かあたしの中で何かもやもやしているんですよ。スッキリしないんです。こんな形で終わることが。ろくに先生にお礼をしないまま、これでお終いって淋しくないですか? みんなお世話になったのに、お礼をしないだなんて。こうなるんだったら一度でも、あの呑み会に先生を誘えば良かったですよ。あゝもう。
 ━━そう自分を攻めないで下さい。先生はあなたの気持ち十分わかってくれていると思いますよ。大丈夫です。
 本当に寂しそうな顔をして俯いたので、私は話題を変えた。
 ━━そういえば、あのワインどうでしたか?
 ━━はい。先生とても喜んでいました。これはすごいワインだって先生もわかっていましたよ。その場にいたお孫さんとそのお孫さんの奥さんもそのワインのラベルをみて唸っていましたから。やっぱり博さんにチョイス任せて正解でした。博さんワイン詳しいんですね。
 ラミの声が弾んで表情が明るくなった。
 ━━そうでしたか。それは良かったです。ただそれなりの値段はしました。すみません。
 本当に高価なワインだった。足りなかった分はもしかしたらラミが立て替えてくれたのではないかと勘繰ってしまう。
 ━━心配しないで大丈夫ですよ。先生が喜んでくれたのが何よりです。選んでくれて本当にありがとうございました。
 龍平が多めに出したのかもしれない。そう思うことにして、それ以上はあえて聞かなかった。

 それからその場は、宮古島の話になった。
 泊まったホテルがとても良かったこと、食べた料理のこと、訪れた観光スポットのこと、特に伊良部大橋を通り、伊良部島へ行ったことなどを熱心に語った。宮古島はここ何年かで劇的な発展をし、それは「宮古島バブル」と呼ばれるほどで、将来は「日本のハワイになるよ」とお土産屋のおばちゃんが言っていたという。
 次に話は伊良部島の話になった。
 伊良部島の南区の方は海沿いに綺麗なヴィラが立ち並び、おしゃれな店が増えているが、北区は昔ながらの雰囲気を残してあまり発展はしていないとラミは言う。その雰囲気がどこか心地良くて、特に夕暮れの風景はじんわり感動したと力説した。
 伊良部島北区のAコープというスーパーで買った、ご当地ものの《うずまきパン》を食べ、とろとろした口あたりの《ミキ》や、マミーに近い味がしたらしい《メイグルト》という飲み物なども飲んだ。将来は畑を耕し土に塗れて生きるのも良いかもしれないとまで彼女は言った。農業の大変さも知らないくせに。台風の脅威も知らないくせに。できれば将来そこに住みたいとまで言った。
 ん? あれ? これどこかで同じようなことがあった?
 さらに彼女は微睡むような眼をして宮古島のことを話す。上里先生のお孫さんの奥さんは元は東京の人で、その人と色々な話をしたらしい。島で暮らしてもう何年にもなるが、本当に素晴らしいところだとその人は繰り返し言っていたという。
 ただそんな話はどうでも良かった。
 私が聞きたいのは宮古島で龍平とどう過ごしたのか、だった。
 彼女が話すことのすべてに龍平の影が付き纏った。旅先で行動を共にし、彼女の隣で笑う龍平が疎ましかった。
 頭を振り、想像したその絵を振り払う。やり切れないこの乱れた心を落ち着けるために、煙草に火をつけた。思いっきり吸い込み、煙を吐く。
 二人は付き合ってるんですか?
 その言葉を何度も飲み込んだ。いっそのこと発してしまえ。そう決めてはやめ、決めてはやめを心の中で繰り返した。だから彼女の話した言葉は断片的すぎてあまりよく覚えていない。でも私から尋ねないで良かった。それは嫉妬以外の何ものでもないのだから。
 ━━博さん、今度一緒に宮古島に行きませんか?
 ━━え⁉︎
 ━━博さんと一緒に行ったら楽しいと思うんですよ。博さんも先生に会いたいですよね?
 彼女は会話の流れから社交辞令的にそう言ったのか、本気で言ったのか判別ができなかったが、私も私で、あゝと曖昧な返事をしてその場をやり過ごそうした感はあった。彼女は絶対行きましょうね。約束ですよ、と指切りをするポーズを取った。
 彼女の気持ちがこちらを向いているのかどうか、わからなかった。
 きっと彼女は私以外のどんな人にもこういう態度を取っていて、ただそれはあざといとかそういう類の気持ちが働いているではなく、これが彼女の素の姿なのだろうと思うようになったのは、つい最近のことだ。ほとんどの人はみんな勘違いして、自分に好意を持っているものだと思ってしまう。その際たる者が龍平なんだろう。
 龍平君に気持ちがないんならさ、そんな行動取らない方がいいですよ。
 そう彼女に言ったとして、
 龍ちゃんは友達ですよ。
 と彼女はあっけらかんと答えるのだろう。そして私が、
 男友達と泊まりの旅行に行くって、普通はありえないですよ。
 と返したら、彼女はきょとんとして何を言われているのか理解できない表情を浮かべるのだろうか。それとも自分はただの友達として付き合っているだけですと声を荒げて怒るのだろうか。怒ったとして、それは博さんの考えですよね、と一度も聞いたことのない低い声で私を睨むのだろうか。睨んでほしい。さらにその後、そんな当たり前の価値観に私をはめないで下さい、と蔑んだ眼で私を見るのだろうか。見てほしい。そういう彼女の一面も見てみたい欲求に駆られる。あゝ彼女に徹底的に罵倒されたい。
 熱ッ!
