第1話

文字数 1,879文字

「お前なんか生きている価値がない」
「いじめられてるのか!情けない。やり返すまで家に帰ってくるな!」
「お父さんに似て根暗人間だね!ろくな人生歩めやしないよ」
物心ついた頃には、太ももの多数のあざが日々色を変えて絶えることはなかった。
母は決して人前では罵声を浴びせない。暴力は、人の見ない部位を蹴る。投げ飛ばされた衝撃で私は右耳の聴力を失った。
私は、母の言われた通りに価値のない人間だと思い込み、根暗で情けない人生を送った。何か問題が起こる度に自分を責めてしまう。他人はあなたのせいではないと言うが、私はそうは思わない。

こんな私でも結婚し、子供が産まれた。
元気な男の子だった。息子は自閉症という生まれつきの脳機能障害を抱えていた。精神科専門の小児科医師からは、「お子さんは、あなたをお母さんであると認識していません。ただの便利な道具だとしか思っていないでしょう」という残酷な言葉を言い放った。

実母から逃げる様に遠くの田舎に嫁いだ私は、2年ぶりに母に電話をかけた。息子の障害の事を話すと、
「お前のせいで、病気になった!かわいそうに。だから、お前はろくな人生歩めないといっただろう」
「わかった。もういいよ」
電話を切った後、私は無力感に襲われた。ただ話を聞いてもらいたかった。ただわかってもらいたかった。

言葉で自分の思いを伝えられない息子は、思い通りにならないと暴れ、家の家具を倒し破壊した。こだわりも強く癇癪を起こし、頭を床に何度も叩きつけるなどの自傷行為を繰り返した。パニックを起こすと収まるのに時間がかかる。そんな時は、どんな言葉をかけても優しくなだめても、叱ってもその時がくるまで待つしかない。夫に訴えてもわかってもらえず、何の協力も得られなかった。昼夜眠らず暴れる息子を、ただ呆然と眺めていた。無力な自分だったが、決して手は上げなかった。虐待の連鎖だけは断ち切りたかったのだ。『自分と同じ思いをさせたくない』
只々、息子を危険から守り、日常生活を無事に送らせてあげる事が精一杯だった。
しかし、それは簡単なことではなかった。

夕食の支度をしようと台所に立ち、キッチンの扉を開けると義父の日本酒が目に止まった。周りに家族がいないことを確認して、コップに1センチほど注いで飲んでみた。食道がカーッと一気に熱くなり、ホワホワと幸せな気持ちに包まれた。これなら一晩中暴れる息子を少しでも楽な気持ちで見ていられるかもしれない。私は、スーパーでお酒を買うようになった。協力してくれない夫とは、とっくに別室で過ごしていたので、自由に酒を飲めた。
次第に酒の量も増え、具合が悪いと寝込むこともあった。飲んで、また飲んで、泣いて、泣いた。
実父もアルコールがやめられず、それが原因で50歳台で死んだ。私もそうなるのか…。
実母の言う通り、「父親に似てろくな人生歩めない」のであろうか。
このままではいけないと、あちこちの心療内科や精神科にワラをもすがる思いで電話をかけた。「予約は3ヶ月待ちです」「家族の協力なしでは受診できません」「アルコール依存症の教室に毎週通ってもらう事が条件です」「全てを洗いざらい話してもらいます」
どこの病院も、すぐに救ってはくれそうもない。今すぐ助けてほしいのに!
死にたくなった。消えてしまいたくなった。生きる気力を見失いそうだった。
酒は朝から飲むようになり、とうとう肝機能障害を起こした。夫にも同居の義理の父母にも言えない。酒を飲み続け、医師に飲んでいないと嘘をつき内科に通った。

ある日ふと思い立ち、息子を連れて海に行った。秋の終わりの日本海の風は身も心も凍らせる。5歳になった息子は、砂浜に落ちている貝やゴミや石を並べている。並べるのは彼のこだわり。私はその姿を遠い目で見つめていた。この子を残して先には死ねない。
「一緒に死のうか…」
息子のそばに行き、声をかけた。
その時、息子は私の手のひらに小石を乗せ握らせた。そして、また砂浜に戻り再び並べ始めた。
「ごめんね。辛いのはお母さんだけじゃないね。自分の気持ちも言葉にできず、わかってもらえなくて苦しいのは一緒なのに。勝手な事言ってごめん」
私は息子がくれた小石を握りしめた。
家に帰り家族に正直に話した。そして家族の理解を得てアルコール依存症の治療を始め、夫は育児と家事の協力をしてくれるようになった。

今年20歳になった息子は、近所の作業場で働いている。私は酒を断つことができた。
「行ってきます。お母さん」
私はもう便利な道具ではない。価値のない人間じゃない。不幸な人生でもない。
私の幸せは、手のひらの中にいつもある。

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