第1話

文字数 1,803文字

 春香は、中堅製造業の営業事務職に就いて二十ン年の、自他ともに認める課のお局さまだ。
年下の社員たちが悪びれず春香を「お局サン」と呼ぶのだから、陰口ではなく、もうそれは立派な愛称であった。

仕事は嫌いではないから誠意を尽くしてやってきたつもりだ。
出世が望める職種ではないが、安定した仕事内容をこなすことが性に合っていたのか、快適で居心地のいい職場であった。

ところが半年前、性悪で有名な園田課長が異動してきた。
痩せた背中をかがめ、縁なし眼鏡の奥に意地悪そうな小さい眼を光らせながら仕事をし、ミスを見つけると体躯に似合わない大声で部下を呼ぶ。本人の顔が見えるより先に話し始めるのは、距離を理由に大声で話すための癖らしかった。

「小峰くぅん」課長の声が響いた。
小峰は弾かれたように立ち上がった。
「いつまでも学生気分でやられたら困るよ。いい大学を卒業しても働くとなると役に立たないんだねぇ」
昨年入社した彼は有名大学を卒業している。昨今の就職難で社内の若手の学歴のレベルは年々上がる一方だ。

春香はさっと立ち上がった。
「課長それは私のミスです。不安なので目を通して欲しい、と小峰さんから頼まれて私が確認しましたので」
標的が春香になったことが嬉しいのだろうか。課長は口の端をゆがめてニヤリと笑った。
「お局さまの名が泣くねぇ。仕事が出来きゃ取り柄なしでしょ」
人を下げれば自分が上がるとでも思っているのか、それともただの趣味なのか。
その後、ひとしきり嫌味を聞かされる羽目になった。

「先程はすみませんでした」
昼休みにランチを食べながら仕事をしていると小峰が詫びに来た。
「些細なミスで、あれほどの叱責は納得できません」
怒りを含んだ口調で言う小峰を春香は見上げた。
「いいよ。見落としたのは本当なんだから」
悪口に乗って来ない春香に小峰は物足りないような表情を見せた。
「謝らなくてもいいから、代わりにありがとうって言ってよ。その方がお互い気持ちがいいじゃない」
小峰ははっとした顔で春香を見て、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。

― 何とかしなきゃなぁ。
部署の若い社員たちはミスをしないことだけに力を注ぐようになり、本来の能力を発揮できなくなっている。頼みの部長はおどおどするばかりで、課長の態度に見て見ぬ振りだ。

金曜日の午後、春香は課長のデスクに行き周囲に聞こえる声で言った。
「今夜、飲みに行きませんか?」
課の雰囲気が凍り付いた。お局サンの反逆か、と思ったのだろう。
心なしか課長本人も怖気づいているように見えた。

「お、おうこれは珍しいお誘いだな」
課長は助けを求めるように「他に誰か行かないか」といつもの大声で言ったが誰も顔を上げなかった。
先日の礼のつもりか、小峰は行くなら自分だろうという表情で春香を見た。
春香は課長の目を見て言った。
「二人ではお嫌ですか」
課長は覚悟を決めたのかしぶしぶ了承した。


「みぃんなどうせ俺のことなんかバカにしてんだろ」
課長は飲み始めても春香を警戒してずっとむっつりとしていたが、酔いが進むと愚痴を言い始めた。
春香は課長になかなか本題を言い出せないまま酒を勧め続けた。課長も断らず飲んで、その分酔った。彼も間を持て余していたのだろう。

だが更に酔いが進むと今度は次第に課長の顔は寂し気になっていった。声が小さくなり、とうとう顔を近づけなければ聞こえないくらいになった。

「俺はさぁ、十歳で家族全員を事故で亡くして親戚の家をたらい回しにされて大きくなったんだ。耳に入る言葉は全て周囲からの嫌みだった」

春香はお局の名にかけて課長の人となりを理解し、意見の一つでもしてやろうと思っていた自分の軽はずみを恥じた。
人の行動には理由があり、その理由には背景があるのだ。

「俺にとっては人に嫌味を言うことは勝つことなんだ。でもみっともないだろ。知ってるよ、そんなこと。でもダメだって思ってるのに止められないんだ」
そう言うなり課長はガクリと首を落としテーブルにうつぶせになり呟いた。
「俺だってやめたいよ。もう過去は忘れたいんだ」
課長は顔を伏せたまま動かなくなった。眠ってしまったのだろうか。

課長が目を覚ますまで、今日はとことん飲もうか。
春香はそう決めると一人微笑んだ。
眠りにつく一瞬前、課長は確かにこう言った。

「今日は誘ってくれてありがとう」

「熱燗一本ちょうだい」
春香は自分の好きな酒を頼むと、肩の力を抜いて椅子に座りなおした。
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