カノ

文字数 4,142文字

A子は死んだらしい。




一人暮らしの小さなバスタブでさえ、たった一人が入るためにお湯を張るのは贅沢な気がして普段ならシャワーで済ませるところなのだけど、今日は特別だ。記録的な寒波がやってきた翌日、雪こそもう溶けてしまったが一段と空気が冷たくなり、そんな寒空の下で三十分も待ちぼうけを食った私の体は芯まで冷え切っていた。体を湯に浸すと足先がピリピリと痺れ、次第に感覚が麻痺していってようやくリラックスする。鼻の下まで浸かれば、長い髪がくらげのようにぷかぷかと浮いた。

『会わない?』

最初にそう言ったのはA子の方だった。もう一ヶ月以上前の話だ。本名も住んでいる場所も知らない相手と会うのは気が進まなかったのでその時は「いつか会いたいね〜」と当たり障りのない返答をした。
A子。これは彼女のアカウント名だった。SNSの中でしか関わりのない人なんて沢山いる。気が合うって言ったって、直接会わないライトな付き合いだからこそ上手くいくってこともあるだろう。それにネットなんていくらでも嘘がつける。私は、本当のA子を知らないのだ。

浴槽の中に頭まで浸かろうとするのに、浮力が少し邪魔をする。微かな抵抗に打ち勝ち体を沈め、頭の中で数を数えた。いち、に、さん、し、ご……。段々と呼吸が苦しくなっていく。一つ、二つ、小さな気泡が鼻から出て昇っていっては消え、また新たな気泡が鼻から出る。馬鹿だった。私が。
その泡を見ながら私は考える。そもそもA子にすごく会いたかったわけでもない。向こうから『渡したいものがある』と言われ、何となく了承してしまっただけだ。それでどうなった?指定された日時、場所に行き、三十分も待ったのにA子は来なかった。連絡もない。もしかしたらA子は男で、待ち合わせ場所に現れた私を見、タイプじゃないからと帰ったのではないか。私は呼吸が苦しくなりバサア、と頭を水面から突き出した。乱れた呼吸の中に反省と溜息が混じる。
馬鹿だったのだ。私が。
ワンルームのアパートは脱衣所もなく、玄関から直通で丸見えだ。誰が入ってくるわけでもないけれど急いで服を着て、バスタオルで雑に髪を拭きながら水を飲む。何気なくつけたテレビの向こうでは芸人が体を張って大袈裟にリアクションしていた。これだって本当かどうかは分からない。視聴者も「リアル」を求めているとは限らないけれど。
今日のことは忘れよう、そう思ったのに、不意に着信音が鳴り響いた。画面には静流の文字。完全に名前負けしてる。
「もし」
「ifのこと?」
「ウザッ」
静流はけらけらと笑って、「機嫌最悪じゃん」と言った。だから、どうした、何があった、と聞かれるだろうと思ったのに、静流の口から出た言葉は意外なものだった。
「A子、来なかったろ?」
「え?なんで知ってんの」
「んー、なんか、共通のフォロワーが言ってたんだけど。A子が死んだらしいって」
「は?まじで?」
そういえば最近ずっと更新はなかった。
「でも誰も知らないからさ、A子がどこの誰か。どっからその噂が流れたのかも分かんねーし」
「やだ〜、なんか気持ち悪い」
私はスマートフォンを耳に押し当てたまま、ぼすんとベッドに座り、そのまま体を横たえた。テレビでは相変わらず芸人が大声で叫んでいる。「熱い!熱い!」と言って。
A子は本当に死んだのだろうか。だとしたら、騙された、なんて思って悪かったなって思うけど。たとえ亡くなっていたとしても、事件関係でなければ芸能人みたいに大々的に発表されるわけじゃない私たちの死は、遠く離れた人々にまで届きようがない。
反対に嘘だって可能性もある。死んだ、なんて言って、アカウントを変えて生き延びているかもしれない。ゲームをリセットするみたいに。
「とりあえずさあ、会う?俺たちは」
「今から?私風呂入ったんだけど」
「ちょうどいいじゃん」
何がだよ、と思ったけど、言わなかった。めんどくさい女だと思われたくなくて。
静流に出会ったのは、まだ今みたいに寒くない冬の入り口、いやに空気が澄んだ夜だった。就職活動がうまくいかなくてムシャクシャしていた私は、深夜に酒でも買おうとコンビニに行き、屯している男たちに絡まれたのだ。その中に静流はいた。車止めに腰掛け、億劫そうに髪をかき上げ、それから首のストレッチをしたりなんかして。しつこい男たちとあまりに対照的で相対的に評価が上がってしまうのは本当に良くない、と思うけど。この人は悪い人じゃないかもと思った。しかも「静流も何か言えよ」と仲間に促され言った言葉。それは「その辺にしとけよ、クソだせえ。引き際を覚えろって」だったのだ。仲間たちは気まずそうに黙り込み、しつこかったうちの一人が両手を差し出して「どうぞどうぞ」とコンビニの中へ入るよう促した。言われなくても入る。私は酒を買いに来たのだ。こんなところで油を売るためじゃない。
大きな冷蔵庫の前に立ち、アルコールのカラフルな缶を眺める。私は今、色んな会社にこんな風に品定めをされているんだな、と思いながら。手に取られるのは偶々かもしれないし、パッケージがすごく目を引いたのかもしれない。味がいいってもう知っているのかも。それで、選ばれなかった私は静かに次を待っている。
「……まだいたんだ」
コンビニから出ると、静流だけがいた。警戒心がどこかに行ってしまった私は気がつくとビニール袋から缶を取り出し、「飲む?」と渡していた。誰かと飲みたかったのかもしれない。話を聞いてほしくて。
「付き合ってやってもいいけど」
それから私は愚痴りに愚痴りまくり、それを静流は黙って聞いていた。途中で酒を買い足してまで。
今になって思えば、あの時静流は「んー」とか「あー」とか言うだけで、私の言葉なんて右から左だったのだろうけど。それでも私は何だか救われた気がしたのだ。



