第1話

文字数 1,992文字

目覚ましの音が鳴りやまない。いつもは彼が止めてくれるのに。昨晩、同棲中の恋人は帰ってこなかったらしい。どういうことかと困惑するが、朝の時間は無情に過ぎていく。
夜、帰宅すると飼っている猫のチャーリーがするりと寄ってきた。
亮介と私がチャーリーに出会ったのは行きつけの焼き鳥屋さんだ。看板猫に子猫が生まれたというので見せてもらったのだ。
「この子、チャーリーブラウンの服を着ている」
一匹の子猫が、茶色の毛に、お腹から背中にかけて黒いギザギザの模様がぐるりと入っており、チャーリーブラウンの着ている服に似ていたのだ。
「本当だ」
亮介が吹き出した。
この時、すぐにわかってもらえたことが思いがけないほど嬉しかったのを覚えている。
私たちが子猫目当てで頻繁に来店するものだから、お店のご夫婦にも笑われた。
「この子たちのおかげで商売繁盛だわ」
なんて言いながらも、チャーリーを譲ってくれることになった。
当時、亮介の住まいだけがペット可だったので、チャーリーは彼の家で飼われることになった。チャーリーに会いたくて、しょっちゅう亮介の家に遊びに行ったものだ。
「一緒に暮らそう」
亮介が言ったのは半分呆れていたんだと思う。
茶色の毛並み越しに、ストッキングから透ける頼りない足先を見つめて思う。
大好きなチャーリーがいてくれるのにどうしてこんなに心細いのだろう。
 
翌日も、そのまた翌日になっても亮介は帰らなかった。不在に気づいたときから時折メッセージを入れているけれど、いまも既読にならない。嫌われて出ていかれてしまったのかもという不安よりも、今は彼の安否のほうが心配だった。
引き出しから一枚の名刺を取り出す。亮介の友人、高木くんのものだ。高木くんに会ったのは本当に偶然だった。
その日、私はバレンタインデーに亮介へ贈るチョコレートを買いにデパートに来ていた。催事会場は女性たちでごった返していて、上を下への大騒ぎだ。そこでどういうわけか亮介本人と高木くんにばったり出くわしたのだ。
亮介は気まずそうに目を泳がせる。
「亮介?どうした?」
「あー、えっと彼女」
「おー!こんにちは!亮介の友達の高木です。それ亮介に?」
私の紙袋を指し、亮介からは聞きにくいことを朗らかに聞いてくる高木くん。
「そうです。はじめまして、笹崎です」
「おー!亮介、愛されてるな!そうだ!これから一緒に飲みに行かない?」
いいとも悪いとも言う暇なく、気づいたら、同席させられていた。
「バレンタインの売り場に行きたがったのは、コイツだから」
亮介がやっと口を挟んだと思ったら、なぜかそんなことを言う。
「男が買いに行っちゃいけない理由なんてないだろう」
高木くんは快活に笑うと、戦利品を自慢げに見せてくれた。甘いものが好きらしい。亮介も好きなはずだけど、買わなかったようだ。
名刺はその時にもらった。直通の携帯電話番号。昼休みに意を決して電話する。
「おー!笹崎さんか。久しぶりだな!」
私たちはお互いを苗字で呼ぶ。亮介がそうするように強く主張したのだ。ふくれっ面で、子どものような強情さで。
事の次第を話しても、高木くんは楽観的だった。もし会社を無断欠勤していれば上司が訪ねて来るはずで、安否不明となると大家さんや実家に連絡が行くはずだと。
第三者に客観的な正論をもらえて、少しホッとする。事故や事件に巻き込まれたのではないのかもしれない。
けれどその翌日になっても、やっぱり亮介は帰ってこなかった。このまま戻らない彼を待ち続けて、いつかおばあさんになってしまいそう。人付き合いが苦手で、猫ばかりたくさん飼っている孤独な老婆。こんな日に限ってチャーリーはベッドに来てくれない。毛布を引きずって、リビングの床で眠るチャーリーのそばへ行き、自分も猫みたいに丸くなる。
悲しい夢を見た。
「子猫を見せてください」
亮介と知らない女の人が訪ねてくるのだ。二人は手をつないでいる。猫を見ている間もずっと。私は消えてなくなってしまいたいと思う。するとみるみる年老いておばあさんになってしまうのだ。

「菜子《なこ》!なんでこんなところで寝てるんだよ。おい、泣いているのか?」
目を覚ますと大好きな仏頂面。
「亮ちゃん?なんか黒い」
「ああ、タイに出張していたから、日に焼けた。言っただろ」
「聞いてない」
「言ったよ」
「聞いてないもん」
安堵で余計に泣いてしまう。
「言ったと思ったんだけど。ごめん」
亮介は抱きしめて背中をさすってくれた。
「さっき高木から電話があって、怒られた。菜子が心配してるって。ホテルにWi−Fiくらいあるだろって」
亮介はフロントにWi−Fiの有無を聞いたりするタイプじゃない。高木くんとは違うのだ。日に焼けた首筋に顔を埋めて、私はちょっと笑ってしまう。
「菜子?大丈夫か?」
「もう大丈夫」
私たち、ちょっと不器用なまま、一緒におじいさんとおばあさんになれたらいいな。このままずっと、猫も一緒に。
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