第1話

文字数 1,990文字

母の家への帰り道に子供と二人で歩いていると、人の流れが大きくなり気づくと人波に飲まれてしまっていた。顔の筋肉はすぐこわばり、背筋に冷たいものが流れる。まつり囃子や焼きそばの匂いをかいで、緊張はすぐに緩んだ。毎年8月に自治体が開いているおまつりには、幼少時に何度も足を運んだことがあった。光り輝く装飾は日常をかれいに変換している。
「あれ、なあに」太郎は即席のやぐらを指差す。頂上に大きな和太鼓。
「ただのおまつりよ」「ふうん」
私は微妙な変化をすぐにかぎとった。太郎は自分の感情をなかなか表に出さない。複雑な幼少期の影響なのかもしれない。胸がズキンと痛む。
「何、興味があるの」
「ううん」
「寄ってみようか」
太郎はいいともいやとも言わずについてきた。キュッキュッと靴音をひびかせて。表情には現れなかったけど、目は新たな体験に輝いてみえた。
家の都合で海外ぐらしが長かったので、人が当たり前に体験することをさせてあげられていなかった。だから目に映るものが何もかも珍しいのだろう。花びらまつりと大書されたアーチをくぐり抜ける。
会場は売り手と買い手とで溢れていた。皆が浴衣を示し合わせたように着ていたので、私服の二人は別のパズルに紛れ込んだピースのように場違いだった。しかし寂しさをかんじさせないほど、訪客は自然にふるまっている。生まれてから一度も他人に興味を示したことがないかのように。楽しむことで精一杯で、当たり前の警戒心さえ解いてしまっていた。わたあめ、水あめ、りんごあめ、懐かしのランナップは昔のままの形で売られている。太郎は物珍しげに屋台をのぞき、そのひとつに目を向けた。鉄ぐしの上にぶら下がったとうもろこしには、むらさきの焼き目がついていた。威勢のいいテキ屋のおじさんから買ったとうもろこしを太郎はひとかみする。甘さといたさが同時に口内に広がり、なんとも言えない顔になった。警戒心がなくなった太郎にお金を渡すと、彼はすぐに人混みの中にかけていった。一人になると我に返り、知った人間に会うのではないかと不安におそわれる。当然一番に考えなければならないことを、いままで思いつかなかったことに我ながらおどろいた。
子供の泣いている声が後方から聞こえてきた。見ると男の子が店先で駄々をこねている。店主は顔色1つ変えずにかき氷器をまわしていた。男の子は親にひっぱたかれ、引きずられ、声は遠ざかり大きくなった。
的を撃つために姿勢をととのえる女、金魚すくいに夢中になり癇癪を起こすおじさん、周りに集まる人だかり。私はその顔の1つに目をとめた。目のかんじになんとなく見覚えがあった。しかし相手と目があったにもかかわらず、表情に変化は生まれない。男は連れと思しき女とベンチの方に歩いていった。私は思った。たとえ知り合いだったとしても、年月を経た自分の容姿を、古い知人が見分けられるとは思えない。
合流した太郎と、彼の買ってきたかちわりを口にしながら、盆踊りを見て回った。普段は球場として活用されている空間が、提灯でライトアップされることで変貌している。和太鼓が鳴り止みしばらくの無音。すぐに空に花が咲き始めた。
「楽しかった」
「うん、色んなものがあったよ。ええとね、かたぬきやさんとか、くじびきやさんとか。全然お金が足りなかった」
「じゃあ、また来ようね」
返事をしようとしたまさにそのときに、太郎はつんのめってしまった。話に夢中になって意識を奪われてしまったのが原因のようだ。立ち止まった太郎は無表情で白いベースを踏みつけた。そのたびにキュッキュと音が鳴った。ベースの上には特徴的な足跡がはっきりと刻まれた。私は周囲に目立たないように小声でたしなめたが、太郎はなかなかやめようとしない。執拗に踏みつける様子に悪徳の影を見た。チの影響だと本能がつぶやく。
すべての感情を洗い流すように、ナイアガラが空を彩った。爆音とともに色が瞬き、音とともに消えていく。巨大な10号玉が空に登ったかと思うと、きらびやかな菊の花を咲かせる。パラパラパラ、すべての視線がその瞬間おなじ空を見ていた。花火の音が静まると、人が起こす喧騒が戻ってくる。手のひらからはあたたみがきえていた。そこに太郎の姿はなかった。興奮は一息のうちに冷めていった。
考えるまでもなく私は駆け出していた。周囲で巻き起こる騒ぎや罵声をすべて無視した。いくあてもなにひとつ、思いつかなかった。誰かに助けを求めようともしなかった。自分がいままでしてきたことに何一つ後悔はない。たとえ当たり前の正しさとは異なっていたとしても。フェンス沿いに進む。周囲にはだれもいなくなっていた。
息が吐き出される音が邪魔をして、彼らが近づいてくることに気づかなかった。複数の人間の気配がした。強烈な光を背にしているため相手の顔を見ることはできない。黒いだけの手が、腕をつかもうと伸びてきた。
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