兆し

文字数 708文字

急ごう。顔や首からべっとりとした汗が噴き出し、手でそれを拭いながら帰り路を早歩きで駆け抜けた。もう少しで倒れてしまうと脳が明確なまでに信号を送っていて、最短で帰れる極めて細い路地や、抜け道も同時にナビゲーションされていた。火事場の馬鹿力、ある種の覚醒状態のような感覚が朦朧とした意識のなかに刻まれていた。
次に意識を戻したのは、夏場ずっと敷きっぱなしでカビだらけの布団の上だった。大量の汗に溺れるような焦燥感で目を覚まし、飲みかけてあった2リットルのペットボトルに半分くらい入った生温い水を一気に飲み干した。脱水状態に近いのもあってぼんやりとするなか、今自身がどうなっているのか整理を始めた。
真鍋彰。この夏で二十歳になる。名前のある大学に通っていたが倦怠感や目的が何一つ見つからずに中退し、自堕落な生活に見兼ねた父親から実家を追い出され散々だった。どうしても都心に住みたかったので長く安いアルバイトで金を貯め、大阪ミナミの少し外れの六畳一間を借りることにした。それまで何人かの友人の家にお世話になったので、飯でも奢って恩返ししようと決めていたが、余裕など一向に生まれなかったため忘れることにした。同じ大阪でも景色は全くもって違い、以前はベッドタウンで幾分良い生活をしていたが、今となっては悪い空気、治安そして辛いアルバイトの疲労で吐き気に苛まれることがしばしばあった。その吐き気から目を逸らすために睡眠薬から大麻、そして覚せい剤へと手を伸ばしていったが、それまでに大した時間はかからなかった。
何かを成し遂げたわけではないが激動の一年に、世界も大きな事象に頭を悩ませていた。新型ウイルスの蔓延である。

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