第1話 罪の意識

文字数 2,504文字

 生き方を考えねばならぬほど若くはない。人に請われるほどの才能もない。ましてや、先頭に立つほど人望がある訳でもない。時流に流され生きて来たの。
 人の悪口は腹にしまい、口には出さず、偽りの笑顔を見せる。只、人に悪く思われ無ければそれで良いと常に大勢の方に立って生きて来たわ。
 常に目立たず。その他大勢で良いと思い、積極的に手を挙げるなんて事も考えず。そのくせ自分の評判は誰よりも気にして、悪い噂を耳にすれば、くよくよ悩み、人に相談することも出来ずに胃の薬を飲んで誤魔化す。良い噂を聞けば、表面的にだけ謙遜し、家族や友達には自慢し悦に入る。
 優しいと言われれば、その通りに行動し、例えそれが本心からでは無くともその様に振る舞い。自分があたかも、いい人であるかの様に見せることを考える。
 頼まれれば、一応は嫌とは言わず。返事を先延ばしにして、都合の良い理由を考えてから断る。さも残念そうに振る舞う事は忘れない。
 只考えるのは人間関係が悪くならないようにする事だけ。だって、それは自分が生き難くなるから。それだけを考える。
 常に全力で行動するなんて事は考えず。八分目を目標にする。「それが上手く行くコツよ」と嘘ぶいて、何事にも結果オーライで良いと考える。
 適当と言う言葉が好きで、いつもそれで通れば良いと思っている。だって適当とは一番適している事だと本心では思ってもいない事を口にする。
 そんな自分が本当はとても嫌いで、一人になると自己嫌悪になり、死ぬことばかり考える。でも死にはしない。それは結局自分が好きだから。
 どうか、どうか、今日も嫌な事は頭を下げている間に、上を通り抜けますように……。
 そう、わたしは中身の無い「空」な人間なの。

 薄明かりの中、甘い余韻と気怠さの中にあるまどろみに抱かれて、思わず眠ってしまいそうな意識の中、彼の言葉が耳に入る。
「もう遅いから泊まって行けば? 家に帰っても誰も居ないのだろう。無人の家に帰るのは味気ないものだよ」
 それを耳にして今までの甘い余韻が潮が引くように覚めて行く。
『帰らねば……』
 そう思ったのは自分に罪の意識があるからだろうか?
「帰る……」
「このままで良いのに。明日の朝帰っても同じじゃないか」
 彼の言う通りにしてもやる事はある。シャワーも浴びたいし、それに、このままなら恐らく先程と同じ事を繰り返すだろう。そうなれば、いよいよ今夜のうちには帰られなくなる。
「やっぱり帰る。シャワー浴びて来るわね」
 ベッドから抜け出しタオル掛けに掛かっているバスタオルを手にして浴室に入った。ガラス張りのドアの向こうから彼のつまらなさそうな声が聞こえた。
「仕方ないな。いつもそうだ。急に変わるんだから……明後日にならないと旦那帰って来ないんだろう」
 判っていない……毎度の事だがこの人も何も判っていない。違うのだ。誰かが居るから帰るのでは無い。誰も居なくても、あそこはわたしの家なのだ。名義上は夫のものだが、本当のあの家の主はわたしなのだ。だから、帰えるのだ。おんなとはそういうもの……。
 彼が入れ替わりで浴室に消えると扉の向こうから
「送って行くよ。それぐらい良いだろう?」
 シャワーを浴びる音に被さって声が聞こえる。そうして貰えれば助かる。終電近くの電車の車内は混んでいて、わたしにとっては楽ではないからだ。
「ありがとう」
 家の前で彼の運転する車から降りると礼を言って家の中に入ろうとする。と後ろから抱きしめられながら
「次は?」
「また連絡する」
「判った。じゃ」
 車のアクセルを踏む音がして爆音と共に走り去って行くと、わたしは静かに歩き出す。本当の家はもう十分ほど歩いた所にある。名前もこの仮の家の表札と名前から取っただけ。本名ではない。
 一時の火遊びに身を投じるのだ。そんなに簡単にプライバシーをさらけ出しはしない。関係が終われば携帯のキャリアを番号ごと変えるだけ。それでお終い。それだけで、わたしは彼から永遠に謎の存在になる。今までこうやって過ごして来たのだ。今回も同じ……。
 誰も後を付けて来ないのを確認して、本当の家に向かって歩き出す。家に入る時も一応確認する。大丈夫、安心して家に入る。
 玄関の脇にある電話の「留守電」のボタンが赤く光っている。押して再生すると
『一件の録音があります。再生します……あたし翠、留守みたいだからまた電話するね……再生を終わります』
 高校時代からの友人からだった。夫からだと思っていたが、そうではなかった。少しほっとした瞬間電話が鳴り出した。
「もしもし、若井ですが……」
 電話の主は海外に出張に行っている夫だった。向こうの時間なら午後七時頃だろうか。
「今日は電話無いからもう寝ようと思っていたのよ」
 夫は電話が遅くなった詫びを言ってくれた
「明後日、帰って来るんでしょう。楽しみに待っているわね」
 その後、つまらない話をして電話を置いた。彼とは高校時代からの付き合いだ。卒業しても交際は続き、そのまま結婚した。その間には勿論色々とあった。彼はわたしが知らないと思っているらしいが、一時は浮気をした。そして知ったのだ。それまでは単にわたしは世間というものを知らなかっただけだと言う事を……。
 彼が他の女性と話をしているだけで湧き出る嫉妬も、自分だけを愛してくれると信じる傲慢も、際限なく彼を求めてしまうわたし自身の強欲も……。
 すっかり変わった本当のわたしを見て、彼はどう思うだろう。幻滅するだろうか、かつて恋した高校時代の少女はもう居ないと判った時、彼は変わるだろうか?
 表面的には今の所彼は受け入れてくれている。
『大丈夫』
 そう信じる反面、この不安は消えない。消えることはない。私は未だ知らないのだ。怖くて聞くことなどできない。
 彼の本当の気持ちなど……
 ベッドに横になり目を瞑り怯えながら今夜も夜が更けて行く。
 気持ちを紛らわせる為に考える。あすは誰に抱かれようかと……。

                        <了>

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