第2話 さようならの理由

文字数 2,536文字

 店を出ると、すでに夕方になっていた。薄暮の中、日比谷公園に移動し、並んで散策する。もはや言葉はいらなかった。木々の隙間から茜色の空が見える。色づき始めた葉が、はらはらと落ちてくる。二人の間の微妙な距離が、麻衣にはもどかしく思えた。卓也と付き合っていた、自分が一番幸せだった頃のことが走馬灯のように頭の中を巡っている。
 結局、公園の中では一言も交わさず、車で三軒茶屋へ向かった。タクシーの運転手に卓也が三軒茶屋と告げた時から、これから自分たちが向かおうとしている場所がわかった。その店は、麻衣の誕生日など特別なイベントの時に行く店だった。店主とも顔なじみだったが、つかず離れずのスタンスで二人の空間を大事にしてくれるいい店だった。久しぶりに二人が店に入ると、店主が軽く会釈する。この店も昨夜卓也が予約したに違いない。軽いつまみとワインを頼む。
「なんか懐かしいね。ここに来ると、昔に戻ったみたいに感じる」
 麻衣の口から素直な言葉が漏れた。
「時間は巻き戻せないけど、心は戻せるんだよ」
「それはどういう意味?」
 卓也が何か答えようとした時に、店主がつまみとワインを持って近づいてきた。
「再会に乾杯」
 卓也の言葉で始まった再会の宴は、お酒がまわるにつれ二人を饒舌にしていった。
「ねえ、麻衣。最近、恋愛関係はどうなの?」
「まあまあ、かな」
「まあまあ?」
「そう。まあまあ」
 うまくいっているというのも、何か嫌だったし、かといってうまくいっていないというのも、何か嫌だった。でも、卓也は麻衣の言葉を聞いて、急に黙り込んでしまった。
「何よ、自分のほうから訊いておいて黙っちゃうって。じゃあ、卓也のほうはどうなのよ」
「僕は、麻衣と別れてから誰とも付き合っていないよ」
 『やっぱりね』と言いたかったが、その言葉は飲み込んだ。本当のところ、卓也ほどのいい男を女が放っておくはずがないのだ。だから、卓也は自分の意思で自分に近づく女たちを排除しているのだ。
「その言い方、なんだか私のせいみたいで嫌だな」
「事実、僕は君に振られた」
 卓也が今でもそう思っているとは思わなかった。酔ったせいもあるけど、今日言わなければ一生言う機会がないような気がして、すべてを話すことにした。
「私がなんで卓也と別れたと思っているの?」
「だから、それは麻衣に僕以外の好きな人ができたからだよね。あの時、君はそう言ったじゃないか」
「確かにそう言ったけど、そんなこと信じたの?私が卓也以外の人を好きになるなんてありっこないでしょう」
「えっ、どういうこと?」
「今日は本当のこと言うから聞いて」
「うん」
当時から、卓也のほうはともかく、女たちが卓也を放っておかなかった。だから、卓也の周りにはいつも女たちがいた。私は愛されているのは自分だけという自信はあったけど、それでも時に卓也を疑うことがあった。それで、ある日卓也がお風呂に入っている時に、携帯や開いたままのパソコンの中を探ってしまったの。そうしたら、パソコンのお気に入りの中に、ある女性の写真を発見してしまったの。その女性は、それまで私が知っていた卓也の周囲にいた女性ではなかった。しかも、とてつもなく綺麗な女性だった。写真の多くは自撮りの写真で、卓也と一緒に映った写真はなかったけど、私は自分でもどうしようもないほど嫉妬したわ」
 この時、卓也は麻衣の言葉からすべてを察したようだった。
「どこかで見たことがあるような顔でもあったけど、その時はただショックだったのよね」
「そうか…」
「それからというもの、チャンスを見つけては卓也のパソコンの中を覗いた。その女性の写真は少しずつ増えていた。しかも、日頃卓也が言っていた女性の好きな仕草を、その女性はしていた。でも、何度も何度も見ているうちに気づいてしまったの。その女性が卓也自身だということに」
 ついに言ってしまった。
「知っていたのか…」
 卓也は唇を噛んでいる。
「その時私は、卓也が理想の女性を自分の中に見つけてしまったことを知ったの。私なんか、どうあがいても敵わないと思ったわ。その人は、ものすごく綺麗で、知的で、それでいて極めて女らしく、優雅で、きっと優しい。それに比べて、私は、わがままで、勝ち気で、少し意地悪で、素直じゃなくて、それほど美人でもないし、太刀打ちできるわけないじゃない」
 麻衣は自分の言葉に感情が高まり、目からは涙が零れていた。
「何でそんなこと言うの。僕は君のすべてを含めて好きだった。もちろん、今でもその気持ちに変わりはない」
「そんなこと言われたつて…。あの時は嘘を言ってでも卓也と別れるしかなかったの」
「そうだったのか。ごめん。まさか、麻衣がアレを見てしまうなんて思わなかった。弁解になってしまうけど、あくまでアレは趣味だった。社員旅行の宴会の余興で無理矢理やらされた時、悪くはないなと思ったのがきっかけだった。今、麻衣が言ったように、自分の理想の女性を自分の中に作っていこうとしたのも事実だ。でも、僕にとってはやっぱり現実のほうが大事なんだ。僕が心から愛しているのは、自分が作り上げた理想の女性ではなく、麻衣しかいない。だから、僕ともう一度やり直してくれないか」
 麻衣が吾郎と付き合うことにしたのは、卓也のことを忘れるためだった。だから、敢えて卓也と正反対のタイプの男を選んだ。だが、結局、卓也を忘れることなどできなかった。
「こんな私でもいいの」
「いいに決まっているじゃないか」
「ありがとう」
 今回卓也と会うことになった時から、こうなることを予感していたような気もする。ただ単に、そう願っていただけなのかもしれないけど。
「これからは麻衣を心配させないように、女装は止めるよ」
「ううん、いいの。って言うか、今度一度彼女に逢わせて。卓也抜きで二人でデートするなんて、楽しくない?」
 実際のところ、女装した卓也に会ってみたいと思った。会っていろんな話をしてみたい。
「僕抜きでかあ。相変わらず麻衣はおもしろいこと言うな」
 お互いのすべてをさらけ出すことで、二人の愛のレベルは一段上がったような気がするのであった。
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