底なし光

文字数 10,695文字


「いわば底なし沼ならぬ、底なし光にはまりつづけていく。そして口から発せられる言葉は、すべて輝かしい力を放つ。人を傷つけない。人を浄化していく。優しいだけの世界を、我々の手で創りあげていくんですよ。それがあなたの奥さまにも課せられた使命なのです」
 うちの電話は確かに古い。さすがにダイヤル式の黒電話とまではいかないけれど、ディスプレイ表示はないし、留守電機能もない。【4】のボタンの感度はとりわけ鈍く、ギチギチギチと音がするほど強くプッシュしなければ反応してくれない。
 そんな時代に取りのこされたような電話でも、きちんと受話器の向こう側の声は拾ってくれるものだと思っていた。いや、電話としての尊厳を保つべく、拾ってはくれているのだ。ただ、拾った声の意味がまるでわからない。
 僕は確かに平成という世に置き去りにされ、唐突に訪れた新しい元号とうまく手を取りあえずにいる。だけど、まさか電話までそんな状態に陥っているのだろうか。飼い主に似るペットのように、家電もまたふがいない僕を投影しているのかもしれない。
 今にも切れてしまいそうな、弱々しいコードをなでる。生活を共にしている家電が急に愛おしく思えだしたら、それは自分が優しくなっているときか追いつめられているときかの二択だ。その二つが絶妙に混じりあっているときもある。胸の中で補色同士がマーブル模様を描き、くすんだ色味を生みだしている。
「……もしもし? 聞いていらっしゃいますか? もしもーし、田仲さーん」
「聞いてます」
 ずいぶんと黙りこんでいたらしい僕に、受話器の向こう側から軽快な呼びかけをするのは、妻がはまっていた宗教団体の幹部で、名前をホウソノといった。
 音声だけではどんな字面を成しているのか想像がつかない。そんな響きの地名があったような気もするけどどうだろう。
 頭が回らない。回そうとするたび、ホウソノがやたらなれなれしく話しかけてくる。
 宗教について、およびそれにおける妻の立ち位置や役割について語るときはいかにも厳かに着飾るのだが、話題が少しでも逸れたなら友達かというくらいポップな口調になる。
 その落差についていけず、僕だけがずっとよそよそしさを身にまとったまま、この会話もかれこれ十分以上続いている。
「聞いておられるなら、時折相づちが欲しいなあ。うんうん、でも、はいはい、でもなにかしらサインをください。なにせお顔が見えませんからね」
「すみません」
「テレビ電話だったらよかったんですけどねえ」
「うちはディスプレイ表示もないんです」
「というか、田仲さん。携帯もお持ちじゃないんですよねえ」
「はい」
「固定電話だけなんですよねえ」
「はい」
「通話記録とかもできないんですよねえ」
「はい」
「結構ですよお」
「え?」
「いえ、携帯電話を持たずとも、宗教には入れるということです」
 意味はわからなかったが、なにか素敵な特典を耳打ちされたようで「はい」と条件反射のようにうなずいてしまった。すると僕以上にホウソノが喜び、うふふふふと気味の悪い笑い声を立てた。
 相づちは大切だ。鈍い僕でも、ようやくそれがわかった。
「ホウソノさん。でも、妻が宗教にのめりこんでいたなんて、僕は全然知らなかったんです」
「田仲さん。のめりこむんじゃなくて、はまるんですよお」
「どう違うんですか」
「我々は宗教をとても深層的なものだと捉えています。それゆえ、どれだけ探求追求しても終わりが見えない。まあ、そもそも見えようはずもない。底がないんですよ。そしてまた、これは別の話になりますが、我々は暗い底なし沼のような人生にこそ、底知れぬ光が潜んでいると考えています。底なし光、つまりは無限の可能性や幸福があるのです。希望に満ちあふれているのです。宗教としての真理、および宗教が導いてくれる光の語源である底なし沼にかけて、はまるという表現を使っているのです。沼にはまる。光にはまる。宗教にはまる。これぞ三段論法」
「はい」
「……田仲さん、わかってます?」
「……はい」
「わかってないですよねえ?」
「……はい」
「わかってないのに、無理して返事なさらないでいいんですよお。三段論法なんて言ってみたかっただけですしねえ。私の空回り感がすごいじゃないですかあ」