 指先に挟んでいた煙草がフィルターの近くまで火種が近づいていた。急いで灰皿に押し潰すようにして煙草を消す。
 ━━煙草辞めないんですか?
 ━━もうダメです。30になったら辞めようと思ってましたけど無理で、40になって辞めようと思って無理なので、もうこの先もきっと無理です。意志が弱いんですよ、私。
 ━━そうなんですね。あたしは吸わないからよくわからないんですけど、やっぱりやめられないものなんですか?
 ━━何か苛々する時にね、どうしても吸うと気分が落ち着くんですよ。
 ━━え? じゃあ今も苛々してるんですか?
 彼女は眼を丸くするので、私は首を振って、
 ━━いえ、これはただお酒を呑むと吸いたくなる症状です。煙草臭くてすみません。
 そう答えた。一応煙草の煙が彼女の方に行かないように気を遣って煙を吐き出す時には注意をした。
 ━━今は電子タバコを吸っている人が多いですけど、博さんはまだそういう煙草なんですね。
 頷きながら私の指先をじっと見つめる。ばちぱちと煙草の先っぽの火種が音を立てているようだった。
 葉煙草の方がロックンロールだからね。
 そう答えようとしたが、何がロックなんだと余計な質問をされそうなので言うのをやめた。それはそれで音楽の話になる。そうすると好きなミュージシャンは誰だの、バンドはどうだの、の話になるはずだ。無駄に話を広げたくなかった。
 ━━龍ちゃんも博さんと同じことを言っていましたよ。煙草はなかなかやめれないッて。
 ━━え⁉︎ そうなんですか。龍平くんも喫煙者ですか? でも三線のメンバーといる時って吸ってないですよね。
 彼女は頷いて、
 ━━吸ってない人が多いんで気を遣って、みんなといる時は吸わないんです。でもあたしといる時はぷかぷか吸ってますよ。
 意外だった。学生時代のラガーマンのイメージがあり、私の中の彼の像がクリーンな印象があったのかと考えてしまう。
 先入観と怖いものだ。離婚といい、喫煙といい、どうでもいいことではあるが、いくらか龍平に対するイメージを改めなければと思っていると、
 ━━博さんも同じじゃないですか。みんなの前では吸わないですよね。
 とラミが顔を近づけてくる。私は煙が来るから寄らないでほしいと手を出して合図を送る。彼女はすっと体勢を起こしてため息をつく。
 その直後、ラミの携帯電話が鳴った。彼女はすみませんと言ってそのまま電話に出る。電話の相手は龍平だった。私は短くなった煙草の火種を丁寧に灰皿で消して、すぐにもうひとつの煙草に火をつけた。

    ⁂

 ラミは普段外資系のアパレル会社の店長として銀座で働いている。色々と動いていないとダメな気質のようで、
 ━━止まっていると死んじゃいそうなんです。  
 とよく聞かされていた。
 仕事帰りにスポーツジムに通ったり、カルチャースクールで習い事を入れたり、友人と食事をしたりと多忙だ。一度だけ彼女から自身の手帳を見せてもらったことがあるが、カレンダーの日付の枠はボールペンで書かれた黒い字で予定がびっしりと埋め尽くされていた。
 きっと予定していたことがキャンセルになって、そこを埋めるために、自分のような友人に声をかけて誘っているのだろうと思っていた。いつも連絡が急すぎるから、自分は都合の良い飲み友達で、予定を埋め合わせる要因なのだろうと。

「そんなことないですよ。博さんは私の大事な友達です」
 そう言って、彼女はレモンサワーを飲む。
 私たちは多国籍料理の居酒屋にいた。彼女はすでに3杯目で顔がやや赤みを帯びている。入店した時は誰もいなかった店内はもう満席でたくさんの声が飛び交っており、大変賑わっている。ふとカレーの匂いがしたため、隣の席の卓上をさりげなく確認すると、大学生らしき男4人組がカレーチャーハンを大皿から各々の小皿に取り分けていた。
「あのチャーハン美味しそうですね」
 と彼女も気になっていたようなので、
「あとで頼みましょうか」
 と私が小声で言う。
 彼女は笑顔で、そうしましょうと答え、身体を小刻みに揺らす。
「そういえばこの前会った時、この夏に新潟行くって言ってたじゃないですか? 行ったんですか?」
「行きましたよ〜」
 その話待ってましたと言わんばかり顔に出ていた。その後、長い話を聞くことになる。

    ⁂

「でも話を聞いていると、何だかんだで、新潟楽しかったんじゃないですか」
 話をまとめるように、私が答える。
「確かに楽しいことは楽しかったんですけど、後悔はあります。《古町》に行けなかったんです」
「《古町》ってそんな良いところなんですか?」
 私は冷静に返した。
「中学の時、日米修好通商条約って習いませんでした?」
「覚えますよ。習いました」
「その時開かれた港は覚えてますか?」
「函館、長崎、新潟、兵庫、横浜ですよね」
「えっ、そうね」
 彼女は私がずはりと答えられると思っていなかったようでその後の言葉にやや詰まった。
「こう見えても中学の時、歴史得意だったんです。テストで100点取ったこともあるんですよ。さっきの港は、《は・な・に・ひ・よこ》で覚えていました。何10年も前のことなのに覚えているものですね」
「得意だったって、それ早く言って下さい。余計な前置き必要なかったじゃないですか」
「すみません。それで?」
 私は次の言葉を急かすように訊いた。
「他の4つの港は異国情緒漂う街なのに、新潟だけ違うと思ったことってないですか?」
