第1話

文字数 1,998文字

 僕は、二人きりで話がしたいと、女性に呼び出されるのが苦手だ。頬を真っ赤に染め、伏目がちな潤んだ瞳で、僕を見上げながらこう言うのだ。
「……好きです。付き合って下さい!」
そういう時、僕は決まった台詞を繰り返す。
「ごめん。『忘れられない人』が居るんだ……。」
 これは別に、僕が女性にもてているという話では無い。女性からの告白等はそう頻繁に有るものでは無いが、それでも断る度に、僕の心は徐々に疲弊して行く。僕の言う『忘れられない人』を、その度に思い出してしまうからだ。

 僕の『忘れられない人』は、高校時代の友人だった。僕は勉強は得意であったが、クラスでは目立たない陰気なタイプであった。対して、友人はスポーツも得意で、クラスでは常に脚光を浴びる人気者であった。何の共通点も無い僕等が親しくしている事は、クラス内では学園七不思議の一つとして、度々噂の的になっていた。
 放課後になると、僕等はいつも一緒に帰宅し、両親の帰宅が遅い僕の自宅に寄った。僕の部屋へ入るなり、互いに衣服を全て脱ぎ捨て、全裸で抱き締め合った。男同士でありながら、激しい接吻を交わし、そして性行為にも及んだ。僕等が親しい理由なんて、クラスの誰にも言えはしなかった。彼とこうして身体を重ねて居られるなら、僕は誰にも秘密の関係でも構わなかった。……僕は、彼を愛していたのだ。

 彼との関係は唐突に始まった。元々自宅が近隣という事もあり、挨拶程度はしていたが、特段に親しい友人という訳では無かった。それが或る大雨の夜、彼が突然に僕の自宅を訪ねて来たのだ。玄関先で全身びしょ濡れの彼を見て、僕は直ぐ様に自宅に招き入れ、風呂の準備をしてやった。風呂から出た彼は虚ろな表情で、いつもの快活な彼とは別人の様であった。一向に髪を乾かそうとする様子も無いので、僕がドライヤーで彼の髪を乾かしてやった。
 その日は偶然にも、僕の両親は仕事で翌朝まで帰宅せず、彼と二人きりであった。僕は在り合わせの食材で、二人分のパスタとスープを用意した。僕の用意した食事を口にしながらも、彼は終始無言であった。きっと何か有ったに違いないと思いながらも、僕は敢えて彼に問う事はしなかった。
 二十三時を廻った頃、僕等は同じベッドで床に就いた。来客用の部屋も在ったが、いつもと様子の違う彼を、僕は独りにしておけなかったのだ。暫くして暗闇に目が慣れた頃、彼の肩が小刻みに震えているのが解った。僕は思わず後ろから彼を抱き締め、そっとその頭を撫でてやった。
「見せ掛けの優しさなんて、俺は要らない……。そうやって優しくしておいて、どうせいつかは俺を棄てるんだろう?」
彼が何の事を言っているのかは解らなかったが、僕は彼の不安な心を少しでも癒やしてやりたかった。
「君は誰かに愛されたい?……誰にも愛されていないと思っている?」
「あぁ、そうさ。誰もこんな俺を愛してなんてくれない……。」
彼は何もかもを拒絶するかの様だった。
「……じゃあ、僕が君に愛を教えてあげる。」
僕は彼の口唇に自身の口唇を重ね、舌と舌を絡ませて行った。そして、彼の身体を一晩中抱いた。
 僕はきっと、元々其方側の人間だったのだろう。小学生の頃から、クラスの女子に一切の興味は無く、寧ろ格好良い男子に憧れていた。僕は彼との関係を心地良く感じていたが、彼の方はどうだったのだろう。彼はきっと、元々は其方側の人間では無い筈だ。傷心のあまり、僕との関係に依存せざるを得なかっただけではないのか。

 そんな時、僕等がいつもの様に帰宅していると、偶然に或る女子高校生に出会った。着用している制服からして、近隣の女子高の生徒の様だ。彼女は彼と親しげに会話を始めた。
「どうしたのよ?最近、全然相手してくれないじゃない。何よ、其方のお友達と本当にそういう関係な訳?」
「な……何言ってんだよ。男同士だぞ。只の『友達』だってば。」
男同士であれば、彼の『友達』という言葉は自然だ。何も傷付く様な言葉では無い。けれども、この時の僕には、どうしても堪え切れなかったのだ。僕は、彼の顔を見る事も無く、一目散にその場から逃げ去ってしまった。
 それから高校を卒業するまで、僕と彼が言葉を交わす事は一度も無かった。

 十年の年月を経ても、未だに過去の想いに囚われている僕には、一体どんな憐れみの言葉が相応しいのだろうか。そんな事を悶々と考えつつ、僕は仕事を終えて帰宅の途に就いた。
 青に変わった信号を横目で確認し、横断歩道を渡る僕の目に、突如として信じられない光景が飛び込んで来た。彼だった。彼と幼い子供を抱えた女性が、向かいから横断歩道を歩いて来た。僕は、反射的に精一杯の作り笑いをし、彼に会釈をしながら通り過ぎた。ガタガタと震える手を握り締め、僕は仲の良かった昔の『友達』を演じた。……果たして僕は、きちんと笑えていただろうか。

 翌日、僕は初めて仕事を仮病で休んだ。
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