第1話

文字数 2,789文字

「人の体は食べたものでできている」という格言を知らない人はいないと思うが、それを聞くたびに「じゃあ心は何でできているのだろう」と考えてしまう。
 コロナ禍の社会で、人と人との繋がりが断絶された今日、多くの人々が何らかの形で悩み苦しんでいる。私の父はある時、認知症で施設に入っている祖母に会うことができない辛さを吐露した。自分の母の死に目にあえないのではという恐怖。血の繋がった母と息子を、あくまで入居者と訪問者として隔離する、施設のスタッフへの憤り。今まで誰にも考えられなかった「隔離」の形に戸惑わない者はいない。そしてこの私も、コロナ感染拡大から一年後、仕事ができなくなり、三か月間の休職に追い込まれた。大学を卒業する前に経験した(簡単に言ってしまえば)失恋の痛手から立ち直れず、高校教員としての新生活が始まり、コロナ禍での仕事のやりにくさと、教員の仕事そのものの負担に耐えかねて、すっかり心が折れてしまったのだ。仕事をしている時は何もかもから逃げ出したくなるくらいに辛かったのに、いざそれができない状態になってしまうと、あまりにも退屈で「どうして自分だけがこんな目に」と周りから置いてけぼりを喰らったような気分になった。だが一方でネットニュースや報道番組、新聞を見ていると、私以上に苦しい状況に置かれている人たちがいるのを知る。コロナに感染して、差別や後遺症に苦しむ人、コロナ禍の失業などで家計が立ち行かなくなり、貧困に苦しむ人。医療現場で心身をすり減らしながら働く医療関係者。「私よりももっと別な形で大変な思いをしている人がいるんだから、ここでうだうだと文句を言っている場合じゃない」私はそう自分を奮い立たせて、今日も何とか踏ん張っている。
 ある晴れた日の午後、私の心は空模様とは裏腹に沈んでいたので、駅まで歩いて中の本屋に入った。自分の悩み事を解決してくれるような本を探し、ページをぱらぱらとめくる。「こういう系統の本に書いてあることは何となく想像がついてしまう」「こういう系統の本に書いてあるのはその人の考えであって私の考えではない」などと思って避けていた「こういう系統の本」の背にも指をかけ、棚から引っ張り出す。すると今まで気にも留めなかった箴言やフレーズに目が留まり、「あ、いいこと書いてるな」と小さな感動を覚える。中には「どうしてこんな当たり前にできそうな心がけを忘れていたんだろう」「こんな発想があったなんて。もっと早くにこの本に出会っていればよかった」と悔しく思うことさえあった。
 そんな本を漁っている私の頭の中に、どこからかふわりとある考えが舞い込んできた。

 人の心は失われたものでできている。

 本に書いてあることは、どれも私が見失ってきたもの。そして、それらを見失っていたがゆえに、今までにその他の多くの時間や大切にしていたはずの人々、生き方、可能性も失ってきた。「この発想をいつも心に留めておけば、あの時あの人と喧嘩して、傷つけることもなかっただろうに」「あの時、あんな風に考えていれば、振られた男のことを潔く諦めて、もっと幸せな時間を送れただろうに」自分のある種の哲学を見出した途端、胸の奥に甦るのは、苦々しい過去の「喪失」の体験だった。だがそれらの喪失は、この時になって、新たな人生訓を授けてくれた。
今度こそ、この新たな人生訓は見失わないように。そんな思いで、私は読み漁った本たちを五冊かき集め、レジに直行した。
かつてあった「日常」がもはや原形をとどめることなく、失われていく時代。それがコロナ禍というものである。いつでも会えていた人に会えなくなった日常。いつでも行けた場所に行けなくなった日常。でもそれらは決して完全にこの世から失われたのではない。ただそれらとかつてのように触れ合えない。言い換えると、触れ合えるはずの時間がただ目の前で失われていく。それは単に家族や友人、恋人、ペットなどと死別する「喪失」とは種の異なる「喪失」の形であると私は思う。
 しかし、その失われたものでできた心にしか創り出せないもの、感じ取れないものが、この世にはきっとあるはずだ。そして、その創り出されたものを必要としている人や、自分以外の誰かにも感じてもらいたい何かを抱えて生きる人たちは、この世にもっと溢れかえっているはずだ。私はこれからも生きて、その人たちに出会わなければいけない。それは希望の光とかではなくて、「喪失」の形を懸命に捉えようともがいた者にしか自覚できない、生きる使命のようなものだと思う。大学を卒業する前の春休み、私が経験した「失恋」という「喪失」体験は実にショッキングなものだった。傷心を抱えながら、私はある時に村上春樹さんの『ノルウェイの森』を再読した。どういうわけか、この小説を読んでいる間、私は自分の失恋を、どこか冷静な気持ちで、遠くから眺めているような気分でいられた。『ノルウェイの森』では「喪失」というものが、いくつもの人々の口から語られ、それらが互いに、まるで雨の日に聞く憂鬱な音楽みたいに響き合っていた。人々が経験する「喪失」体験は、もう二度と起こってほしくないほど悲しいものだし、その悲しみの濃さは時間が経っても変わらない。村上さんはそこまでしか語っていない。一方で、それを読んでいる私は、ふとこんな思いを抱いた。それでもいつか人は、日々を重ねるごとに、その「喪失」の悲しみや、失われてしまった人たちの行方や謎めきそのものを愛せるようになるのではないか。
 村上さんが実際にどんな「喪失」を体験し、小説を書く時までに何人と離別したのか、具体的な数字はわからない。だが『ノルウェイの森』を手にして読んだことで、心が救われたという読者の数なら、この世界に数えきれないほどいるはずだ。
「喪失」について自分の書いた本が多くの人の共感を呼ぶ。そして読者が手に取り、村上さんによって語られた物語は、個々の読者の人生観や年齢、経験によって、また新たな物語として生まれ変わる。書く側も読む側も、一冊の本を通して、繋がり、互いを助け合い、さらに新たなものを創造している。そんな人と人の繋がりは、本当に素晴らしいものだと思う。
だからこの激動の時代に、何かを、誰かを、何らかの形で失っても大丈夫。その失われたものが、これからのあなたを作っていく。そして未来のどこかで、そんなあなたを必要としている人は、必ずどこかにいる。そんな人に出会う瞬間がもしもあれば、全力でその人たちのために生きて、何かを作り出してみるのはどうだろうか。私はまだきちんとした形でそのような経験をしたことはないが、いつかそんな日が来れば、と思いながら、今日も詩やエッセイを書いている。すでにそういう夢を見ながら生きていけるだけでも、すごく幸せなことかもしれない、とも思っているけれど。

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