「ないです。考えたこともありませんでした」
「あたしそれがどうしてなのかってずっと思っていたんですよ。ずっとってのはそんなずっとって意味じゃないですよ。だってずっとそんなことを考えていたら怖いじゃないですか? ま、それで、開講した港の話なんですけど、新潟の港って、遠浅で大型の船が入って来られなかったかららしいんです」
 彼女はテレビでそのことを見て知ったと付け足した。確かに、長崎は行ったことがないが、函館や横浜や神戸は街そのものに異国の雰囲気がある。函館などはこれまで何度も行ったことがあるが、建物や教会など異国の雰囲気を想起させるものが多い。
 新潟には何年か前に、バスセンターのカレーを食べに行く目的で行ったくらいで、その時は、イタリアンとかへぎそばとか有名な回転寿司の店などを食べ歩き、ほぼ万代シティの中だけで完結させたようなグルメツアー的な日帰りの旅行だったから、街を観光する余裕はなかった。
「新潟にもそれらしい場所があるってことがわかって、それが《古町》だったんです」
「あゝなるほど」
 私は話を合わせた。
「《古町》の街をぶらぶらして、その空気感をじかで感じたかったんですけどね」
 その土地の空気を感じることが好きなんですね。
「でもどうしてそこへ行かなかったんですか?」
「暑かったからです。ひどく暑くて動く気になれなかったんです」
 彼女はその1日のスケジュールを事細かに話した。旅のはじめに、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』の映画を見たあたり、面白いと感心した。ただ映画の感想よりもラミの印象に残ったことは、これはあくまでラミ個人の感想だが、新潟の人は映画の予告編を見ず、始まる直前にわらわらと席に着くことだったそうだ。
 でも炎天下の中、レンタカーで色々まわれば疲れるのは当然のことで、いくら車の中とはいえ、普段車に乗らない人が知らない土地を運転するのも気が疲れるはずだ。
 一緒に行ったのは会社の同僚だというから龍平ではないことに安心したせいか、話半分くらい聞き流すようにして頷きと相槌だけはしておいた。
「へぇ。そうなんですね。今年の夏はフェーン現象で日本海の気温は異常に高かったんですよね。東京もそうだけど沖縄より暑いってどうかしてますよ」
 私はフォローしたつもりだったが、ラミの反応はなく視線を俯かせた。
 一緒に行った会社の同僚というのは、男なのか女なのかが気になっていた。男だったとしたら、その旅で何かあったのだろうか。いやまさかだが同僚というのは嘘で、本当は龍平だった?
「今日は、この後、龍ちゃんが来るんですよ」
 唐突な言葉に私は動揺した。
「いつも二人だけで呑んでるんだって彼に言ったら、俺も誘ってくれってうるさいんですよ。だから誘っちゃいました。ダメでした?」
 悪びれのない言葉だった。別に全然大丈夫ですよ。
「龍平くんの家って遠くなかったですか?」
「清澄白河ですよ」
「あまりその辺詳しくないんですけど、月島とか門前仲町の方でしたよね?」
「そうですね。少し離れてますけど、だいたいその辺です」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫って?」
「いや、ちゃんと帰れるかどうか心配で」
「大丈夫ですよ。終電には間に合うように帰りましょう。でもいざとなったら、タクシーで帰しましょう」 
「そうですね」
 私たちの住まいは近く、この場所から歩いて帰れる距離にある。終電がなくなって歩いて帰ったことは何度かあったから、最近は自転車で来るようになった。ラミは自転車がパンクして今日は歩いてきたが、いつもは自転車だった。
 龍平からLINEが届いたようで、ちょっとごめんと彼女はスマホと睨めっこするように見て、操作をしている。きっと次に行く店などを決めて送っているのだろう。それからは会話がなくなった。私までスマホを見でしまうと周りからの眼が気になってしまうので、気を紛らわせるように煙草に火をつけた。
 長い沈黙だった。
 さっきまで耳に入ってこなかった店内の有線放送がはっきりと聞こえてきた。ノリの良いアップテンポの曲が流れているなぁと耳を傾けていたら、それは『カンナムスタイル』でラミにも教えてあげようとするが、彼女はスマホに集中しており、流れている音楽までは気にならないようだ。相変わらず店内の喧騒は続いている。
 それぞれが別の場所に思いを馳せるかのように必要最低限の動作をする。グラスを口にやる。指先が動く。視線を飛ばす。決して眼を合わさず、周囲の声と有線放送の音楽だけが時を刻んでいるかのようだった。
 その沈黙は気まずいものではない。
 どちらかが沈黙に耐えきれず、言葉を発しなければならないようなことはなかった。言葉が無かったら無いで、別にそのままの状態でその空間の中に身をおくこともできた。ゆらゆらと中空を漂う煙草の煙のように、いずれその煙は消えてゆく。
 本当にラミといると気を遣わなくていい。落ち着いて過ごすことができる。そういう人にはなかなか出会えない。きっとこの先出会うことはないだろう。彼女も私のことをそう思っているのだろうか。いや、そう思ってほしい。
 切実にそう思った。
 また《通り雨》の言葉が頭に浮かぶ。《通り雨》は、ばっと降ってやむ雨。ただ《にわか雨》とは違って、また降る可能性がある雨。
 私は《通り雨のような人》。
 本当に的を得ているなと思う。