電話から数十分後にはインターフォンが鳴った。チェーンを解除しドアを開けた瞬間、外の冷気が勢いよく流れ込んでくる。その上、静流がその冷気を引き連れて室内に雪崩れ込んできたせいで、とびきり寒い。静流はぶるっと身震いし、冷え切った両手で私の頬を挟んだ。
「ちょ、やめてよ冷たい!」
「だーからやってんだろうがよ」
寒い寒いと言いながら、部屋にある小さな暖房器具の前に直行する静流の後ろ姿を眺める。細身だけどそれなりに肩幅もある体は男性そのもので、体に合わない暖房器具のせいで随分と窮屈そうに身を縮めている。私はその後ろ姿に声をかけた。
「何か飲む?」
「んー、あったかいもんなら何でも」
「じゃあ紅茶ね。なんか同僚が海外旅行行ったらしくてそのお土産のやつ」
「いいな〜海外。ま、パスポートも持ってねえけどな」
静流はおもむろに立ち上がるとベッドに移動した。今度は面白くもないテレビをぼんやりと眺めている。A子のことを私は何も知らないと言ったけど、こうして目の前にいる静流のことも、実はよく分からない。どこに住んでいて、どんな仕事をしているのか。パスポートを持っていないことは今知った。お酒は飲める、とか、甘いものは好きじゃないとか、音楽は何を聴くとか。そういう些細なことしか知らない。自ら話さない人にあれこれ聞くほど私たちが親しいのか。そう思うと喉の奥で言葉が絡まって出てこないのだ。
私がマグカップを渡すと静流は私を見て言った。
「カノは持ってる?」
私をこう呼ぶのは静流だけだった。私の本当の名前は、佳乃。ヨシノ、このたった三文字を「長い」と言って静流はカノに変えた。最初はちょっと特別でいいかな、と思ったけど、時々やっぱり本名を呼んでほしいと思うことがある。
「持ってない。あれ申請するのにもお金かかるでしょ。なんか面倒くさいし」
「世の中何でも金だな」
ベッドの下、静流の足元に腰を下ろすと静流が私の髪に触れた。
私たちは付き合っていない、と思う。付き合おう、とか彼女になってって言葉は聞いていない。やることやってて付き合ってないはないでしょ!と友人は言うけれど、本当にそうだろうか。
私はこの世界のこと、特に人間関係においては懐疑的だ。どれだけの人が嘘偽りなく相手に対面し、何もかも曝け出しているだろう。本心を包み隠さず話しているだろう。そもそも私は静流のことを何も知らないのに。
「おお、海外の匂いがする」
「はい絶対ウソ〜」
その気になることは至極簡単だけれど。私はそれで、実は嘘だったって知って、がっかりしたくない。
「カノってさ、なんかこう……透明な四角い箱ん中にいるみたいだよな」
「どういう意味?」
「何もないと思って近づいたら実は透明な壁があって近づけない、みたいな?んでそん中からじっと外の人間のこと観察してるっていうか。別にそれが悪いとかじゃなくて」
悪いとかじゃなくて、と言っても何だか責められている気がする。それに、私たちが近づいてるようで近づけていないのは私に原因がある、とも取れる。静流はマグカップをテーブルにそっと置き、私の手からも奪い取ってその隣に置いた。温かい紅茶で温度を取り戻した手のひらが私の頬に触れる。その手が流れるように首の後ろへ移動するから、私はこの先に必ず起こるであろう未来に向け抵抗を試み、俯く。簡単な女だと思われてたまるか。けれど静流の大きな手は難なく私の顎に親指を引っ掛け、指一本でバリケードを解いてしまう。あっさり上を向かされ生温いものが唇に触れると微かに蠢く。その感触は気持ちがいいというより、愛しい、の方が正しい。
「怒った?」
「怒ったわけじゃないけど」
「けど、何」
曖昧に濁したいからそう言っているのでは決してない。ただ適切な言葉が見つからないだけだ。悲しかった?図星で悔しかった?苛々した?そのどれも、言葉にすると微妙に違う気がする。
「まあいいか」
考えるのが面倒になったのだろう。静流はテレビも明かりも消さず、私の体を倒し覆い被さった。

SNS、インスタント食品、夜のコール、人の家の暖房にあたる、それらと同じぐらい手軽に私は抱かれ、パスポートを取りに行くぐらいの大変さで一人の人を知ろうとする。いや、後者に関してはもっと、かもしれない。

A子は本当に死んだのだろうか?顔も知らないA子が、私たちの動物的な行為をどこかから見ているような気がして、私は小さく身震いした。





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