第1話

文字数 1,198文字

 二十歳の私は、日々をくだらない放蕩に費やしていた。そんなとき、聖書の一節がとりとめもなく記憶の表層をなぞった。それは数年前、甘ったるい姉の部屋で盗み見たものだった。それも感嘆し、感激し、ときおり身体を震わせながら。
 それに比べて今の私は、若者らしい熱っぽさをすっかり失っていた。一字一句をも逃さぬように、眼を開いて読んだ聖書。あの感激を再び取り戻すことはないだろう——講義を聞き流しながら、私は漠然とそう思った。
 その頃の姉は基督の高校へ通っていて、いつまでも新品同然の聖書を毎日カバンに詰めていた。畢竟、彼女は不真面目だったのである。その反対に私は、姉が抱える小綺麗な書物に対する中学生特有の好奇心が芽生え、中身を暴いてやろうと部屋へ忍び込むようになった。
 部屋へ入ると聖書はベッド脇に立てかけられていて、相変わらず傷ひとつ見当たらない。私は未知のものに対する妙な興奮を覚えながら、その表紙を開いた。所々知らぬ単語はあるが、大筋はわかる。進んでゆくと教訓めいた説話が散見されるようになって、私は悩める青年なりに心を打たれながら、時を忘れて耽読した。言葉の底知れぬちからが、私を体ごと聖書に引きずり込んでゆく——青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。年を重ねることに喜びはない、という年齢にならないうちに——。
 大学三年のある日、私は行きずりの古本屋で目的のない立ち読みに時間を潰していた。近頃はひどい不眠症で、その日も足がふらふら揺れた。午前四時に眠っては、早朝のけたたましい蝉聲に叩き起こされる日々が続いていたのである。
 私は虚ろな目を棚に向けつつ、そこから無為に新書を抜いた。それは『眠られぬ夜のために』という書であった。私は、これが何か予め用意された出会いのように感じられて、思わず紙片を捲った。そこには思いがけず、啓示のことばの数々がひそやかに安らいでいた。アーケードの入り口から射す夕日が黄ばんだページに光を与えて、やさしく明るむ。理路整然と並んだ文字のひとつがときおり白く飛び散って、脳裏にあの熱心さが蘇ってくる感じがした。暗闇に弾ける発煙筒のように、暴力的で衝動的な熱が体の内部に篭ってゆく感覚。掴めぬほどに鋭く凝縮しているようであり、捉えられぬほど爆発的に膨張しているようでもある。頬が燃えるように熱い。物足りなかった日々が、この瞬間をきっかけに無限の色彩を帯びてゆくように思われた。血潮が足先から頭顱(とうろ)までを迸り、ただ満ち足りた感情だけが私を包んでいた。
 私は一冊の古ぼけた本とやり場のない情熱を腕中に抱えて、闇に浸された京都を縫うように走り帰った。昼、太陽があなたを打つことはなく、夜、月があなたを打つこともない。主はあらゆる災いからあなたを守り、あなたの魂を守ってくださる。主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。今より、とこしえに。
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