 龍平も同じだ。

    ⁂

 龍平と合流するため店を出た。ぬっとりとした熱気が身体にまとわりつく。もうすぐ10月なるというのに夜でも暑い。
「今年は暖冬ですかね」
 そう言ったラミはすでに足元が覚束ない。彼女はそんなに酒は強くないが、酔ってからの持続が私は長いんです〜といつもと同じ言葉をさっきも言っていた。
「オリオン座って見えますか?」
 とラミが空を見上げる。
「見えるのはもう少し先なんじゃないんですか? オリオン座って冬の星座ですよね?」
 私も空を見上げて探すが、それらしきものは見つからない。街が明るすぎるのだ。空も白っぽく見えてもう少し暗い路地に入らないとわからない。それから星座の話をしながら、私たちは歩いた。
 星座の数は88あって、ピアノの鍵盤も88ある。どうして88なのかをラミはずっと疑問に思っているらしい。ピアノの数の方はどちらもそれ以上は増やせない数で、それ以上増やすと人には不快に聞こえるそうだ。
「でも88って数字、良い数字ですよね」
 ラミが言う。
「だって、8って横にすると《∞》になるじゃないですか? 無限大に広がっているんですよ。つまり、宇宙なんですよ」
 彼女は続ける。
「しかも無限大がふたつもあるんですよ。もはや超無限大で、人智を超えてますね。ピアニストや天文学者ってそんな世界で生きているんですよ。すごくないですか?」
 どう返して良いのかわからず、返事に困っていると、ラミがこう言った。
「龍ちゃんの元奥さん、有名なピアニストだったんですよ。宇宙を相手にする人とはやっぱり考え方が合わなかったんですかね?」
「それは何とも言えないですね。他人が何を考えているのなんて、結局誰もわからないんじゃないですか?」
「どうしてそんな悲しいこと言うんですか?」
 とラミはふっと笑みをつくった。
「すみません」
「真面目な顔して謝んないで下さいよ」
 そう言ってラミは私の肩をぽんと軽く小突いた。そうされたのは初めてだったから舞い上がるほど嬉しかった。しばらくその余韻に浸っていたかった。
「あ、でも龍ちゃんの元奥さんがピアニストだったことは絶対内緒ですよ。龍ちゃんその話になると最近怒るから」
「大丈夫ですよ。私は口が固くて有名ですから」
「一体誰に有名なんですか〜? 博さんって真面目な顔して結構面白いこと言いますよね〜」
 ラミは笑う。
「不器用ですから」
「出た! 高倉健。可笑しい〜」
 ラミは声あげて笑った。ただ笑い声が通りに響いたのが気になったのが、慌てて口を塞ぐ仕草をする。
 本当に無邪気で可愛い子だ。
 クリスマスの時期だったら、その雰囲気に負けて、身体を手繰り寄せて無理にでもキスしていたかもしれない。龍平には勿体無い子だ。君にはもっと相応しい人がいる。
 でもラミ。
 私は龍平の元奥さんがピアニストだってこと、とっくに知っていたんだよ。君と出会う前からね。

    ⁂

 アーケードの商店街を通り抜け、駅前まで戻る形で歩き、賑やかな場所から一本路地に入った場所にあるイタリアンの店に向かう。そこはラミのお気に入りの店で、最近では飲むといつもその店に行っている。何度も顔を出しているうちに店の人たちとも顔なじみになった。私たちにはありがたいことだが、客もそこまで多くないので落ち着いてワインを飲める店だった。
「龍平くんもう来てますかね?」
 そう訊いたら、ラミはスマホを取り出して画面を操作する。
「もう着いてるそうです」
「本当に大丈夫なんですか? 私がいても」
「大丈夫です」
 3人で呑むのは初めてだったから少し緊張をしていた。
 店のドアを開け、中に入ると大勢の人がいた。ものすごい量の声が飛び込んでくる。その勢いに圧倒され呆然としてそのまま立っていると、店主が駆け寄ってきて、
「今日高校の時の部活の集まりがあってこんな状況ですみません」
 と頭を下げた。
「今日大丈夫なんですか?」
 とラミが心配そうに訊くと、店主は、
「大丈夫です。ちゃんと席は用意してありますから」
 満面の笑みで答え、
「奥のテーブルでお連れ様がお待ちになってます」
 と席の方向を指差す。
 散々盛り上がっている人たちを横目に私たちは奥の方へ歩いていくと、隅っこの席でぽつんと座っている龍平を見つけた。申し訳なさそうに背を丸めてスマホをみていたが、私たちに気づくと手を上げて合図をする。
「場所替えた方が良かったかな?」
 ラミが立ったまま、龍平に言うと、
「俺は大丈夫だよ。ここの店美味しいんだろ? 楽しみにしてたからさ」
 龍平は答えた後、ラミの背後にいた私に気づいて、軽く会釈をした。私も反射的に頭を下げる。
 席は二人用の席で、店主がもう一脚椅子を持ってきて、横に付ける形で席をセットした。横の席にはラミが座り、私は龍平と向かい合う形で席についた。
「東山さん何か久しぶりですね。いつ以来ですか?」
 龍平が私を見る。
「去年の11月の頭に、横浜で三線のメンバーたちと呑んで以来なので、約1年近くぶりになるかもしれません」
 私が答えると、
「え⁉︎ もうそんなになるんですか?」
 とラミが横から入ってきて、もうみんなとはそれだけ会ってないってことかぁと独り言のように呟いた。
「ラミとはしょっちゅう何かしらで会ってるからあれだけど、でも東山さんもラミと良く会ってるんですよね?」
「はい。仲良くさせていただいています」
「どうしたんですか、そんなにかしこまって。もっと気楽にして楽しく呑みましょうよ」
