名もなき愛の中で

文字数 1,939文字


 このまま目が覚めなければいいのに。瞼の向こうで白く光る太陽を感じ、逃げるように布団に潜り込む。考えている時点で起きてしまっている。気づいているのに、毎朝、忘れたように願うのだ。それは今日のような休日でも変わらない。
 昼まで眠ってしまおうと思ったが、インターフォンのベルが邪魔をする。布団の隙間からインターフォンモニターを確認すると、にこりともしない仏頂面の男が映っている。
 無視を決め込みたいところだが、以前、それをして五分おきに電話が鳴り続けた。布団を被ったままオートロックを解除して、彼が入ってくるのを確認してから玄関の鍵を開けに行く。
 ベッドに戻り、瞼を閉じたタイミングで扉が開く音が聞こえ、続いて鍵をかける音。
 ワンルームのこの部屋には、足音を子守唄代わりにすることもできないまま彼がたどり着く。
 潜り込んだ布団の中、彼がベッドの前に静かに立つ気配を感じて、幼い頃、起きない私の布団を剥がしにきた母を思い出した。
 だが、彼はあの頃の母のように布団をもぎ取るわけではなく、ただ静かに頭を撫でる。それがひどく心地良い。
「まだ寝てたい」
「ダメだよ、起きて」
 あの仏頂面から出ているとは思えないほど、透き通った柔らかい声。雨が話せるのならこんな声だろうか。
「怖い、夢を見たのよ」
 彼が屈んだのがわかり、布団を自分で吹き飛ばして彼の首にしがみついた。優しく背を撫でる手。この手が私の肌に触れたことはない。
「眩しい白い部屋で、仲が良かった人たちが皆、白い部屋に溶けていくの。愛した人が、皆」
「夢の中は君の不安が抽象的に描かれているだけだよ。すべて想像だ。僕は、いなくなったりしない」
 ありきたりな慰め。だけど、それに縋りたいほど苦しい朝は定期的にやってくる。そして、彼がその口で私に愛を囁くことはない。
「ごめんなさい」
 それでも、彼の止め処ない愛が私を焦がしてしまいそうで、私はいつも謝る。男女が熱く身を寄せ合うように、私たちは約束と謝罪を繰り返す。
 彼は、私じゃないとダメなんだと言う。私は、彼に対する愛と同じものを、家族や友人にも抱く。誰も、その枠を越えることができない。
 たとえ、朝から家に来ることを許せても、寝起きのだらしない姿を見せることができたとしても。

 性や恋愛の自由や権利が叫ばれる世の中で、一体私は何者なのだろう。彼がもし、その手に下心を忍ばせたなら、私はきっと拒絶してしまう。そしたらもう二度と、彼の手には触れられない。
 いつか、誰かが言った。「あなたは本気で愛せる人に出会えてないだけよ」と。
 アセクシュアルやノンセクシュアルという、恋愛感情や性的感情を抱かない人も存在するらしいけれど、自分がそれに当てはまるのかもわからない。
 誰かが言ったように、愛せる人に出会えていないだけかもしれないし、『恋愛感情や性的感情を抱かない』という定義もわからない。
「おはよう」
「おはよう」
 『大好き』や『愛してる』は言わない。愛せる自信がない、身を寄せ合える自信がないと打ち明けた私に、それでもいいからそばにいたいと言ってくれた彼。だけど、いつ彼がそれに疲れるかわからない。言葉は縛る。嘘でも愛を囁けば、優しい彼はきっと、嘘をつかせてしまったと傷ついてしまう。
 形の違う愛に、唯一私が返せる形に見合った愛。
 しがみついていた腕を離して彼を見る。あまり表情が変わらない彼の、時々見せるあたたかい微笑みが好きだ。
 眩しい太陽がよく似合う、優しい微笑み。私の友人や、今まで出会った華やかに恋愛を楽しむ彼女たちなら、この笑みに頬を染め、口付けをひとつし、互いに微笑み合うのだろうか。
 彼も本当は、それを望むのだろうか。
 そんな思考を遮るように、彼の両手が勢いよく私の両頬を挟む。ペチン、と間抜けな音。
「おはよう」
 少し叱るような、ほんの少しだけ悲しそうな声。こんなとき、『ありきたりな慰め』を言わない彼は、本当に優しくあたたかい。
 こんなに素敵な人さえ、家族や友人の枠を出ない私は何か人として欠けているのだろうか。身を許せない私は、どこかおかしいのだろうか。
「おはよう」
 私たちはどちらともなく手を握り、また微笑み合う。強く逞しい、骨張ったこの手も私は好き。
 キスも愛の囁きも飛ばして、ただ挨拶を交わし、微笑み合うだけでは、本気の愛として認められないのだろうか。
 それが私にとって、最上級の愛なのに。

「今日も、ありがとう」
 こんな私のそばにいてくれて。
 きっと交わることがないけれど、私はあなたを見ると、憂鬱な朝でも目が覚めて良かったと思えるよ。
「こちらこそ」
 太陽に溶けそうな、彼が笑う。
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