第1話

文字数 2,495文字

チェコの都市、プラハと言えば、何を思い浮かべるだろう。モルダウ河、カレル橋、プラハ城といった「百塔の街」と呼ばれるに相応しい美しい町並みを思う人もいれば、ビールやアニメをイメージする人もいるかもしれない。

私も、プラハと言えばと問われたら、間違いなくそれらについても挙げると思う。けれど、何よりも私にとってプラハは、一人の小さな女の子との出会いの街だ。
私を見上げる瞳、伸ばした小さな手、そして私を呼んだあの声…。

30代になって最初の年末、私はプラハにいた。数年前に雑誌でプラハ特集を見てから、その街並みの美しさに惹かれて、いつか行きたいとずっと思っていた。その頃仕事が忙しくて、なかなかまとまった休暇が取れずにいたのだが、たまたまその年の12月は日並びが良く、ついに念願のプラハへと、一人飛び立ったのだった。

プラハの旅は、とても楽しかった。季節柄とても寒かったけれど、頭から爪先までしっかり防寒して、一日中プラハの街を歩き回った。まだ広場にはクリスマスマーケットが残っていて、屋台でソーセージを食べ、クリスマスオーナメントをひやかした。カレル橋を散歩し、モルダウ河を眺め、有名な天文時計でからくり人形が動くのを他の観光客と一緒に見物した。

そうして5日間、存分にプラハを満喫して、明日は帰国の経由地であるドイツに移動しようという最終日の夕方、私はすっかり通い慣れたトラムの駅からホテルへの道を歩いていた。

もうすぐホテルに着くという時、父親と女の子が散歩しているところに出会った。
女の子は、1歳半前後というところか。
帽子をかぶり、モコモコのコートを着て、なにか気になるものでも見つけたのか立ち止まっている。
父親の方は黒い髪に黒い目、まだ青年っぽさが残る姿だ。こちらも立ち止まり、女の子を見守っている。

私は二人の横を通り過ぎようとした。その時、女の子が、私にちょこちょこと近づいてきた。灰色がかった青い瞳で、私をじーっと見上げて、にこにこしている。

当時、私は子供好きというわけではなく、むしろ苦手なぐらいだったのだけれど、その子が無防備にこちらを見上げる様はなんとも可愛らしく、思わず微笑んだ。
父親の方も笑顔でこちらに近づいてくる。なにか話しかけられたが、チェコ語なのか意味は分からない。「やあ、この子はあなたに興味があるみたいですね」とでも言っていたのかもしれない。
私の方もチェコ語はおろか、英語も片言の有り様だったので「かわいい、Very cute」とだけ返した。そして、その子の帽子の頭をそっと撫でた。

さて、ホテルへ向かって歩きだそうとしたのだが、女の子が、私に付いてくる。
そのままホテルまで連れて帰る訳にもいかない。私は回れ右をして、父親の方に向かってゆっくりと走ってみせた。女の子はにこにこしたまま、私を見ている。おいでおいで、と私が自分の脚をポンポンと叩いて見せると、私の方に手を伸ばしながらトコトコと追いかけてきた。
私は、父親の近くまで行くと「Daddy」と女の子に示してみせた。

そして、今度こそ歩きだそうとしたのだが、またもや、女の子が付いてこようとする。
さすがにきりがないと思ったのか、父親がその子を抱き上げた。私は会釈をして、ホテルへ向かって歩きだした。

その時、背中から聞こえたのだ。「Mam」 という声が。「No, Mam」 という父親の声も聞こえてきた。違うよ、ママじゃないよ。

ホテルの部屋に着いて、私は考えていた。なぜあの子は、私をママ、と呼んだのだろう。

あの子の母親に外見が似ていたのだろうか。でも、私は純和風の顔立ちで、おまけにとても小柄で、欧米だと小学校高学年くらいの背丈しかない。見間違えるほど似ているとは思えない。

声が似ていたのか、はたまた仕草や匂いか…。

いろいろ考えたが、ピンとくる答えは出ないまま、次の日、私はドイツのドレスデンを経由し、日本に帰国した。

あれから幾度もの年末が過ぎた。プラハにはあれ以来行っていない。コロナウィルスの感染が拡大し、終息も見通せない中で、いつ自由に海外に行けるようになるかも分からない。プラハはすっかり遠くなった。
そして私は、本当に一人の女の子のママになった。

あの時、あの子がママと呼んだことに、大した理由はなかったのかもしれない。着ている服が似ていたとか、髪型が同じだったとか、他愛もないことだったのかもしれない。

それでも、あの子との出会いは、確かに私の胸を温めてくれた。

あの頃、私は独りの生活を謳歌していた。毎日遅くまで仕事をし、週末は美術館巡りや映画鑑賞を楽しみ、カフェでぼんやりと長い時間を過ごした。自分のやりたいことをやりたい時にできる生活に満足していた。
そんな私にとって、決して自分の思い通りにはならない子どもという存在は、自分からほど遠いものに思えていた。子どもがいる生活など想像できず、自分のことだけで精一杯だった。

だから、あの子が無邪気に近づいてきたことにびっくりした。子供に好かれるような質ではないと思っていたから。でも、だからこそ余計に、嬉しかったのかもしれない。そんな自分に、母親に対するような信頼と愛に満ちた顔を向けてくれたことが。たとえそれが勘違いだったとしても。

今もときどき、あの時の事を思い出す。
張り切ってプラハの街を歩いていた自分と、よちよち歩いていた小さな女の子。 

あの頃と今の私はずいぶん変わった。
「ママ」とひっきりなしに呼ばれることが日常となった。保育園のお迎えの時間とにらめっこをしながら仕事をし、週末は一日子どもと遊ぶ。子どもは、思ったとおり全く儘ならない存在だが、なんとかやっている。

あの子も、もうすっかり大きくなったことだろう。元気にしているだろうか。今もまだ、プラハの街にいるのだろうか。
  
あの子と私は、一瞬出会い、また離れた。今はお互いあの頃とはまるで違う毎日を生きている。
もう二度と私たちの人生が交わることはないだろう。

一度きりのささやかな出会いだったけれど、今も残る温もりをくれた。あの子が、幸せでいてくれるといいと思う。あの笑顔が、今もそこにあることを願っている。

 







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