 ラミは間に入り、雰囲気を和ませようとする。ただ龍平のラミを呼び捨てにしていることが気に入らない。
 飲み物と料理の注文を済ませ、待っている間、どうしても大声で話し、笑い合って、どんちゃん騒ぎの隣の会が気になってしまい、目で追ってしまう。それは龍平も同じなようで、横の席に座るラミは背後の位置にあたるため、一際大きな歓声が上がった時だけ、ラミは振り返るといった動きになる。
「俺たちの三線会もあんな感じなのかな」
 龍平が隣の席をちらりと見る。龍平の声は低いためあまりよく通らない。私の位置からも聞こえるのがやっとだ。
「さすがにこんなには騒がないでしょ」
 ラミは小声で言う。
「そうだよな。さすがにここまではないよな」
 龍平は腕を組んだ。
 着ている黒のポロシャツはあえて少し小さめサイズにしているのか、腕を組むと腕の筋肉が強調される。さすがジムで日々鍛えているため、胸板も分厚くみえる。
「何の集まりなのかな?」 
 そんな龍平の問いに対して、
「高校のバスケ部みたいよ」
 とラミが答える。
 どう見ても30代よりも上に見える男女だった。おそらく結婚をして家庭を持っている人が何人もいるのだろう。年を取ってもこんな大人数で集まって大声で騒ぎ、笑い合い、呑める関係はやはり羨ましい。私にもそんな集まりがあったら良かった。裏表のない、互いにわかりきった昔の仲間。三線のメンバーたちの顔がふと浮かんだ。彼らも彼らで楽しい人たちだった。それがもう会えなくなった。今ではこの3人だけ。
「東山さんって、学生時代何の部活だったんですか?」
 唐突に龍平が訊いてくる。
「私はラグビー部でした」
「ラグビー⁉︎ マジですか? どこの高校でした?」
 ラグビーの話を出せば龍平が話に食いついてくるのはわかっていた。相変わらずのラグビーバカだ。
 私は簡潔に話をまとめて話した。
 その話をしている間にワインが運ばれてきて、3人でグラスを合わせて乾杯をした。ワイングラスを合わせた時の乾いた音が耳に残る。一口含み、味を確かめる。値段の割に酸味の効いた実に美味しいワインだった。
 龍平はあの日と同じように、同じ質問を私に投げかける。何もかもが同じだ。
 それから話題は、上里先生の話になり、宮古島の話になった。すでにラミからある程度話は聞いていたため、2人が話す内容を理解することはできたが、それでも2人にしかわからない話になった時にどう反応して良いのか困った。
 そうなると私は完全に蚊帳の外で、その場にいてもいなくても良いように思えてきて、堪らず煙草を吸ってきますと言って外へ出た。店内は禁煙で、外の一角にスタンドの灰皿が置いてある。
 ゆっくりと吸い、気持ちを落ち着かせた。
 龍平はまだ私のことに気づいていないのか。
 どれだけ鈍い男なのだ。
 私は苛々していた。
 店に戻ると、一気に色んな声が押し寄せるように飛び込んでくる。隣の会の邪魔にならないように身を屈め、小走りで席に戻ると、2人がスマホを見て笑い合っていた。
「博さん、ちょっとこれ見てくださいよ」
 そうラミから言われ、見せられたのは、制服姿の女子高生たちの写真だった。良く見ると、その真ん中にいるのはラミで、その中でも一際目立って可愛く写っている。
「龍ちゃんこれ見て笑うんですよ〜。ひどいと思いませんか?」
「それは龍平くんが良くないですよ。こんなに可愛いのに」
「いやいや違うんです。俺が笑っているのは、今とまったく変わっていないことなんです」
「それって褒め言葉じゃないですか?」
 と私が言うと、
「違うんですよ。この時のあたしを老けてるって言うんです」
 とラミが言った。
「全然、老けてないですよ。ラミさんは今も変わらず、可愛いです」
 龍平は表情を曇らせた。自分の意見が一蹴されたため、気に入らなかったのか、
「なら、東山さんの若い時の写真みせてくださいよ」
 と突拍子もないことを言ってくる。
「あ、それ私も見たいです〜」
 何故かラミも合いの手を入れる。
「そんか高校時代の写真なんて入れてないですよ」
 ときっぱり断ると、
「大学時代とかのはないんですか?」
 と2人は食い下がってくる。
「そんな昔のものはないですよ」
 それで諦めるのだと思っていたら、
「じゃあ三線会に入る前くらいのものでも良いです」
 と言って譲らない。
 龍平だけならまだしも、ラミもそこに乗っかってくるものだから、手に負えなくなってしまい、断固として断ろうにも断り方を納得できるものにするため、スマホを取り出し、収めている写真を選んでいるふりをして、画面を過去のものへとスライドさせていった。すると、ある一枚の写真で指が止まった。これだ。
 2人の顔を見る。早く見せてくれと眼が訴えていた。スマホを持つ手が汗ばんでいた。胸の鼓動が早くなる。その音が外まで漏れているような錯覚を覚える。私は決断した。スマホの画面を2人の前に差し出した。
 少しの間、時が止まる。
 2人がぴたりと動きを止めて画面に映る情報を頭の中で光速に処理をした時間だった。
「え⁉︎」
 先に声が漏れたのはラミだった。
「これって、龍ちゃん?」
 画面を凝視する龍平の顔が強張っていた。そしてゆっくりと視線を上げて私の顔を見た。また画面に視線を戻し確認する。
「え、この人、博さんなの?」
 か細い声のラミが指した人物は、まさしく正真正銘の私だった。
「本当に博さんですか? 全然違う人じゃないですか?」
 私は頷く。
