第1話

文字数 2,539文字

 さわやかな陽光が降り注ぐ昼下がり、テラスの掃除を済ませたメイドの綾はお茶の準備のためにキッチンへとやってきた。窓から差し込む陽の光に輝くステンレスのシンク、そのそばに紙切れが一枚。昼食の後片づけを終え、ここを出たときにはなかったものだ。

 綾が近づき確かめてみると、それは牛のマスコットキャラクターが淡い緑色で印刷された淡路銀行のメモ用紙であることが分かった。



”午後三時までに財布を持っていつもの場所に来なさい。”



 メモ用紙にはそれだけが黒いボールペンで書かれていた。

 この美しい文字は主人であるシェリーの字に間違えはない。綾はメモを右手で握りつぶした。彼女はどこで習ったのか綾より遥かに美しい文字を書く。そればかりか柔らかくしなやかな金色の髪、翠の瞳、豊満な胸に長身の体躯、とんでもないことに性格以外はすべてが美しい。昼食後は屋敷内で見かけなかったため書斎でおとなしくしているのかと思っていたがそうではなかったようだ。

 また、唐突にゲームを始めたのだ。

 綾は振り返り壁掛け時計を見た。時間は午後三時まであと十分を切っている。彼女は黒髪の美少女にあるまじき口汚い悪態を付き、食器棚の引き出しからガマ口の財布を取り出す。財布をエプロンのポケットに押し込み、スリッパを脱ぎ棄てる。そしてスニーカーに足を突っ込み、キッチンの勝手口から飛び出していった。

 

 足元はいつもの高価な革靴ではなく、スポーツ用のスニーカーなのでまだ楽なのだが、服はそうはいかない。ひざ丈より長いスカートにヒラヒラのフリルがたっぷりと付いたエプロンを身につけている。いわゆるメイド服と呼ばれる物で接客や撮影ならよいのだが、走ることには全く適してはいない。しかも走るのは舗装道路ではなく、薄暗い雑木林を抜ける荒れた砂利道である。砂利道は五百メートルほど続く、その後はまだ歩きやすい草地を七百メートル、シェリーの地所であるこの小島を南北にほぼ縦断することになる。

 綾はスカートがまとわりつかないように両手で膝まで引き上げ、砂利道で滑って転ばぬよう慎重に走る。これは何度やっても慣れることがない。身につけている服は作業服ではあっても、綾が持っている衣服すべてを合わせた額より高価なのだ。クリーニング代もひどく高い。

 ようやく慣れて走りが安定してきたところで、目の前に白い塊が飛び出してきた。ウサギである。綾はそれを蹴り飛ばさないように慌てて足をとめた。ウサギは綾の前から動かずじっと彼女を見上げている。ウサギはその場から動かず、彼女とにらみ合いを続けた。間を置かず仲間の白ウサギがもう二匹現れ、にらみ合い加わった。なぜこの場にウサギがいるのかという疑問より、邪魔をされたことへのいら立ちの方が上回った。このウサギはどうするべきか?

 おしゃべりな豚はだめでも、目障りなウサギなら捕って食べても差し支えないのでは、綾の心の声が告げた。この前ソテーにしたウサギはよい物だった。綾の考えが伝わったのかウサギたちはそそくさをその場を立ち去った。

 綾は薄暗い雑木林を抜け、陽光が降り注ぐ草地へ飛び出した。目の前の低い丘を越えればシェリーのいういつもの場所である。今は緑の草原だが、秋になれば全面金色となる。その時に青いワンピースを着て草地に立てば有名なファンタジーアニメのシーンを再現できそうだ。

 丘を越えると島の南端、二時間サスペンスドラマのラストシーンに出てくるような断崖絶壁で今にも船越栄一郎が飛び出してきそうな雰囲気がある。

 断崖のそばに佇むシェリーの姿が見えたが他の人物の姿はまだない。黒いコルセットドレス姿で白いブラウスと相まって巨大な胸が目立つ卑怯極まりない服装である。

 綾は息を整えつつ、シェリーの元へと歩いて向かった。しかし、いつでも走り出せる用意は怠らない。前回油断して草むらに潜んでいた配達員に先を越され勝利を逃してしまった。

 目の前のシェリーは満面の笑みを浮かべている。何かがおかしい。綾はポケットの中の財布を握り締めた。

 次の瞬間、黒い塊が突風と共に断崖の向こう側から舞い上がってきた。それはUH-六十戦術輸送ヘリコプターブラックホーク。屋敷が島にあるためヘリコプターで乗り付ける客は珍しくないのだが、このアクション映画さながらの登場には、綾もあっけにとられ身動きすることができなくなってしまった。そうしているうちにヘリコプターが速やかに着陸、乗降口の扉が開け放たれ乗員の一人が荷物を手に飛び出してきた。白地に赤い模様が印刷されたの紙包みを抱えた乗員がシェリーに向かって駆け出してくる。

 ようやく我に返った綾も財布を手に走り出す。しかし、シェリーとの距離はまだ遠く手渡しでは間に合いそうにない。荷物が手渡された時シェリーが財布を持っていなければこのゲームは綾の負けとなる。覚悟を決めた綾はシェリーに向かって渾身の力を込めて財布を投げつけた。



「まったく、あなたという娘はそんなかわいい顔をしてよくあんなことができたわね」シェリーの右手にはまだ財布のガマ口の激突した時の痛みが残っている。

 財布はまっすぐシェリーの顔に向かってきた。避けるわけにもいかず、取り落とすことは彼女のプライドが許さなかった。結果彼女はしっかりと財布を受け止めゲームは綾の勝利となった。ただ、勝利したところで何があるわけでもない。

「顔は関係ありませんよ」綾は今さっき届けられた豚まんを食べ終え言った。豚まんはまだほんのりと温かかった。

「ほんとうに可愛くない娘ね。後はお茶と一緒に戴きましょ」

 シェリーも食べ終え、ハンカチで手を拭うとそれを綾に手渡した。

「でも、わざわざ、ブラックホークを呼ぶもことないでしょうに…」

 綾は包み直した豚まんと発泡スチロールの箱を抱えあげた。

「綾あなた、一度見てみたいって言ってたでしょ。急上昇して迎えに来るヘリコプターというのを、せっかくこんないい崖があるんだからそれも面白いかなと思ってね」

「お金持ちのやることはよくわかりませんね」

「ふん、言ってなさい」

 2人は歩きだした。
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