第1話

文字数 1,755文字

 日米安全保障条約第六条は、在日米軍がその任務を達成するために、日本国内の区域及び施設を利用できることを定めている。
 さらに、地位協定第十二条第四項によって、任務達成のために必要な労働力は、日本政府を通じて充足することができることになっている。
 基本労務契約は、米国の歳出予算で運営される業務に就く従業員。
 水原純一が勤務するA.P.O.(Army Post Office)の日本人職員はその位置にある。
 日本の郵便局員だった水原が、紆余曲折の末にたどり着いた職場である。
 母親の不貞から始まった家庭崩壊。高校進学を断念し、水原は十五歳で社会人になった。
 教科書どおりが通用しない激流に流されながらも、水原は這い上がる道を探った。
 郵便局員の採用試験を受験したのは、受験資格に、「高等学校卒業もしくは同等の学力を有する者」とあったからだった。
 幸運にも水原は中卒ながら合格した。
「国民全体の奉仕者として……」
 真新しい制服を身に着け宣誓した喜びも、わずか一年で消え失せた。
 公労協(公共企業体等労働組合協議会)のスト権ストに巻き込まれ嫌気がさした水原は、あっさりと依願退職をした。
 その後、労使関係の改善が耳に入ってくると、水原はかつての組織が恋しくなった。
 一次試験が通って二次の面接で試験官から、「今度は辞めないよね」と念を押されたのにもかかわらず、翌年の人事異動でやってきた上司が気にくわないとの理由で、水原はまた辞めてしまった。
 せいせいした気分で職安通い。
 窓口で紹介されたのが米軍基地内の仕事だった。使われる通貨はドル、基地の中は異国だった。
 電車で通うアメリカの郵便局。作業は郵便物の発着、差立て、区分と、英語力をさほど必要としないオペレーション業務だった。
 三年ほどたったころ、都心の職場に欠員が生じ、水原が異動となった。
 スーパーバイザーと二人っきりの職場で、英語が必須の環境だった。
 英語の習得に近道はない。日々の業務は接する人の思いやりに支えられた。
 水原が電話の応対に苦慮することがなくなったころだった。
「キミの職は今度等級が上がります。窓口業務もすることになります」
 青天の霹靂だった。
 裏方が表舞台へ。水原は無理だと思った。
 切手やマネーオーダー、お客様と英語でやりとりをするのである。
 プロモーションにあたってボスに呼ばれたときには、水原の心は決まっていた。
「日本でアイスホッケーの試合が見られるとは思わなかった」
 水原と観戦に連れ立ったフレンドリーなボスだった。
 その人に退職を願うのはつらかったが、母国語でないのが幸いだった。水原は台詞を喋るように英語で意志を伝えることができた。
 その時だった。
「水原さん……」
 傍らにいた日本人秘書の能見静子が、驚いて声を上げた。
 ボスが何か言おうとするのもかまわず、能見は言葉をつないだ。
「あなたの勤勉と努力が認められたのですよ。これは、あなたのために用意された席だと言っても過言ではないと思います」
 ボスは能見の日本語を理解しているようだった。そのとおり、というように、うなずいていた。
 学歴も家柄も路傍の石に過ぎなかった水原にとって、このプロモーションは、まさにアメリカンドリームだった。
 窓口業務初日は、折しもクリスマスシーズン。
 パッケージやグリーティング・カードなど、クリスマス必着のデッドラインが近いため多忙だった。
 そんな中、品のいい高齢の婦人が窓口のカウンターに忘れ物をした。
 後日、館内で、水原はその婦人を見かけた。
 保管していた婦人の忘れ物を取りに局に戻った水原は、急ぎ足で婦人を追いかけ呼び止めた。
 振り返った婦人は、水原が手にしているものを見て、顔をほころばせた。
 クリスマスイヴが近づいたある日、窓口を訪れたその婦人から、クリスマスパーティーへの招待を受けた。
 そして、その時初めて、水原は婦人の名実を知った。
 知っていれば姿勢を正さずにはいられない地位にある人だった。
 婦人の謝意の一言が、水原には、それもまた、「夢のような」アメリカンドリームだった。
                                      おわり

この物語はフィクションです。
実在の人物、団体、事件等とは一切関係ありません。
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