第1話

文字数 1,891文字

 心の隙間を埋めるように、煙草の煙が入り込んだ。愛しそうな目で私を見つめて、右手の煙草を遠ざけながら左手で私の頬を撫でる。そんな巻き戻したい日々を思い出して、気づけば煙草を手に取っていた。

 何度も私の部屋で吸う彼の紙巻煙草は、部屋の壁紙を黄ばませた。壁紙に染み込んだヤニと、私の胸のざわめきだけが彼の残したもの。

 「部屋で吸うの辞めてよ」という私の言葉に、彼はいつも曖昧に笑うだけで答えなかった。次の会う約束には、大きな観葉植物のパキラを買ってきて「これで空気良くなるだろ」なんてズレたことを言ってたけ。

 そんなところも、たぶん、好きだった。バイバイしてからもう二ヶ月も経つのに、夢に出てくるのはきっとまだ好きだったんだろう。

 夢の中の彼はいつもみたいに紙巻煙草を燻らせながら、唇の右側だけ口角を上げる。急に動くから、いつもつけていたピアスが揺れて音を立てた。そして、煙草の火を避けながら、私に軽いキスをする。甘ったるい味すら、した気がする。

 優しい声で「××」と私の名前を呼んで、愛しいと張り付けた目で私を見つめる。場面が急転換して、お昼の街中を二人で手を繋いで歩いて、彼は相変わらず紙巻煙草をくわえていた。至って平凡で、至って幸せそうなカップルだった私たち。嘘だ。全部嘘。お昼の街でデートしたことなんてなかったし、手を繋いだことなんて一回もなかった。

 偽りの記憶が私を責め立ててるようで、目覚めは最悪だった。

 思い返せば、別れる頃には彼はもう加熱式煙草を吸っていた。だから、夢の最初の場面は、出会ったばかりの美しい時期の記憶だろう。私がまだ、期待を持っていた頃の。

 本当に彼は最初から最後まで「最低な人」だった。

 いつだったか忘れていった紙巻煙草が出てきたせいで、そんな夢を見たのかもしれない。そうやって自分を誤魔化して、また、いつだったか忘れていったライターで火を灯そうとする。

 一向に火が付く気配がなくて、私と彼みたいだなと笑ってしまう。彼の心には一生、火をつけられなかった。彼にとって私はただの都合のいい女でしかない。その事実を信じたくなくって、抗って、見えないふりをして、だから、埋めてもらったはずの心の隙間は広がってるのだろう。

 カチカチっとライターが動く音だけがして、煙草に火は映らない。メッセージがスマホに表示されて、すぐ開いてしまう自分が恨めしくなる。

 彼からの「今日も会えないの? 家の近くまで来たんだけど」というメッセージは開かずに、インターネットに繋げる。煙草、火の付け方を、検索フォームに入力すれば、吸い込みながら付けるという答えを得られた。

 彼からのメッセージは相変わらず、何通も短い言葉で送られてくる。「もう会わない」という私の答えは、いつまでも無視されたまま。

 紙巻煙草をくわえて、吸い込みながらライターを近づければ、ボッと赤い火が灯った。やり方を変えれば、彼の心にも恋心を灯せたのだろうか。そんなことないってわかってるけど。

 私ばかりが好きで、私ばかりが求める恋だった。彼にとっては、恋ですらなかった。私たちの関係は、全てもうシケってしまっていて、火なんてどう頑張っても灯りようもない。

 わかってるのに、甘ったるい匂いが彼を思い出させて、目に染みる。喉の奥に煙が突き刺さって、吐き出しそうになった。灰皿の上に紙巻煙草を載せて、火がどんどん端まで迫っていくのを見つめる。

 火が消えていくのを見届けてから、他の紙巻煙草を取り出して、また火をつける。儀式みたいだな、と思った。忘れられない、彼を忘れるための。

 煙草が一本、一本と火を灯すたびに彼からのメッセージがスマホに表示される。「本当に会わないつもり?」「俺そんなの嫌」「家行く」「返事してよ」届くメッセージには、彼の本心は何一つ無いように思えた。

 私だけが、好きで、私だけが苦しむ恋だった。

 観葉植物一つで煙草の煙は、消えないし。空気は清浄にならない。

 全てが、彼の答えのような気がしてくる。

 でも、思い出すたびに涙が流れてくるのは、まだ好きだから。巻き戻したい。時間を巻き戻せば、火を灯せる方法は見つかるかもしれない。

 そんな甘い思いを打ち消すように、煙草の煙は喉の奥で私を刺激する。喉に刺さって、ごほっと吐き出す息に、好きが混ざって灰色に染まっていく。

「もういいわ」

 最後のメッセージが、彼の本心だろう。都合の良くない私には、興味なんてない。冷酷で淡白な彼の本心。この二ヶ月の間で、何回も見た言葉に急激に火が消えていく。

 気づけば灰皿の上で、彼が忘れて行った紙巻煙草が全て灰に変わっていた。



 
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