 大きな音を立てて椅子を倒して立ち上がった龍平は私のスマホを取り、
「東山さんちょっと外に煙草を吸いに行こう」と低い声で言った。私は黙ってその後について外に出た。ラミは固まったままでこちらを向こうともしなかった。
 外に出た龍平は明らかに動揺していた。
 煙草を咥え、ライターをカチカチと弾くがなかなか火が点かない。やっとのことで点けた煙草を大きく吸い込み、時間をかけてゆっくりと吐き出した。
「どうなってんの? 色々と頭が混乱しているんだけど」
 龍平は鋭い眼光で私を睨むが、その声は震えていた。
「ようやく思い出してくれましたか?」
 私は冷静に言葉をつくる。
「その声、お前は成島博美なんだな?」
「はい。思い出してくれてありがとうございます。すごく嬉しいです」
「整形したのか?」
「はい」
「苗字が違うのは?」
「両親が離婚しましたから、今は母方の姓を名乗っています」
 龍平は黙っていた。煙草を吸い、煙を吐く。それを繰り返しているだけだ。彼はこっちを見ずに、手に持っていたスマホを私に返した。私はそれを受け取ると画面を消してポケットにしまう。
「この写真、申し訳ありませんでした。やはり彼女に見せたらまずかったですか?」
 龍平は何も答えない。
 さっきラミに見せたのは、龍平とホテルのベッドで自撮りした時の写真だった。2人とも上半身を露わにした状態で写っている。
 言い訳のしようがない証拠。
 本来は元妻のピアニストに見せつけるつもりだったものだ。それをまさかラミに見せるだなんて。ついさっきまで考えてもいなかったことだ。場の流れでそうなった。もう後には引けない。
 これであなたとラミはもうお終い。決定な事実をラミに突き出したのだ。少し残念だけど私も彼女とはもうお終いになるのかな。でもそれが正しい形か。事は行き着くべきところにしっかりと収まったように思えたが、どこかしっくりこない。ある何かが欠けているような感覚があった。だから私はその何かを探そうと話を始めた。

    ⁂

「あなたのことは別れた後ずっと探していました。それこそ2人で行ったお店、ホテル、公園、あらゆるところを探しました。でもそもそも探しようがなかったんですよね。だって私はあなたのフルネームも知らなければ、どんな仕事をしてるかもまったく知らなかったんですから。肝心要の携帯電話も着信拒否されているのか、まったく繋がらないし、メールもそのうち送れなくなって、そのうちあなたの携帯番号も使われなくなってしまった。携帯を変えたんですよね?
 あなたには想像できないでしょうね。あなたと別れた後の私のことなんて。私は途方に暮れましたよ。はじめはあなたのことを忘れるために、新しい生活を沖縄でしようと思いました。でもそれは《逃げ》なんじゃないかって思い直したんです。すんでのところで踏みとどまりました。そして単調な毎日を繰り返していれば、またどこかで必ずあなたに会えると信じることにしました。それがいつになるかはわからないけれど、その日が来るまで、いえ来ると信じて自分を磨きながらその日まで準備して過ごそうって決めたんです。
 ある日、思い立って三線を習おうと決めて、何気なくネットを見ていました。するとあるホームページに目が止まりました。それは三線講座の授業風景でした。あの上里先生と共に三線を弾く何人かの様子が画像でアップされていて、あれ? って思ったんです。
 何かの見間違えじゃないかって目をこすりましたよ。でも何度も良く見てもそれは間違いなくあなただった。その時のことは今でも鮮明に覚えています。生まれて初めて身体が震え上がりました。神様が私たちを引き合わさせてくれたのだと思いましたよ。そして私はすぐに手続きをした。
 再び再会した時のことはあなたは覚えていないんでしょうね。苗字も変わっていたし、顔も変わっている。ただ声は変わっていませんから、すぐに気づいてくれるんだと思っていました。でもあなたの視線が私には向いていないとすぐにわかりました。でもそれがどこに向いているのか、正直わかりませんでしたし、あなたは自分の気持ちを隠すことが本当に上手で、狡猾ですよね。私と交際していた時期にあのピアニストとも関係を持っていただなんて知りもしませんでした。女の勘ってやつもあてにならないんだなって思いました」
 そこまで話した後、私は一息つくように煙草に火を点けた。
 龍平は俯いたまま黙っていた。指先挟んだ煙草は火種の部分が長くなり今にもぽとりと落ちそうだった。
 外にいても店の中にいる人たちの声は漏れて聞こえてくる。この場とは対照的だ。
 あ、そうだ。
 中にはラミがいる。今頃ラミは独りテーブル席に座り、頭を抱えて項垂れているのだろうか。いや、ラミのことだから案外けろっとしているかもしれない。
「そうか、ラミか。ラミから聞いたのか」
「はい。あの子がお喋りで助かりました。要らんこともべらべらと話して聞いている方が大変でした。でもそのお陰で私は色んなことが知ることができました。だからあの子には私感謝しかありません」
「っていうか、お前一体何なんだよ! すげえ怖いんだけど。顔を変えてまで俺の前に現れてさ。何がしたいんだよ。お前とはもう終わってるだろ! きっぱりと別れただろ!」
 声を荒げることは想定済みだったから、別に驚きもしなかった。自分に都合が悪くなると怒ること。前と全然変わってなくてむしろ安心した。
「今別れたと言いましたけど、私は別れたつもりはありません」
「は?」
