第1話

文字数 1,993文字

ドアを開けると、獣臭が洋子の鼻をついた。靴を脱いであかりをつけると、スマイルと名付けられたトイプードルがゲージの中で尾を振っている。

「てめぇ、また粗相しやがったな」

ゲージに隣接する壁に黄色い染みができているのを見つけ、洋子はスマイルを怒鳴りつけた。スマイルは肩をすぼめ、ブルッと全身を震わせた。

「ふざけんなよ。こっちは疲れて帰ってきてんだ」

洋子は怒りに任せてスマイルの頭を一発殴った。

看護師で独身というだけで、認知症の祖母とその飼い犬の面倒をみろ、というのはあまりにも理不尽だ。体よく姉夫婦一家に実家を乗っ取られた、と洋子は考えている。

だからこの犬に少しぐらい当たったって、罰が当たることはないと思う。

壁の掃除を終えた洋子はゲージからスマイルを出す。叱ったばかりだというのに、スマイルは飛び跳ねながら洋子の足に纏わり付く。洋子はスマイルを抱き上げた。

何もしなければかわいい。スマイルは洋子のSNSを彩る重要な道具なのだ。

「おばあちゃん、ただいま」

和室に続く襖を開け、洋子は祖母に声をかけた。反応はない。介護用ベッドの上で、横になっているままだ。

最近、祖母はだいぶ衰弱している。昼夜を問わず、眠っている時間が多くなっている。

今日は1時間前までヘルパーが様子見をしてくれていた。ちゃぶ台の上にある引き継ぎノートで、洋子はその内容を確認する。

「おばあちゃん、夕飯の時間だよ」

洋子は祖母の体を揺すった。その時、ふと気がついた。まるで人形のように、力が入っていないことに。

祖母は息を引き取っていた。




葬儀が終わり、洋子は祖母の遺品の片付けをしていた。

本当は母にやって欲しかったが、姉の子どもたちの用事があるから、と断られてしまった。

つくづく自分は損な星の下に生まれた、と思う。

祖母は昭和一桁世代だけあって、物を溜め込んでいる。戦時中の物不足を経験しているからなのか、もったいないが口癖で、なんでも捨てずに取っておいていた。そのツケが洋子に回ってきている。もはやボロ布でしかない着物や端の欠けた食器など、ゴミでしかない物の山を、洋子は片っ端からビニール袋に入れ、処分していくが、やってもやっても減らない。

「こらっ、お前、さわるんじゃねえ」

客人から菓子折りとしてもらったと思われるクッキー缶に鼻をつけていたスマイルを洋子は足蹴した。尻尾を丸め、スマイルは逃げ出す。

終わらないのではないか、と一抹の不安が洋子の胸をよぎった時、祖母のベッド脇に数冊のスケッチブックがあるのを見つけた。

内向的な性格だった祖母の唯一の趣味が写生だった。元気な頃は絵画教室に通っていたし、認知症になってからも時折鉛筆を走らせていた。小さい頃から洋子は何度か見せてとねだったが、祖母は頑として見せてくれなかった。洋子に限らず祖母は誰に対しても自分の絵を披露することを拒否していた。

見たい。

洋子はすぐに手を伸ばした。

うっすらと埃を被ったスケッチブックのページをめくっていく。風景画と静物画が中心だ。

すごく上手い、プロ並の腕だ、というのが正直な感想だった。どこかの美術館に飾ってあってもおかしくないレベルだ。どうしてこれを見せるのをあんなに拒否していたのか。

もちろん、祖母は美大を出ているわけではないし、絵を描く職に就いていたわけでもない。女学校を出てから、少しの期間の家事手伝いを経て、以降ずっと専業主婦だ。外で働いた経験は一度もない、と聞いている。母がそのことをよく嘲笑していた。

宝の持ち腐れ、とは言えたものだ。祖母は現代であれば、その才能を活かし、仕事をしていたのかもしれない。

時代が、社会が、それを許さなかったばかりに、埋もれてしまったのだろう。

古いスケッチブックには山岳や河川などの旅先で描かれたと思われる絵や、庭先や公園で季節の草花を描いた絵が続く。いずれも鉛筆画だが、山の稜線や花びらの陰影といった細かな部分に至るまで緻密に描かれており、画力の高さがうかがえた。

このところ抱えているのを目にしたものもある。祖母はここ数年、体調がすぐれず病院以外の外出はしていなかった。家にいてもベッドから動かない日も多かった。それにもかかわらず、何を描いていたというのか。

洋子は年季の入っていない赤いスケッチブックを開いた。

寸時に自分の目の前が暗くなるのを感じた。

息も苦しくなった。

何、これ。それしか頭に浮かんでこない。

劇画調の人物画が目に飛び込む。そこには鬼の形相をした女がいた。

女は叫び目を吊り上げ、拳を振り上げている。物言わぬ小さきキミに向かって。

次のページも、そのまた次のページも、同様の作品が描かれている。

いつの間に祖母はこんなものを描いていたのか。

洋子の背筋がゾクッとした。スマイルが洋子の足に黒い鼻をつけていた。

目線を上げると祖母の愛用していた姿見があった。鏡の中で洋子はスマイルと目が合った。

その瞳には怒気が灯っていた。


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