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文字数 1,673文字

 時刻は21時をとうに回っていた。
 ふと立ち止まった牧村がいやみったらしい金色のロレックス・デイトナを大袈裟な素振りで覗き込むと、疎らな通行人が隠し切れない視線を痛いほど投げかけてきているのがわかった。遠くで管を巻く女子高生が、後ろ指をさしながら囃しているのに気分を良くした牧村は、分かりやすく気障な仕草でスポーツサングラスを取り、雲のかかったお世辞にも綺麗とは言えない星空を、アーケードのガラス屋根越しに見上げた。牧村は、わざと本人と気付かせる挙措をして、周りに騒がれるが好きな性質である。夜間にスポーツサングラスを装着する理由は牧村自身もよくわからなかったが、多分ネオンの光だとかタクシーのヘッドライトから、ボクサーの生命線である目を保護するそれっぽい効果は多少なりとあるのではないだろうか。次第に周囲に伝染し始めた「牧村」というこだまに気付かない振りをして、彼は再び歩き出した。今回はあくまでプライベートなのだ、一般人にサインなどせがまれては気が休まらない、と。牧村は飛行機の中で寝る間も惜しんでサインを書く練習をしていた癖に、そんな悦に入ったいた。
 今の日本で牧村雄翔の名前を知らぬ者はいない。彼はつい先日、メキシコで行われたボクシングWBA世界フライ級の試合で王者アレハンドロ・ゲレーラを下してベルトを持ち帰った、いわゆるボクシング世界チャンピオンなのだ。その様子はTVでも全国放送され、世界王座獲得の報は翌日の各誌朝刊の一面を盛大に飾り、王者を翻弄した芸術的な試合運びは特集を組まれ日夜報道され続けた。むしろここ数日、メディアで牧村の顔を見ないようにする方が難しいくらいだ。
 その世界的英雄の凱旋である。こんな物見遊山に乏しい小さな地方都市で、世界チャンプ牧村が持てはやされないわけがない。牧村もそれを承知で、今からわざわざ古いなじみのボクシングジムへアポも取らずに、練習生相手にスパーリングをしに行くのだ。いや、牧村に言わせてみればスパーをしてあげる、といった気概であって、決して古巣への恩返しだとかそういった感情は上辺にすら皆無である。帰国後のリフレッシュのため、と銘打った行動ではあったが、その実自分がどれだけ有名なのかを再確認する為の自己顕示欲に駆られた行動だった。
 アーケードを抜けて少し歩いたところに、練習生時代によく通った懐かしいファミリーレストランがあった。牧村の目的地はその真横、古い4階建てのビルに構える清水闘拳ボクシング・トレーニングジム、通称『清拳ジム』だ。薄暗いのっぺりとした外壁は歴史と風格を感じさせる。
 ガラス製の扉を押し開け中に入ると、受付にはあの頃と変わらない野上朱鷺子の姿があった。
「よう、朱鷺子ちゃん。元気してた?」
「……あ、牧村さん。ご無沙汰しております。今回はどのような用件で?」
 無骨な鉄筋コンクリート構造のひんやりと纏わりつく空気に、牧村の頬はほんのり上気した。どのような用件で? だって? 俺は世界チャンプの牧村だぞ。いつまでもお高く留まりやがって。かつてここで下積み時代を過ごした練習生の晴れ晴れしい帰還に、世辞の一つや二つくらいあっても良い筈だ。
 牧村は窓口に乗り出すように肘をついて、スポーツサングラスを押し上げる。
「朱鷺子ちゃん、それはちょっと冷たいんじゃないの。テレビ観た? 俺、世界チャンピオンなんだぜ」
「存じ上げています。あなたは我が清拳ジムの星ですよ、おめでとうございます」
 つとめて感情の籠っていない事務的なその口調に、牧村は肩透かしを食らう。今チャンピオンベルトを持っていたら、眼前に叩きつけてやりたいくらいだった。きっとこいつは、世界チャンピオンとオーストラリア産豚バラ肉500g350円の区別がついていない、可哀想な人なのだ。どうして女という生き物は、世界の広さや最強の称号に全く無関心でいられるのだろう。
 予想外の反応に牧村は唖然としきりだったが、ピクリとも動かない朱鷺子から放たれる「どのような用件で?」という視線の主張に気付いて、ふっと嘆息をついて答える。
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