 ホウソノは情けない声を出した。見えないのに、彼の眉はきれいな八の字になっていそうだ。「すみません」と謝ると「謝る必要はないですう」とすねたような応答があった。
 声質からして、多分年上かせいぜい同世代だと思うのだが、こんなふうに無邪気な態度を取られると案外かわいい後輩なんじゃないかとも思えてくる。
 さっきまで訪ねてくれていた本当の後輩は、高校時代からなにも変わっていなかった。弱小剣道部で、共にくさらず笑いながら竹刀を振ってきた後輩。あいつはいいやつだ。
 帰り際まで余計な口は一切利かずに、無言で僕の肩や背中をぱしぱしとたたいていった。そして最後の最後に「また」とだけしぼりだしてくれた。
 裏表のない、いつも真っ直ぐな男だ。妻もあいつのことを評価していた。「あなたとは全然違うタイプ。でもいい人ね」と笑っていたっけ。
「それで、田仲さんは奥さまが宗教にはまっていることを知らなかったと?」
 裏表どころか裏しかなさそうな男が、小馬鹿にしたように問いかけてくる。僕は「はい」と答える。
 しかし、はまっているってなんだかマイブームみたいだ。宗教がマイブーム。ポップな響きだ。
「まあねえ、いくら家族といえども話さないことだってあるでしょうしねえ」
「でも、僕らは仲がいいし、お互いに秘密を持つなんてことはなかったんです」
「田仲さん」
「はい」
「仲がいいから秘密はない。仲が悪いから秘密がある。そんな単純な図式は成りたちませんよう」
「そうですかね」
「そうですよう。まあ、私が言うのもなんなんですけど、宗教にはまってるなんて言われたら、そりゃあおいおい大丈夫かよってなりますしねえ」
 言っていいのだろうか、そんなこと。電話のコードをくるくると指に巻いてみる。そのまま強く引っぱったらすぐに切れてしまいそうだ。
 だけど、最後の一線は意外と頑丈だ。どれだけ弄んでみても、まだかろうじて踏んばっている。
 リビングのほうから呼ばれた気がした。中途半端に閉まったドアの隙間から、誰か顔を出すだろうか。応答しないでいると、もう呼ぶ声は聞こえない。ホウソノは「だいたいねえ」と完全に世間話を始める様子だ。
「宗教って言葉がパワーワードすぎるんですよねえ」
「パワーワード?」
 唐突な横文字が僕の中でうまく着地しない。ホウソノに似つかわしくない単語は、回線をふわふわと浮いている。ちょうど切れてしまいそうな、一番細いコードのあたりで。
「パワーワードってネット用語ですよね」
「あ、そうなんですかあ」
「言いまわしや言葉の組みあわせが面白いとか、インパクトがあるって意味だと思うんですけど。宗教っていうのはなんというか、そのまんまですしちょっと違うような気が……」
「田仲さん、結構細かいですねえ」
 感心したようなあきれたような口調で返され、思わず「すみません」と謝る。どうでもいいことにこだわるところは妻にもよく指摘される。
財布の中のお札の向きとか、目玉焼きは半熟でゆで卵は固ゆでとか。
 「だから謝る必要はないですよう」とたしなめられた。それもよく妻に言われる。こんなに粘っこい言い方ではないけれど。
「まあ厳密に言うと、確かにちょっと違いますよう。でもね、あえてわかりやすく言います。宗教はパワーワードですよ。読んで字のごとく、持つ力が強すぎるんです、宗教は」
「というのは?」
 僕もまた世間話に乗っかるつもりでいることに、自分で驚いた。とにかく現実離れした男と現実離れした会話をしていたいのかもしれない。少なくとも、今は。
「だってねえ、宗教っていうと、それだけでうさんくさいって身構えちゃう人も多いでしょう」
 あまりにもざっくばらんな言い方に笑ってしまう。すると、ホウソノも気をよくしたのか、どんどん砕けた口調になっていく。
「いや、これ本当。実際そうでしょう。例えば長年の友達でも、いきなり『俺、宗教にはまっててさ』ってラフに打ちあけられたら、え? ちょっと待ってってなるでしょう。なんかいきなり友達遠くに行っちゃった感じするでしょう。ちょっと友達疑っちゃったりするでしょう。下手したら、友達続けるかも考えるでしょう」
