第1話

文字数 2,003文字

 夫が彼の父親の跡を継いだ診療所は、昭和の高度成長期に山を切り開き開発された新興住宅地にあった。そこには高齢者が多く住み、地元住民で賑わう彼の仕事は多忙を極めた。
 私はワンオペで二人の子を育て上げた。長女は阪大の薬学部を出て薬剤師になり、長男は灘中から京大医学部へ、そしてこの春から研修医として大学附属病院で働き始めた。
 子どもたちが社会人となり、いよいよ私は私の務めを終えたと確信した。ずっと秘めていた思いを夫に打ち明けるべく、私は夫の帰りを待っていた。

「なぜひとは医者にかかると思う?」

話がある、と私が切り出す前に、夫の方から話しかけてきた。帰宅後は目をつむるか書籍を読むかで、一切私の方を見たこともなかった彼にしては珍しく、というより、こんなことは初めてだったため、私は驚いた。

「さあ……」
「治したいからだろ? 病気を治して、生きていたいんだ」

咄嗟のことに、何の返事もできなかった私に向かって、彼は話を続けた。

「長く医者をしてると、感覚でわかってくるんだ。もう治らない、これは手の施しようがない」

外科的処置や投薬といった、科学的根拠に基づく行為を生業としている者が、感覚だなどと随分非科学的な話だな、と私は思う。

「患者の顔を見たくなくなるんだ。治らないから。治してくれ、と懇願する治らない患者の姿を目にしたくないから」

これまで夫は仕事のことを何も言わなかった。私も聞かなかった。初めて聞く医者という立場の彼の話に、私は、知らない人の話を聞いている気分になる。

「それで、モニターから目を離さない医者のできあがりってわけだ」

 ママ友づきあいで悩んだ時も、子どもたちの受験の時でも、夫がこれほどの語彙数を私に話したことはなかった。相談したところで放置され、期待する答えは得られないことをくり返し経験した私の方でも、彼と会話を持つことは諦めていたのだ。

「ずっと通っていた高齢の女性の話だ。俺は肺に水が溜まっていますね、と言った。そして水を抜いたんだ、昨日」

何を言おうとしているのだろう。私は黙って続きを待つ。

「今朝、亡くなったよ」

私はやっぱり黙って頷くことしかできない。

「水を抜いたからしんだ。俺がころしたんだ。こういうことが、何度も何度もあった。俺は何人も人をころしているんだ」

言葉が出なかった。ころそうとしてそうなったわけではないことは、夫自身が一番理解しているだろう。慰めも、励ましも、不要なことは私にもわかる。

「それでも治療しないわけにはいかないだろう。患者はここが悪いんです、これを治してください、と言ってつめかけてくるんだ。俺は最善を尽くす。それでも人はしんでいくんだ、あっけなく。俺が手を下そうが、下すまいが、しぬのには違いないのだろう。それでも、俺の処置が介在したことにより、死期が早まる」

私は頷く。

「だから、向き合うしかないんだ。ずっと、しと向き合ってきた。人がしぬことについて、人をころすことについて、向き合うしかないんだ」

そこまで言って、夫は黙った。テーブルの上のグラスの中で、氷がから、と音を立てた。バカラのロックグラス、同じく医者の友人の結婚式の引き出物だった。高給の代償が、ひとをころすことなのだろうか。

「だから俺は」

一度私の方を向き、また宙に視線を戻して彼は口を開く。

「こたえを探すのでなくこたえを探さなくてよい自分になろうと思って」

 なぜ今日に限ってこんな話をするのだろう。彼は何かを察知しているのだろうか。もっと早く、せめてもう少し早く、私の決意が定まらぬうちに聞きたかった。

「ありがとう」
「え?」
「子どもたちのこと、本当に感謝している」

 塾での成績が落ち、新たな勉強法や参考書選びに奔走した時も、友だちとトラブルをおこし学校に呼び出された時も、私は一人で対応してきた。興味がないのだと、責任がないと考えているのだと、思っていた。
 好きにやらせてもらっていたのだ。当然金銭的に困ることは一切なかった。任されていたのはつまり、根底には信頼があったということで、託しても安心だと私は認められていたということなのだ。

「それで? あなたの話は?」

それほど思い詰めた顔をしていたのだろうか。あるいはつきものが落ちたかのように、すっきりしていたのかもしれない。私からは何も言っていない、夫は何を感じ取っていたのだろう。

「話、なんて、ないわ」

 道ゆく知らない年寄りに、あるいは遺族であろう親子連れなどに、挨拶されることがあった。彼らは私のことを夫の妻であると認識しているようだった。みな一様に感謝の意を述べた。涙ぐむ者までいた。

「今日もお疲れ様」

こちらこそありがとう、という言葉を口に出すにはまだ至らなかった。百八十度考えが変わったのだ。それにどのみち、と私は思う。声に出さなくとも、お見通しなのだろう、この人には。
 私は彼のグラスを手に取ると中身を一口飲んだ。夫は少し笑った、気がした。
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