「あなたが一方的に私の前から消えたんです。単にそれだけですよ。別れ話をあなたからは一度だって聞いたことはありません」
 冷静な物言いが余計に癪に障ったようで、
「そんなの連絡が取れなくなったら、普通は別れたって思うだろ」
「その普通って何ですか? あなたの言う普通が良く理解できません。私はあなたと連絡が取れなくなってから、あなたの身に何があったんじゃないかって思って夜も眠れなかったんですよ。事件に巻き込まれたんじゃないかって本気で思いました。事故のニュースが流れる度にびくっとしてまさかあなたじゃないかって」
「気持ち悪いな。そんなこと普通考えねぇって。いなくなったらいなくなったでもう終わりなんだよ、普通。そこまで俺たちは長く付き合ってた? 半年くらいだったか? あんま覚えてねぇけど、そんなの付き合ったうちにも入らないんじゃないか?」
「期間の問題じゃないんです。想いの問題です。何10年も付き合ったって、そこに想いがなかったら、男女の関係なんてないようなものです。私はたった半年だったけど誰よりもあなたを愛していたという自負はあります」
「悪いな。俺にはそんな想いこれっぽっちもないよ」
「別にあなたに想いなんてなくてもいいんです。私があれば」
「はぁ? まったく話にならねぇな」
 龍平はため息をこぼす。
「って言うかお前が普通じゃないんだよ。普通のヤツがこんなことすると思うか? 本当に頭イカれてんだな。このクソ野郎」
 そうだ。そうそう。もっと汚い言葉で私を罵ってほしい。私の心の中は踊っていた。ぞくぞくして身体が震えてくる。
 その勢いで殴ってもいいんだよ。そういう準備も出来ているんだから。私は切実に胸中で訴えるが、手は出てこない。それなら胸倉を掴んで凄んでほしい。あゝそうしたらきっと気絶するほどの悦びに満たされると思うから。さぁ早く。
「ラミさんとは付き合ってるんですか?」
「もうお前には関係ねぇ話だろ!」
「今日来て、私に何を話そうとしていたんですか? わざわざ月島あたりからここまで来るって何らかの理由があって来たんだと私は思うんです。それを教えてください」
 彼は私の言葉を完全に無視した。私は続ける。
「まさかとは思いますが、私に結婚の報告をするつもりでしたか? いや流石にそれは無いですよね? え、あれ? 黙っているところをみると、やぶさかでもない感じですか?」
 黙っていることからその線もあるような気もするが、さすがには結婚というのは話が飛躍しすぎているかもしれない。不確かなことで話を展開しても時間がかかりすぎるし、鎌をかけるような言い方をしても、事実には辿りつかないと思った。だから問いかける対象をラミに変えてみる。
「あの子は諦めてください。あんな純粋で良い子滅多にいません。天然記念物と言ってくらい、希少価値のある子、そう、宮古上布のような人です。
 正直あなたには勿体ない人なんです。いや、勿体ないではないですね。そもそもが釣り合わないんです。
 どうかあの子を傷つけないでください。それだけはお願いします。前の奥さんの、そして私の二の舞になることは目に見えているんです。あなたはラミに奥さんが何も言わず出て行ったって言ってたようですけど、それはあなたでしょう? あなたから去ったんでしょ?」
「あの腐れ女は何でもべらべらと喋るんだなァ。まったく信じられねぇよ」
「そんな言葉は思っていても口に出したらダメです。しかもそんな言い方は無いです。常識もなければ、モラルもない。本当にあなたは救いようのない人ですね」
「うるせぇんだよ! もうそれくらいでいいだろ。俺が悪かったって謝りゃいいのか? それで気が済むんならいくらでも謝ってやるよ。でさ、結局お前は何がしたいんだよ。もう一度俺と寄りを戻したいのか?」
 私は静かに彼の眼を見つめた。
 早くこの場から離れたい。そんな一心なのだろう。面倒なことは早く収めたい。真剣な話をするのを避けるのも変わっていない。
 あの時、私が結婚をしたいと言った時もはぐらかされ、軽くあしらわれた。その時の悔しさと屈辱感は今でも忘れてない。一度だって忘れた日はない。
「まず、私の前で土下座をしてください」
「は? 土下座? 何でだよ」
「何にも言わず私の前から去ったことを詫びて謝ってください」
「何でたったそれだけのことで土下座しなきゃなんねぇんだよ。意味がわからねぇよ」
 プライドが高い男だ。やるわけがない。これは想定済みだ。私は煙草の火種を地面に擦って消し、灰皿へ吸殻を捨てた。
「じゃあ次です。今すぐあの子のところへ行って、別れを告げてください」
「はぁ〜⁉︎ 何でだよ。理由を言え、理由を」
「あなたはバカなんですか? 理由はさっきはっきりと言ったじゃないですか」
「……それも無理だ」
 弱々しい声だった。
「どうしてできないのですか?」
 この場に来たのは結婚報告と思っていたがそれは違うようだ。なら交際報告か。いやこれまで聞いたラミの言葉からまだそこまでの関係ではないだろう。
 そうか。
 宮古島まで一緒に行ってもまだその関係は始まってもいなかったのか。龍平の一方的な片想い。なら本当に龍平は今日単に飲みに来ただけ? いつものように、一友人として遊びに来ただけなのか。わざわざこんな遠いところまでやってきて終電には帰される。でもラミとくっつくチャンスがあわよくばあるんじゃないかと期待して来た。バカなのか。実は龍平は、ラミの手のひらの上で転がされているんじゃないか?