「そうかもしれないです」
「でも、よくよく話を聞いてみたら、宗教っていっても例えば薬草を摘んで風呂に浮かべるとか、黒い服だけ身にまとってみるとか、スーハ―スーハ―呼吸を深くしてみるとか、そういうおよそ人様に迷惑をかけるようなものじゃあない場合も多いんですよう。勝手にそれを信じてはまっているだけ。で、それを誰かに知ってもらいたい。できれば共有したい。それだけの話ですよねえ。理解できるかどうかは別として。もちろんそこでゴリゴリ押してこられたら、そりゃあ迷惑ですから話は別ですよう。でも、宗教って言葉一つで距離をおくのは違うと私は思うわけですよう。性質的には趣味嗜好とまったく同じですし」
 ホウソノの弁はいつの間にか熱を帯びていた。得体の知れない男ではあるが、確かに説得力はある。僕もだんだん「はい」から「うん」へと相づちを変化させていた。
 握っている受話器が熱くなってきたのは、ホウソノの力だろうか。いや、単純に電話が古いだけか。
「宗教にかぎらず、そういう意味でのパワーワードってあふれかえってると思うんですよねえ。一元的な解釈しかされないというかねえ。そのせいで大いなる誤解や偏見を招くんですよお」
 ホウソノはぼやくように言った。たまたま入った居酒屋で隣りあった同士のような気軽さも芽生えていた。僕はいつも愚痴を聞く側にまわる。愚痴をこぼせるほど熱心に考えていることが、僕にはないのだと思う。
 リビングのほうが騒がしい。そういえばなにかデリバリーを頼むとか言っていたっけ。ピザか寿司か弁当か。今はウーバーイーツなんていう宅配サービスも流通して、選択肢がずいぶんと増えた。
 さっき呼ばれたような気がしたのは、なにがいいか尋ねようとしてくれたのかもしれない。僕には特別な好き嫌いもない。蕎麦でも天丼でもカレーでも、なんでもいい。
「例えばねえ、子ども。子どもって言葉はすごいパワー秘めてますよう。誰もが幸せだと感じる魔法の言葉みたいになってるときありますよねえ。子どもいたらハッピー、増やせばもっとハッピーみたいな。ハッピーセットお待たせしましたみたいな」
 そんな軽快な文句は、マクドナルド以外で聞いたことがない。ふざけているのか真剣なのか、いまいちつかみどころのない男だ。
 でも、職場で「子どもはいるのか」「子どもはまだか」「子どもはいいぞ」とやたらすすめられて辟易したことはあった。それこそまるで宗教勧誘のようだった。
 子どもがいれば間違いない、とでもいったような確信に満ちた顔ぶれ。その顔と似たような顔の写真を何枚も見せられて、僕はどうしてもかわいいと口が動かなかった。ただ、遺伝子の偉大さを実感しただけだ。
 妻にその話をしたことはない。多分、妻も同じようなことをどこかで誰かに言われているだろう。
「子どもができなかったり、子どもを育てられなかったり、子どもを愛せなかったり、子どもに愛されなかったり。ハッピーじゃない側面だっていくらでもありますからねえ。苦労込みこみで、それでも子どもはかわいいのよう、とか言われても、そもそもの土壌が違うこともあるってわかってない人が多いですよう。幸せだって信じられてる言葉って、必ず誰かを傷つけもしますからねえ」
 リビングから子どものはしゃぎ声が上がった。僕の甥っ子と姪っ子だ。きゃらきゃらと笑う声は平和そのものだが、実は今の状況においてふさわしくはない。
 二人の親である僕の妹は、テレビをつけたようだ。アニメのオープニングテーマが、かなりの爆音で流れる。そこに子どもたちの合唱も加わる。パワフルなダンスも始まったようで、地響きさえ起こしそうだ。
 妹はそのパワーがずっとつながっていくのかを、時折しきりに心配する。やたらと具体的な例を添えて。
 自分がいなくなった将来を、たった今タイムマシンで見てきたかのようだった。二人は最後の人類にでもなっていたのだろうか。そのシチュエーション自体はアニメの主人公みたいで、跳びはねる子どもたちは喜びそうだ。
「子どもがいることを理由に、未来を憂いてみせるのもいただけないですねえ。別に未来って誰かのためにあるわけじゃないしねえ」
 僕の心中を見透かしたかのようなタイミングで、ホウソノはささやいた。いたずらに心拍数が上がる。子どもたちの振動が、僕の心臓をさらに鳴らす。
