第12話再びソナタ

文字数 1,663文字

 河口間近の川を小型フェリーで渡ることを予測していた律子は、前方に現れた巨大な斜張橋を確認すると、自分がこれから向かおうとしている寒村地帯はもはや存在せず、何もかもが近代化され、変わり果てた光景が、海沿いの丘陵地帯のその果てに広がっているのではないかと感じた。そうでなければ、繋ぐというニーズがなければ、このアイランドに点在する過疎地の人々をことごとく吸収し、何もかもが世界と連動しているような顔をしている左岸後方の都会と、当時としては、もはや住むに値しない右岸一帯が、あのような巨大な構造物で結ばれるわけがないと律子は思った。
 律子は橋中央の駐車帯に車を滑り込ませた。遠くに河口を望む展望スペースには数人の人影があった。彼女は車を降りると、橋中央に張り出す展望スペースに歩み寄る。欄干から川を見下ろす。右岸にあったはずの粗末なフェリー乗り場は既になかった。律子は河口から遡上してくる春風を浴び、遠くの光る海原を見つめた。すると、展望台のモニュメントを眺めていた女性が律子に気付き、もしかして―と語りかけてきた。もっとも、誰かが律子に怪訝な表情で話しかけることは珍しいことではない。彼女は仕事の傍ら、地元ローカル局にレギュラー出演していて、司会が注目に値するような出来事や人物を紹介するたびに、相槌を打ったり、もっともらしく微笑んでいたりしていた。最近では慈善団体のパーティーや地元企業のPR演奏にも頻繁に出向くようになっていた。そんな彼女に対し、眉をひそめる仲間も多かったが、楽団の経営状況を思えば、それもいたし方がないというのが彼女の考えだった。
「あら、ごめんなさい。よく声をかけられるんでしょ?」
 女性の髪はベリーショートにカットされ、絞まった体には黒いパンツにアイヴォリーのシャッツ、黒いジャケットが添えられている。生え際の白いものや目じりの皺を見る限り、自分と同じ五十代後半と律子は踏んだ。しかも、自分のほうが体系的に、まだ、メリハリがあるとも。左岸から二〇㌔後方の大都市ではないにしても、その手前の港町に住んでいるというので、右岸から一〇㌔ほど北上したところにある寒村について何か知らないかと律子は訊ねた。「海岸の丘陵地に教会のある町なんだけど」と言ったが、「教会に隣接する診療施設」については口に出さなかった。
「高台の上に教会のある町なら知っているわよ」と女性が答える。「ただ、教会はもう取り壊されて、老人ホームになっているけども。私たちそこから戻る途中なの。夫の義父が入所しているものですから」と言って、モニュメントの脇に立つ男に視線を向ける。陽がわずかに傾いたような気が、律子にはした。「失礼ですが―」と発した律子の口が「隣の診療所は?」と言った。思わず飛び出した自分自身の言葉に胸のどこかがたじろいだような気がした。女性は「診療所?」と言って、律子の顔を覗き込む。律子は「昔、あったと記憶しているんですけど、それで?」と重ねて訊ねた。女性は「仮にあれが診療施設だとしたら、私が嫁いできたときには既に廃墟になっていましたわね」と言って、男に再び視線を送る。男が待ってましたとばかりに、二人に歩み寄り、サングラスを取ると「よくテレビで拝見していますよ。定期演奏会も―」と言った。女性は夫に「お義父の望郷の施設の隣の廃墟だけど、あなた何か知っている?」と訊ねた。
 男は「あぁ、あの診療施設だね」と、律子の目元を見つめる。もうとっくの昔に廃墟になってしまったとも言った。
「その廃墟が何か?」
「いえ、大したことではないの。以前、知り合いの方が働いていたものですから」
「あなたと知り合いなんてうらやましい限りね」
 女は夫に歩み寄り、律子に微笑みかける。
 男は「今はもう何もありませんよ。昔は多くの子供たちが送り込まれていたけど」
 律子は、それには答えず、河口方面に視線を流す。
 男は「あっ、余計なことを言ってしまって」と気まずそうに律子の背中を見つめた。
 律子は「望郷」と心の中でつぶやいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み