 でもラミは決して転がしているなんて思っていない。彼女は彼女らしく、自分の意思に従って行動している。周りを振り回している感覚なんて持ち合わせてはいない。純粋がゆえに罪な女だ。
「わかりました。では最後です。あなた、また私の前からいなくなってください」
「は?」
「私ね、あなたをあのホームページで見つけた時、本当に心から震え上がったんです。かつてないほどの震えでした。同時にかつてないほどの快感を覚えました。あの時の感情をもう一度味わってみたいんですよ」
「……」
「できれば会社を辞めて遠くの方へ行ってほしいですね。私の思いもしないところへ。で、何年もかけて私はあなたを見つけます。必ず見つけます。だから早くどっか遠いところへ行ってください。そうしないと私はあなたの近くにずっといて、あなたを見ていますよ。ずっとね。そうそう警察なんかに相談に言っても無駄ですからね。何の事件性もないこんなことに構っていられるほど警察は暇じゃありません。そもそも事件にならないと警察は動きませんよ。あ、そうだ。私、あなたの勤め先も住所も知っていますから。地方に転勤願を出すなんてのはどうですかね? でもそうしたら出世レースから脱落ですか」
「よくもまぁそんなぬけぬけと、もうあきれてものも言えないわ。そこまでしたらもうストーカーだな」
 龍平の言葉にさっきまでの勢いはない。終わりが近づいていた。
「ストーカー? そんな言葉は心外です。そもそもあなたと再会してから付き纏っていないじゃないですか」
「同じようなもんだよ。ラミの近くにいて俺の情報を聞き出していたんだから」
「いや私は聞き出したことは一度だってありませんよ。これは断言できます。あの子が一方的に話をしているのを、私はただ聞いているだけです」
「わかった。わかったから。もういいだろ。もう沢山だよ。もうこれぐらいの勘弁してくれ。今日は俺もう帰るから。な? あ、逃げるわけじゃないからな。何か頭痛くなってきたんだ。朝から体調が悪いんだよ。もうきちんと話せる状態じゃないんだよ。こんな形でこの場を終わらせて悪かったよ。近いうちにちゃんと時間取るから。しっかり話してやるからさ。改めてまた今度ゆっくり話そうよ、な?」
 一方的にそう言って話を強引にまとめた龍平が、店内に戻ろうと踵を返したところで、いきなり動きを止めた。彼の視線の先にラミが立っていた。
 ラミは顔を引き攣らせて笑みをたたえていた。
 あゝそんな顔もできるんだな。可愛い。今すぐ頬を撫で撫でしてやりたい。ラミは本当に引き出しの多い子だ。
「ラミ、違うんだよ」
 龍平はすぐに言葉を継ごうとするが、ラミの平手が龍平の頬を捉える方が早かった。乾いた音がした。それから彼女は私の方を見た。その眼には泪が溜まっていた。艶やかなその唇が小刻みに震えている。
 ラミは何を言うんだろう。
 その言葉を期待して待った。
 龍平はぶたれた頬を触り、項垂れている。
「サヨナラ。二人とももう二度と連絡してこないで」
 彼女はたったそれだけを言い、足早にその場を去っていった。走り去るわけではない。長い髪を靡かせ、颯爽と歩いてゆくその姿にやはり韓国ドラマでみたヒロインを連想してしまう。
 とても綺麗だ。ヒールが規則的に地面を叩くその音にも、無言の怒りが込められているようで、ぞくぞくと心が震えた。
 あゝこういうことでも私はこういうことでも悦びを感じるんだ。
 それは初めて気づいたことだった。ラミに感謝しなければならない。
 でもラミはきっと私とはもう縁を切るつもりだろう。そうするともう会えなくなるのか。それはそれで悲しい。
 目の前に呆然と立ち尽くす男。
 憐れな男だ。
 こんな男をこの先も追いかける意味があるんだろうか。
 そんなことを考えたら、波が引くように、さっきまで昂っていた感情が徐々に引いていくのがわかった。そして一気に心が空っぽになってしまったような気になる。
 私ははっとして、ラミの姿を確認した。
 その距離は大分離れてしまった。彼女の姿が遠ざかってゆく。彼女が歩いてゆく方向は彼女の家の方向だった。追いかければまだ十分に追いつく距離である。もう地面を叩くヒールの音は聞こえない。彼女の姿が消えてなくならないよう、私は彼女との距離を詰めなければいけない。
 そう思ったら、自然と意識はラミの方へ向いていた。私は急いで店内に戻り、どんちゃん騒ぎの人たちには目もくれず、一目散に座っていた席に戻り、荷物を取って店を飛び出した。そしてラミの後を追いかけた。
 程なくしてぽつぽつと雨が降ってきて、私の身体にあたる。
 この雨が《にわか雨》だといいんだけどな。
 そんなことを思いながら、私は走り、ラミを追いかけた。心はまた踊り始めていた。

 

                  《了》
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