第1話

文字数 1,970文字

 人生はクソだ。人は生まれた時から、人生の結末は或る程度は決まっていて、一寸やそっとの努力では覆らない。

 俺の父親は、俺が未だ幼い頃に蒸発した。ギャンブルで拵えた借金の所為で、二進も三進も行かなくなり、俺と母親を置いて突然に姿を眩ました。そんな男を選んだ母親の自業自得と言えばそれまでだが、十代での妊娠と出産であれば、それも致し方ないとも言えなくもない。
 幼い子供を抱えた若い女が、生活に困らないだけの金を稼ぐには、水商売が一番手っ取り早かった。持ち前の美貌を生かして、母親は高級クラブに勤め始めた。毎晩遅くに帰宅し、酒に酔っては俺を殴ったり蹴ったりした。俺はそんな母親が嫌だった。でも、母親に棄てられるのはもっと嫌だった。
 幸いにも勉学が得意だった俺は、学習塾等に通わずとも、それなりの大学に進学する事が出来た。給付式の奨学金が獲得出来たお陰で、授業料の支払いに問題は無かった。この機会にと実家を出て、俺はアパートで一人暮らしを始めた。生活費はアルバイト代で賄える予定だった。
 だが、この頃から母親の俺への金の無心が始まった。度重なる大量の飲酒で身体を壊し、母親は水商売から足を洗っていたのだ。日々の生活にも困窮し始めた母親は、当然の様に俺に生活費を要求して来た。俺はアルバイトのシフトを増やして貰い、何とか母親への仕送りを続けた。
 そんな生活は、俺が就職してからも変わらなかった。それどころか、要求額は次第に増えて行き、毎月十万円単位の金を催促される様になった。毎月の食費を一万円以内に収める程の節約生活をしても、既に限界を感じていた。
 そんな時、母親の病が発覚した。治療費に数百万円は掛かるとの事だ。詳しい病状や治療方針を訊いても、母親は何一つ具体的な回答はしない。解っている。これは俺に纏まった金を要求する為の、母親の欺瞞だという事を。そうだと解っていながらも、俺は銀行口座に残されていた全額を、母親の銀行口座に送金した。

 日暮れの跨線橋を歩きながら、俺は次の給料日までの生存方法を思案した。古レールを構造材に利用したその橋は、何処か寂れたもの悲しい雰囲気が漂い、今の俺自身の心を体現しているかの様だった。フェンス越しに行き交う電車を眺め、気付いた時にはフェンスに片足を掛けて攀じ登ろうとしていた。
「死ねると……良いね。」
フェンスにしがみ付いた俺に、そう冷たく声を掛けたのは、車椅子に乗った一人の女性だった。
「だ、誰……?」
「貴方の先輩……になるのかな。」
彼女がロングスカートの裾を捲り上げると、其処には在る筈のものが無かった。膝より少し上の位置で、両脚が切断されている。
「……五年前って言えば解るかな?」
 五年前、この跨線橋で女子高生の飛び降り事件が報道された。飛び降りた瞬間に列車に跳ねられ、意識不明の重体との事だったが、その後の詳細は不明であった。
「生き残ってしまったのよ。運が良いのか……、悪いのか……。」
そう言って車椅子を押して、此方に近付いて来る彼女は、肩下辺りから右腕が無かった。左腕だけでハンドリムを握り、車椅子を動かしている。
「……この姿に……、貴方に……この姿になる覚悟が有る?」
俺は何も口にする事が出来なかった。
「……でも、この姿になってみるのも悪くは無いわ。この姿になって初めて、私は生の喜びを感じられた。生きているっていう事が、こんなにも素晴らしい事だって、初めて気付く事が出来たわ。」
彼女は、車椅子の背凭れに掛けたバッグから水筒を取り出すと、片手で器用にそれをコップに注いで俺に渡した。
「今夜は冷えるわ。少し長話になりそうだから、それを飲みながら聞いていて。」
彼女から渡されたコップを受け取ると、それは温かな湯気を放つコーヒーであった。円やかでありながら酸味の効いたその香りは、俺の鼻を予想以上に刺激した。
 彼女はゆっくりと、まるで幼い子供に絵本を読み聞かせるかの様に、自身の飛び降り事件の顛末を語った。聞くに堪えないその内容に、俺は此処に来て一瞬でも自殺しようとした己を恥じた。そして彼女は最後に、一冊の本を手渡した。
「作家の真似事なんだけれどね、自費出版で本を出してみたの。ジョン・レノンの歌詞の好きな所を日本語訳して、私小説っぽく構成してみたんだ。……読んでくれると嬉しいな。」

 彼女とはそれきり、二度と会う事は無かった。只、あの時に彼女から渡された本は、折に触れて読み返していた。その中の一節が、いつまでも俺の心の中に棲み付いた。彼女は、ジョン・レノンの歌詞に希望を見出し、俺はそんな彼女に生へと連れ戻されたのだ。
 母親からの金の無心は相変わらず続いたが、跨線橋での出来事以降、俺は一円たりとも金を送らなかった。酷い悪態を吐かれもしたが、それでも俺は己の意志を曲げなかった。
 これは、俺の戦争だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み