prologue

文字数 2,162文字

 彼女の磨かれた陶器のように白い背中が眼前にある。俺は震える手で、その美しい肌に触れようとするも、ギリギリのところで止まった。まるで、そこに見えない壁があるかのようにそれ以上は指一本動かせなかった。
「どうしたの?」
 俺の異常を察した彼女がこちらを向く。俺にはもったいないくらいの美人だ。名前はアオイ。会社の同期で、友達みたいな間柄だった。つい最近、彼女の方から告白されて、今に至る。
「いや、何でも、ない」
 顔に浮かんだ汗を拭い、声を絞り出す。物凄い吐き気を我慢している俺を見て、アオイは困った顔をしていた。
「えっ、大丈夫? 気分悪いの?」
「いや、そういうわけじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
 答えるべきなのだろうか。今までの経験上、この秘密を言ってしまうといつも悪い方向へと転がっていった。だが、アオイならもしかすると受け入れてくれるかもしれない。そんな勝手な期待を抱く自分がいた。
「その、俺……どうしても、女性の身体に触れられなくて」
「えっ、そうなんだ……」
 ビックリしていたアオイだったが、すぐにいつもの明るい笑顔を見せた。
「じゃあさ、少しずつ慣れていこうよ。手を繋ぐとかは、どう?」
「それは……」
 指一本でも触れる事ができないので、手を繋ぐなんて以ての外だ。そもそも、こんな風に身体の関係に至ろうとするのがそもそも早計だった。俺が黙ってどう答えようか考えていると、アオイが突然、俺の手を取った。
 その瞬間、頭が真っ白になる。気づくと、ベッドから転げ落ちたアオイの姿があった。どうやら、突き飛ばしてしまったらしい。
「イタタ……」
 ほとんど裸でひっくり返っている彼女の姿に俺は慌てたが、手を差し伸べて助けることはできなかった。アオイはゆっくりと立ち上がると、脱いだばかりのブラウスを羽織った。
「……」
 彼女の冷たい視線が俺を貫く。恐ろしく居た堪れない空気だった。
「はっきり言ったらいいじゃん」
「え?」
「私のことが嫌いなんでしょ? だからこんな風に突き飛ばせるんだ」
「そ、それは違う! 俺はアオイの事が本当に好きで……」
「もういいって。言い訳を聞くたびに自分が惨めになる」
 彼女はそう言い捨てると、鞄を持って玄関へと向かった。思わず俺は手を伸ばしたが、彼女の腕を掴んで止めることもできずにまた元の位置に戻した。
 バタンッと勢いよくドアが閉まる。
「アオイ……」
 彼女の名前が静かな部屋に虚しく響く。一人になると、空気がいっそう冷たく感じた。けれども、ストーブを付けるために動く気力さえなかった。空気が抜けた風船のように床に突っ伏す。やっぱり、俺は一生童貞のままなのだろうか。
 いつから、女性の身体を触れなくなったのか。はっきりと覚えていないせいで原因が分からない。トラウマの元が分かれば、解決策が見つかるのだが。
 ……いや、分かっているだろう? 自分の中の誰かが言った気がした。手の平を見ると、べったりと血が付いている。思わず叫び声を上げると、あれだけ真っ赤だった血は完全に消えていた。幻覚だったようだ。
「……」
 大きなため息をつく。好きな人に自分の事情を話して、関係が崩壊し、精神が落ち込むといつもこの物騒な幻覚を見る。普通に眠っていて夢で見たりとかは一切ない。決まってこの状況で現れるのが不思議だった。
 俺の過去に何かがある。それは確かだ。だが、自分の記憶にはところどころ抜け落ちている事がある。特に高校生時代が酷い。普通、昔になるに連れて記憶が薄れていくものだろうに。それなのに高校時代という比較的新しいのはやはり、何か原因があるのかもしれない。
 けれども、親に聞いても友人に聞いても、さほど望んだ答えは得られなかった。俺は普通の学生だったというのが皆の認識らしい。べつに目立ちもせず、普通に卒業したらしい。
 一体、どうしてこんな大人になってしまったのだろうか。もう消えてしまいたいなんて考えていると、家のチャイムが鳴っていると気づくのに遅れた。緩慢な動作で立ち上がると、玄関へと向かった。
 そういえば、今日は荷物が届く日だ。確か、鍋の容器だったか。あぁ、アオイと鍋パしたかった……。
「おっ?」
 ドアを開けると同時、腹部に衝撃が走った。ゆっくりと目線を下ろすと、血に濡れた刃が見えた。次にそのナイフを持つ相手を確認する。フードを被って顔を隠している。これだけ近くにいるのにフードの奥は暗い洞窟みたいに真っ暗だった。お洒落なパーカー着てるななんて、ぼんやりとした感想を抱いた。
 ズッとナイフが引き抜かれる。頭と腹が物凄く暑い。徐々に事の重大さに気づき、俺はフラフラと後ずさった。パーカー野郎は普通に中に入ってくる。とどめをさす気らしい。
 最後の抵抗とばかりに俺はパーカー野郎に掴みかかった。反撃されるなんて思っていなかったのか、パーカー野郎は足をもつらせて後ろに倒れた。その拍子にフードが脱げる。相手の顔を見て、俺はギョッとして手を離してしまった。
 パーカー野郎もといパーカー女はその隙を逃さずに俺を組み伏せると、もう一度ナイフで突き刺した。正直、刺された痛みよりも女が自分の上に乗っているという状況の方が俺には苦痛だった。

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