第1話 音のない世界

文字数 1,970文字

 カーテンの隙間(すきま)から差し込む光と、あまりの暑さに本間昌平(ほんましょうへい)は目を覚ました。この日は休日にもかかわらず、月末の納期に向けて出社しなければならない。朝一で歯医者に予約を入れていたため、重い腰をあげて身支度を始めた。

 外は7月に入ったばかりというのに日差しが肌を突き刺すようだった。しばらく歩くと、いつもの道が工事で通行止めとなっており、迂回路(うかいろ)の表示が出ていた。昌平の表情が急に曇った。それは祖父から「神社近くのトンネルを通ると不思議な体験をする」という話を思い出したからだ。昌平は子供の頃からこのトンネルを避けていたが、今日は表示された迂回路を通る余裕はなく、恐る恐るトンネルに足を進めた。トンネルは人が二人入れるくらいの狭さで、途中で少し曲がっているため、光も入らず、壁と道は湿っていた。昌平は足早にトンネルを抜け出た。

― なんだ、ビビりすぎて損した。何も起きないじゃないか、爺ちゃん。 ―

 歯医者では待合室に数名の人が待っていた。受付の人が「もとまさん。もとまさ~ん」と何度も呼んでいるが、誰も反応しない。昌平が不審に思っていると、受付の人が目の前に立っていた。
本間(もとま)さんですよね、中へどうぞ。」
 昌平は自分の名前を読み間違えられたことに軽い怒りを覚えたものの、診察を終え、待合室でテレビを見ていた。ところが、そこから聞こえたアナウンサーの声に耳を疑った。
「今日は、我が国独自の文化を大事にする『訓読みの日』です。佐藤首相(サトウシュショウ)の会見をご覧ください」とアナウンサーが伝えた。
「訓読みの日、そんなの聞いたことがないぞ。」
すると、急に画面が切り替わった。
「ただ今、不適切な読み方がございました(音読みをしておりました)。(つつし)んでお()び申し上げます。」
そして、画面の端の方では音読みをしてしまったアナウンサーが強制退場させられていた。

本間(もとま)さん、本間(もとま)さーん。」
 昌平はたまらずその受付の人に尋ねた。
「もしかして、訓読みの……」
 彼女は人差し指を口にあて、軽く微笑んだ。だが、その笑顔にはどこか緊張が感じられ、彼女は領収書の裏にペンを走らせた。
「気を付けてください、本間さん。後ろに座っている人、秘密警察ですからね。政府の取り決めに反対して、音読みを繰り返すと連行されるかもしれませんよ。」
― 秘密警察だって…… ―
 昌平は驚きを隠せなかった。この日本に『秘密警察』なんてありえない。ましてや、たかだか”訓読み”をしなかっただけで連行されるなんて……
 
 彼は戸惑いながらも職場に向かうため電車に乗り込んだ。スマホを見ると、トレンドの一位が「佐藤首相」になっている。電車に揺られ、うとうとしていると「アラヤド~、アラヤド~」と聞きなれない駅名が連呼されていた。すると、彼の目には見慣れた新宿駅が映り、『アラヤド』が『新宿』であると悟った。急いで席を立ったが無情にも扉が閉まり、同じような境遇の人と扉の前で目を合わせ苦笑した。
― なにも固有名詞まで訓読みにすることないだろう! ―

 昌平は予定より30分遅れてオフィスに入り、リーダーの新庄さんを探していると、同期の岡が近づいてきた。
「リーダー、駅で揉めて捕まってしまったらしい。」
「それは訓読みの日のせいか?」と昌平が尋ねると、岡はゆっくりと(うなず)き席についた。
「今日はチャットで会話しよう。誰が秘密警察かわからないから。」

 シーンと静まり返ったオフィスで、昌平たちは黙々と仕事を進めた。
― まさかこれが爺ちゃんの言っていた“不思議な体験”なのか。さっきのアナウンサーや新庄さんは今どのような扱いを受けているのだろうか。―

 夕方、岡から「一杯だけ飲んで帰ろう」というチャットが入った。いつもの店に入ると、この日は普段の様にガヤガヤしておらず、みなスマホで会話しながら静かに飲んでいた。昌平と岡も「乾杯」とメッセージを送りあい、グラスを合わせた。すると、祖父の言葉が(よみがえ)ってきた。
「不思議な体験をしたら、その日中にトンネルを逆から戻るのだ。さもないと、その不思議な体験はお前だけでなく、影響を受けた全員の記憶に残るぞ。」
「俺がみんなを救わないと!」
 昌平は急に叫び、店を飛び出した。

 新宿駅に向かう途中、居酒屋から次々に秘密警察に連行される人々を見かけた。
― きっと、アルコールが入ったせいで音読みをしてしまったのだろう。俺のせいだ、急がなきゃ。 ―

 トンネルの前に立つと、夜のトンネルは明かりもなく、より鬱蒼(うっそう)とした気配を(ただよ)わせていた。昌平は、スマホのライトを点け、意を決して中に入った。トンネルを抜け出てスマホを見ると、トレンドから「佐藤首相」や「訓読みの日」は消え失せていた。

そして新庄リーダーからチャットが入った。
「ようわからんけど、お前、みんなを救えたんか(笑)? 今日は、お前やけに酔いが回るのが早かったな!」

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