「アンハッピーなパワーワードもごろごろ転がってますよねえ。病気関連……例えばガンなんて最たるものじゃないですかあ。だいたいねえ、語感がよくないですよ。悪意がありますよ。ぷりんぽんとかだったら、かわいらしいのにねえ」
 子どもたちが時折無意味に叫ぶ奇声と似ているな、と僕は思った。
 彼らはなにかの呪文のように唱えるのだ。「ぴゃあ、とりっとる、ぱんぱらん、えるっちょ」みたいに。妹は子どもたちに英語を習わせているようなので、不思議な発音はそれによるものなのだ、と主張してやまない。
「今や医療も進歩してますし、治る病気は増えてますよう。それなのに、やれガンっていえば人が死ぬみたいなイメージがいまだについてまわるでしょう。あれ、完全にドラマや映画の悪影響ですよう。とりあえず病気にしとけ、とりあえずガンにしとけ、とりあえず悲劇にしといてお涙頂戴ってなもんです。お手軽なもんです。過敏になりすぎるのもよくはないですけどねえ、変に凝りかたまった偏見がある言葉はねえ、よろしくないですよう。絶対ハッピー、絶対アンハッピーなんて言葉は存在しないんですからねえ」
 インターフォンが鳴って、妹の応じる声が聞こえた。追いかける子どもたちの足音も聞こえる。取りのこされたアニメの主人公の雄叫びも聞こえる。「ピザでーす」という知らない男の声も聞こえる。
 やっぱりピザか。妹はよくピザを頼む。いや、頼むようになった。子どもができてからの話だ。
「病気であることを理由に、過去を明るくみせるのもいただけないですねえ。別に過去って明るいからいいわけじゃないしねえ」
 妻はよく盛り蕎麦を頼んだ。ずぞぞぞぞぞ、と吸いこむ音が右の鼓膜でよみがえる。左の鼓膜はホウソノのため息だ。深く重いため息は、どこかしらじらしくも聞こえる。それでいい。純度百パーセントの真剣さは、どうも苦手だ。
「だからねえ、宗教もパワーワードなわけで、奥さまがあなたに言わなかったのも、変な誤解を避けるためだったのかもしれないですよう」
 そうだった。そこに戻るのか。ホウソノの長い演説のおかげで、なにについて話していたのか忘れていた。
 妻が宗教にはまっていた。確かにそれはパワーワードだ。別に否定的な意見を言うつもりもなかったと思うけれど、一瞬ひるんでしまう自分もいるかもしれない。種明かしされた今となってはわからない。後出しなら、なんとでも言える。
 ただ、妻が宗教にはまっている素振りが、まるで見られなかった。僕にとってはそっちのほうが大問題だった。一緒に暮らして、誰よりも近くにいたのに、そういう雰囲気さえ感じとれない。自分が毎日をきちんと過ごしていたのか、急速に疑わしくなってくる。
 会話が特別多かったとは思わない。けれど、必要最低限の言葉しか交わさなかったわけでもない。
 最近交わした会話を思いだしてみる。
 ――最近、仕事どう?
 ――普通だよ。そっちは?
 ――大丈夫。そういえばあの子どうなったの?
 ――あの子?
 ――ほら、先輩に失礼な態度を取ったっていう。
 ――ああ、今はその二人のあいだを僕が取りもつようになったから。
 ――大変じゃない?
 ――まあ、僕は鈍感だからね。
 ――鈍感でいられるって大事なことだよ。
 ――そうかなあ。
 ――そうだよ。ある程度なら受けながすことも大事だよ。
 ――そうだね。うーん、仕事以外になにか趣味でも見つけられたらいいかもなあ。
 ――いいと思う。あなた、はまったら熱中しそうだけど。
 ――なにか、おすすめある?
 ――うーん……しゅ……習字とか?
 ――小学生みたいだなあ。
 ――最近は大人もはまってるんだって。字を書くのは年を取ってもできるからね。
「あれ、宗教だったのか」
「は?」
 ホウソノの間抜けな応答がぴったりだ。
 なんてことだ。僕は打ちあけられそうになったのに、結局打ちあけてもらえなかったのだ。途端に自分がひどくみじめになった。安心して話してもらえる存在にはなり得なかったということだろう。
 いったいどの時点で審査に振るいおとされていたのだろう。あのときの会話の中? もしくはもっと前? いっそ出会ったときから? 
