文字数 1,972文字

 「賢者様、私のことはいいの。あの、絵の鯉を助けてほしいの。あの丘を越えた森の中にある湖にきっといるから。あの鯉が助かれば私の病気もよくなるの」

 不治の病で痩せ細った少女はそう言った。

 その手に握力は無く、肌も潤いをなくしている。顔は青白く、唇も少し喋っただけで、割れてしまう。

 私は彼女のことを不憫に思ったので、何とか助けてあげたいと思った。

 スケッチブックに描かれた一枚の絵。青々とした森の真ん中に、大きな湖が広がっている。しかし、見たところ一匹の鯉も描かれていなかった。

 「わかった。私がその鯉を助けてあげよう。それで君が助かるというなら」

 最高位の治癒魔法を扱うことのできる私でも彼女を治療することができなかった。彼女や、私を呼ぶために長旅をしてきたという彼女の兄、息子を信じて待っていた母親の期待に応えることができなかった。その申し訳なさを少しでも紛らわすために彼女の願いをかなえてあげたくなった。
 
 私が村に来た時、丘の向こうに森は無かった。

 娘の家を出て、丘の中腹を越えた辺りで、不穏な空気を感じた。私は急いで丘を越えようと早足に歩いた。

 大きな森があった。紫の霧が立ち込めて、果物が腐ったような臭いもする。しかし、生えている木々は生命力に満ち溢れているようだ。

 一歩足を踏み入れると、鳥か猿のような鳴き声が四方に飛び交っている。私はそれに気を取られることなく歩き続けた。すると今度は、歩くたびツルが意思を持っているかのように絡みついてくる。幻術の一種だろうか。

 私はそれほど気に留めず歩き続けた。このくらいのことは今まで何度もあった。

 毛むくじゃらの巨大な猫がいた。黒い針金のような毛を逆立てて丸まっている。
 
 私に気が付いていないようなのでその場をゆっくり通り過ぎた。

 「待ちなさい。それ以上行ってはなりません」

 老人の声だ。上の方を見ると密集した葉の中に白い髪と髭を蓄えた老人の顔があった。その顔はゆっくりと回転しており、伸びた髪と髭はどちらが上ともわからないぐらい頻繁に入れ替わっている。

 私はそれを無視して歩いた。回転する首はしばらく後ろからついて来ていた。

 少し開けた場所に出たと思うと、美しい湖があった。あの娘の言う鯉がいるのは恐らくこの湖だろう。

 湖の周囲を調べたり、湖に顔を突っ込んでみても、鯉どころか虫や小魚もいない。植物すら生えていなかった。

 座り込んだ私はじっと水面を見ていた。

 目を閉じて開けると、水面にもう一つの森と湖が映っていた。そしてその湖の中で裸の少女が数匹の鯉と楽しそうに遊んでいるのが見えた。

 私はずっとその女の子の姿を見つめていた。

 私の世界が夜になると水面の世界も夜になった。すると彼女は湖の中に潜って行ってしまった。

 私は眠るために横になったが、中々眠りにつくことができなかった。

 次の日も、また次の日も私は水面を見ていた。何も食べなくても水面を見続けることができた。

 ある日、いつも通り水面に目をやると、少女が泣いていた。

 私の胸は強く締め付けられて、その原因を探っていると、彼女の手の上に鯉がのっている。

 その鯉は口をパクパクさせて、全身を痙攣させている。少女の泣き声が、私の鼓膜を何度も打った。

 私は耐えられなくなった。

 水面に荒々しく手を突っ込み、しばらく探っていると、手ごたえがあった。私は水の中からそれを取り出した。

 鯉だ。

 体を痙攣させている。私は治癒魔法を唱え、その鯉を治療した。

 元気になったのを確認すると、私は鯉を湖の中に放した。

 しかし、次にまばたきをした時、湖が消えていた。森も消えていた。湖があったと思われる、大きな窪みがあった。今は枯れているようだ。

 私は村に戻りあの娘の家に行った。

 母親と兄が気も狂わんばかりに私を歓待してくれた。

 あの子の病が治った、そしてそれは私のおかげだと。

 娘の部屋に入ると、別人のように健康を取り戻した彼女がニコニコと笑っている。髪も肌も唇もその張りとツヤを取り戻しているようだ。そして何も言わず、私にスケッチブックを手渡した。

 部屋で娘と出会う男、暗い森へ向かう男、険しい森の中を歩く男、大きな黒猫を避ける男、白い老人の首と話す男、水面に映る少女を覗く男、鯉を治療する男、そして途方に暮れる男。

 スケッチブックを一ページめくるごとに私の震えは大きくなった。

 「ありがとう、あの子を救ってくれて。でも、あなたの手、大きくてびっくりしちゃった」

 彼女はまだ微笑んでいる。

 私は一番最初、初めて彼女に見せられた絵を見るためにスケッチブックをめくった。

 そこには無数の鯉が楽しそうに泳いでいる。

 「ありがとう」

 間違いなく湖の中の少女に



 彼女の家族は強く引き留めたが、私はその村、土地を去って二度と近づかなかった。 

 
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