こころのこり

文字数 1,634文字

 あなたになにか心残りがあるとき、残されたあなたの心はあなたから切り離され、その場所に置き去りにされる。わたしは緑文化小劇場に置き去りにされたあなたの心残りで、この場所から出ることはできない。
 わたしはあなたにこの場所に置き去りにされるまで、たしかにあなたと同じわたしだったはずなのだけど、気が付けばわたしはホールを去るあなたの背中を見送っていて、自分がこの場所に置き去りにされたあなたの心残りなのだということを理解している。
 この場所はあなたが心を残した瞬間から時が止まっていて、誰もいないし、誰もこないし、なにも起こらない。中央にスタインウェイのグランドピアノが設置されたステージと、無人の客席があるだけだ。わたしは試しに客席中央の座席に座ってみるけれど、座ったからといってなにが起こるわけでもない。この場所は完全に止まっていて、終わっている。
 わたしはあなたの心残りのはずなのに、なにがあなたの心残りだったのかはわからない。わたしはピアノのコンクールのあと、この場所に取り残されたのだから、きっとそこになにかの心残りがあったのだろうとは思うけれど、わたし自身に心残りがあるかというと、そんなことはない。
 たしかにすこしトチッてしまったし、完璧とは言い難い演奏だったけれど、でもそういうところまで含めたものが今の実力なのだし、仮にひとつのミスもなく練習の通りに完璧な演奏ができたとしても、本番でなにかの奇跡が起きて普段以上の力を発揮できていたとしても、どっちみちわたしが優勝するなんてことは絶対になかっただろう。わたしはもともと、それほどピアノが上手ではないのだ。
 わたしは母の意向でほぼ強制的にピアノのレッスンに通わされていただけで、ピアノが好きなわけではまったくない。コンクールだって、とにかく早く演奏を終えてしまいたかっただけだったし、演奏も完璧ではなかったけれど、まあこんなもんだろうと納得してはいた。早くステージ衣装を脱いで楽な服装に着替えたい、といった程度のことしか考えていなかったように思う。この場所に、心残りなどあるはずもない。
 けれど、現にわたしはここでこうして取り残されているのだから、あなたにはなにかの心残りがあったのだろう。
 どうして心残りのあったあなたではなく、心残りのないわたしがここに取り残されているのだろうと、あなたを恨むような気持ちもすこしはあるけれど、あなたのいない場所に置き去りにされてしまったわたしには、あなたを責める手立てはないし、実際、責めるというほど積極的な感情はない。なにしろ、わたしはあなたとまったく同じものなのだ。
 なぜあなたではなくわたしなのかといえば、それはただのたまたまで、あなたが心を残した瞬間に分裂したわたしAとわたしBのうち、ランダムなわたしがここに残り、もうひとりのわたしが去っただけなのだ。そして、去ってしまったあなたは、わたしをここに置き去りにしたことにさえ気づいていない。わたしと同じように、誰もいない、なにも起こらない、時の止まった場所に取り残されてしまった瞬間にようやく、自分が今までいろんな場所で、たくさんの心を残してきたことに気づくのだ。
 わたしをこの場所に置き去りにしたあなたのうちのいくらかは、また別の誰もいない、なにも起こらない場所に取り残されて、これまで自分がたくさんの心を様々な場所に残してきたことを自覚しているのだろう。ときおり発生する二分の一の賭けに無自覚なまま勝利し続けている、たったひとりのあなたは、なにも知らないまま、わたしとして生きているのだろう。
 この場所で、他になにもやることがないわたしは、仕方なく、誰もいないステージで、永遠にスタインウェイのピアノと向き合っている。
 せめて、あなたがなるべく心残りの少ない人生を歩めますようにと願いを込めて、誰もいない、なにも起こらない、完全に時が止まったこの場所で、ひとりピアノを弾き続けている。
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