第1話

文字数 2,667文字

 貴方は妖怪を信じますか?と聞かれたらどう感じるだろうか?

 急に何を言っているんだ?と言う顔をされるかもしれない。そもそも、妖怪とは何なのか?と言われてしまうかもしれない。ただ、それはひょっとしたら『妖怪』と言うものについて実はとても的確な問いかけなのかもしれない。

 平成から令和へと時代は移り変わり、情報源もネットが主流になった。既にテレビや新聞が情報源だった事も過去のものへと移り変わろうとしている。昭和の頃にテレビが一般に普及した頃はきっと画期的な情報に対する捉え方の転換があった筈だ。今まで直接目で見られなかった風聞が、目に見えるようになり、説明できるものになった気がしたかもしれない。今では、そんな事も錯覚であったと認識しだす人も増えてはいる。ただ、今ネットやSNSで得られる情報もまた、事態を見えるようにはしているかも知れないが、それは本当に知ったと言えるのだろうか?テレビやラジオが出だした頃のように、知った気になって一応の安定を得、自分や社会と折り合いを付ける、そのやり方が変わっただけなのかもしれない。

 今から書評を書く京極夏彦の『姑獲鳥の夏』は、時代が昭和から平成になって暫く経った1994年に出た。その頃と同じように、戦争が終わって数年後の昭和27年の梅雨も終わろうとする頃に、小説家の関口巽が友人の中禅寺秋彦を訪ねようとする場面から幕を開ける。

「二十箇月もの間子供を身籠っていることができると思うかい?」

 関口巽が京極堂こと中禅寺秋彦に発する、この一見謎めいた問いかけがこの物語の終盤まで関わってくることになる。
その関口の問いかけに京極堂はこう答える。

「この世には不思議なものなどなにもないのだよ」

 直接この百鬼夜行シリーズを読んだ事がない人でも知っているかも知れない、この小説を代弁するフレーズだ。シリーズ全体の、ひいてはこの物語を越えて世界と言う枠組みの中を生きる人たちへ届く言葉でもある。

 京極堂はその不可解な質問に対して、ストレートに答えない。
言い換えるなら、その枠組みの中で使われる言葉に同じ土俵で言葉を返す事を最初は避ける。
それは何故かと言うと、言葉はそれ自体が物事を縛り、世界を作り出す力を持つものだからだ。言葉によって、人は認識した世界を自分なりに解釈し、本来なら個人で理解するにはあまりに多すぎる情報と矛盾を自分の中で受け取り、それを生きていくのに必要なだけ解釈する。この作用そのものが「呪」であり「言霊」だと、京極堂は言うのだ。
 
 この物語には、京極堂と関口巽以外にもたくさんの登場人物が出て来る。

 『主役級以外にもたくさんの登場人物が出て来る』と言う表現は小説の売り文句としてはありきたりなものかもしれないが、この本のボリュームがたいていの小説一冊の厚さと一線を画している事を見てもらえれば、その言葉の意味がまさにどれだけの重みを持つのか想像して貰えるのではないだろうか。
 
 京極堂の実妹であり、職業婦人として雑誌社で働く兄とは似ても似つかない明朗さを感じさせる中禅寺敦子に、関口の戦時中からの友人であり、関口とは正反対の武骨な肉体派の刑事木場修一郎。関口が風聞を聞いて持ち掛けた相談から、実は彼にとっては意外な接点があった事が判明する産婦人科の娘、涼子とその家族。そして、その他にも作中の流れで登場する登場人物たち、彼らは所謂『モブキャラ』と小説的にはされる役割ではあるが、時代の流れ、その置かれた立場を細かく描写される事で、記号的なキャラクターの枠を超えた息遣いの感じられる生の登場人物になっている。

 様々な登場人物の中でも、一際異彩を放つ登場人物を挙げるなら、探偵、榎津礼次郎からだろう。彼のキャラを説明するなら『探偵』だ。先ほど、推理小説で言うなら京極堂が所謂『ホームズ』や『ポワロ』のような名探偵のポジションも兼ねると書いたが、ならば彼もまた『名探偵榎木津』なのかと言えば、そうではない。彼の捜査法、推理方法はおよそロジックを使って謎めいた事件のトリックを暴いていくミステリの探偵のものには程遠いからだ。ならば、メインの探偵的なポジションの京極堂を引き立てる、『噛ませ犬』のような役割かと言うと、これも違う。彼はひたすら『探偵』である事を、彼自身が持ち得るある能力によって宿命づけられている身である。彼は時代や価値観常識と言った枠組みの中にそのある能力と生来の自由闊達な性格から囚われる事なく、ありのままに物事を見る。ありのままに物事を見る事で、事件の真相を意図せずに知ってしまう。そういう立ち位置故に、実はある意味皮肉にも彼自身の特殊性とは別のところで事件の真相を解くカギに関口と一緒に立ち会ってしまうのだが。

 これら個性的な登場人物達と、昭和の戦後を背景にした彼らに絡むのは『妖怪』であり『姑獲鳥』である。『妖怪』とは何なのか?と言う問いかけに、この小説は全編を通して『妖怪』を描写していく。『姑獲鳥』と言う人の子供を奪うとされる古来からの伝承にある妖怪は、まさにこの小説の中で起きる『二十箇月の間子供を身籠る妊婦』、『部屋から消えたように失踪した医師』、『病院で行方不明になった嬰児たち』と言った怪事件を物語るものとして相応しい特徴を持つ。それは妖怪がまだネットはおろか、テレビもラジオも新聞もない時代に身の周りに起きる不可解な事を説明するものとして機能していた現象そのものであり、そう言った近代的なメディアが機能しきれない状況では、時代が変わっても現れるものである。その現象そのものが『妖怪』であり、その妖怪の作用が更に関わる人々にマイナスの影響を与える事態になった時に、『憑き物』としてその妖怪を払い落とす事を仕事とする京極堂の出番となるのである。

 終盤、関口の懇願を受け京極堂はこの関わる人々に憑いた『姑獲鳥』を落とす。それは探偵小説で言う、不可解な状況から真相を明らかにするロジックや、カウンセリングで悩みを抱える人の苦悩に解決の糸口を与えるヒントのプロセスにも通じる。その不思議を構成するものそのものは不思議でもなんでもなく、それが知らない知識、見過ごした矛盾の積み重ねが溜まったときに、初めて人がその知識や常識で一見理解することが出来ない『不思議』であり、『妖怪』に見るのだ。それらを払い落とす現代の陰陽師として生きる京極堂はそれを知るのである。

「この世には不思議なことなどなにもないのだよ」
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