忘れられない友達

文字数 2,023文字

 何が僕たちをこうも引き離してしまったんだろうね――。

 明かりも消えたままの研究室。ERRORコードがいくつも乱立したディスプレイに何度目かのため息がもれる。錆びついたスプリングをしならせながら天井を仰ぐと、足元の空き缶がいくつか転がった音がした。鳴り止まない警告ブザーの奥から懐かしい彼の遠慮ない指摘、批難が聞こえてきそうだ。ああきっと、久しぶりにコーヒーなんて飲んだせいかもしれない。

 彼とは思いのほかいい相性だった。
 カレッジの頃、カリキュラム初日に出会って以来、まるで理論曲線のようにノイズのない理想的な学院生活を送れるとは思いもしなかった。ただ女っ気ひとつなかったことが唯一の後悔。いや、それは僕だけか。
 講義の合間となれば決まって研究室に集まり、互いの成果物の評論や創造力のはけ口にはじめたゲームづくりに夢中になった。最初は興味本位だった。でもコーヒー片手に何度も言い合う内にどっちが研究課題なんだか分からなくなっていた。楽しかったな。

 ――そうか。楽しいという感情なんてすっかり忘れていた。
 軽く目を閉じただけで教授の怒号や実験課題、クライアントの無理難題や組織の圧力、その他もろもろが点火したクラッカーのように容赦なく神経を逆なでてくる。今にも焦点が瞼の裏に消えてしまいそうな視線を力なく横に下すとデスクのフォトフレームが目についた。相変わらず無愛想な顔だ。
 あんな堅物なのに可愛い後輩とゴールインするとは。この生涯で唯一の嬉しい誤算だったよ。プロポーズが成功した日の夜。今でも覚えている。柄になく二人で酒を飲み交わした。翌日、アルコールの開発者をオートクレーブにかけてやりたいってゲロ吐いていた君は、最高に傑作だった。
 たしか今年で長女が小学校に上がるんだったか。そんなメールも前に来ていたような。
それに比べて、僕は――。

 あの日。珍しく言い争いをした。彼を突き放してまで自分の考えを押し通したのは。正直、あんな顔をさせてまで訳ありと忌避された国外の研究機関に転属したことを悔いたこともあった。胸の奥がレーザーで焼き切られるようで痛くて苦しかった。でも、僕だって研究者だ。空論や妄想を口うるさく喚くだけのペテン師にはなりたくなかった。僕は、彼に勝ちたかったんだ。
 昔は気にも留めなかった。むしろ僕の方が断然ハイセンスだと思っていたからね。でも月日を重ね、知見を蓄え、互いの研究がより専門的になっていくにつれて徐々にそれは僕のプライドを焦がしはじめた。彼は学院生の内から早くも高被引用論文著者に選ばれはじめ、卒業する頃にはその名誉を欲しいままにしていた。と言っても彼自身はそんなこと気にも留めず、それが反って僕を苛立たせ嫉妬した。
 天賦の才――。いや、学修――そうだね。僕の敗因を顧みるとすればその一点。当時、僕は直観的で行動が先行しがちだった。そのせいで試行に試行を重ねては本題が遠のく始末。笑えるね。
 でも、そんな僕に一人の研究者として対等に向き合ってくれたのは、長い学院生活の中で彼だけだった。唯一彼が、君の存在が、僕の青春の全てだったんだ。
 だからこそ僕は君に、君を超える必要があるんだ――。

 重い腕を持ち上げてショートカットキーを叩く。遅延を重ね10日分を超えるタスクが一日に重複したラインだらけのスケジュール。さしあたって路線図か、それこそ爆弾起爆用の導線のようだ。これは笑えない。混線し混戦した日程のその先。その日が世界の終焉とでも言わんばかりにいかつくエディットされた箇所がある。

 僕が幾年も恋い焦がれ、彼にとってはどうということはない日。次代引用論文著者の選出日。
 生憎僕はまた登壇できないけど、代わりにここの教授が出席する。駄文に埋もれっぱなしの僕らの機関だったけど、今回だけは指を咥えてはいられない。これまでとは事情も状況も違う。
 金が動く。それも億単位なんかじゃない。何やら国家規模での重要案件だそうだ。近ごろ物騒だ。兵器開発だなんて醜悪な研究に詰め込まれるかもしれない。
 だが今、僕らの機関は閉鎖の危機にある。それにここまで来て僕の夢を諦めるわけにはいかない。そんなの君だって許さないだろ? だから、きっと君なら解ってくれるはずだ。そうでなくても、未だに僕のことを信用して発表前の論文の評論を依頼してくる君が愚かだったんだ。――最適解を追及する。君の口癖だったろ。だから、使わせてもらうよ。

 少し落ち着こうか。デスクの上のそれを思い出しマグカップに手を伸ばす――また倒れた。カップを取った拍子に倒れた旧友との思い出。伏せられてしまった無垢な精励さ。一瞬それを戻そうと手が伸びた。が、だめだ。この手はもう汚れてしまった。もう彼と互いの成果を称え肩を抱くこともできない。
 僕は汚れきったそれを白衣のポケットにきつく押し込んで、もう片方で冷めてしまったカップに口をつけた。――ああ、なんてまずいコーヒーなんだ。
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