 とにかく妻は僕を心から信頼してはいなかったのだ。その事実だけがぽつんと残された。
 不意に目頭が熱くなる。「んっ」と喉が鳴り、自分でも知らない声が漏れる。
 ポケットに入れていたハンカチがようやく役に立つ。妻がアイロンをかけてくれていたままの状態だ。柔軟剤がほのかに香る。涙ににおいはあるのだろうか。どんどん湿って、どんどんしわが生まれていく。
 僕の異変に気づいたのか、ホウソノが「もしもーし。もしもーし」と何度も呼びかけてくる。
 僕はいよいよ本格的に泣きのスイッチが入ってしまい、返事ができないどころか嗚咽が止まらない。日ごろ使わずに錆びついていた涙腺が決壊すると、こんなにも制御できなくなるのか。こんなにも水分を貯蓄していたのか。
「え、どうしたんですかあ? もしかして、なんでかわかりませんが、泣いてます?」
「……泣いてないです」
「いや、泣いてるでしょ。え、泣かせるようなこと言いましたっけ?」
「……言ってないです」
「あ、もしかして自分が今、宗教勧誘されるって警戒してます? 心外だなあ。これだけべらべらおしゃべりして、しかも自虐的にもなってるのに、勧誘なんかしませんよう。だいたいねえ、宗教なんてのは誘われてやるもんじゃないです。自分の気が向いたらやるもんなんです」
 それはすばらしい心意気だ。訪問販売や集金回収のごとく、どんなときでも、こんな日でもぶしつけにやってくる方々に聞かせたい金言だ。
「私はねえ、とにかく底なし光を、つまるところ奥さまがはまった宗教を、安易に否定だけはしないでくださいねえって勧告しているだけなんです。奥さまの口からでなく、私の口から知らせてしまって申し訳ないですけども。だからねえ、これだけいっぱいおしゃべりしちゃってなにを今さらって言われそうですけど、私が用があるのはあなたじゃなくて奥さまなんですよう。奥さまはねえ、我々にとってとても重要な役割を担う方です。今度ねえ、大規模な全国集会が開催されるんですよう。奥さまはねえ、我々北日本ブロックの代表なんです」
「代表……それってトップってことですか」
「まあねえ、厳密に言うと我々のあいだに優劣や格差はないとされますので、あんまりトップという言い方はふさわしくないかもしれませんねえ。でもまあ、確かにトップです。言うなれば、トップの中のいちトップです。私もトップ。もし田仲さんも入っていれば、田仲さんもトップ。みんなトップ。トップトップ。トップだらけです」
 宗教という言葉がこれだけ重みをなくせるのは、ひとえにホウソノの性格のおかげだろう。
 それにしても妻がそんな重要な立場にいたなんて。つくづく自分の鈍感さに落胆する。だらだらと頬を伝う涙も、悲しみより諦観の色を濃くしてきた。
 そんな僕の心情おかまいなしに、ホウソノは妻のことを褒めたたえる。とても聡明で、平等で、慈愛に満ちた女性です。それでいていざというときの判断力決定力がすばらしい。あの統率力は一朝一夕で形成されるものじゃない。うんぬんかんぬん。
 それに対して、僕は相づちとともに、妻はバレーボール部の部長を務めたことがあります、という頼りない情報を提供した。ははあ、なるほど、と大げさに感激してみせるホウソノの声が遠い。
 最愛の人が評価されているというのに、僕の耳はリビングからの呼びかけに注意が向いていた。ピザを食べないか、子どもたちはもう手をつけてしまっている、という妹の声だ。甥っ子と姪っ子はポテトとマヨネーズとハムのピザを好む。どうせ僕の好きなマルゲリータには手をつけまい。トマトが酸っぱいと泣きだすに決まっている。
 心中でそんな計算を重ねていたら、妹の声は消えた。ひとまず子どもたちの食事に集中することに決めたのだろう。
「今度の全国集会は、非常に貴重で且つ重要な場なんですよう。我々の活動をより明確化し、我々の結束をより確実なものにする。宗教というのは大きくなればなるほど、統率が取れないものです。三人集まれば派閥ができると言われますからねえ。まあねえ、そもそも人が完全に意思統一なんてできるわけがないんですが、軸となる思想はぶれないでおこうねえ、という戒めの場でもありますねえ。せっかくここまで大きなものになったんだから、内部崩壊なんて悲惨な結末は避けたいもんですよう。まだ資金不足とかのほうがましですう。これは私個人の意見ですがねえ」
「その集会はいつなんですか」
「来月、新国創造会館第四ホールの予定です。もしよければ田仲さんも来てくださいよう。あ、これは勧誘じゃないですからねえ。奥さまの勇姿を見にくるのもいいんじゃないかなあと思いまして。あれです。子どもの試合見にくる親みたいなもんですう」
 ホウソノの言葉には若干の悪意が含まれているような気もしたが、それは確かに勧誘ではない。
 聞いたことのない会場だけれど、僕の脳内では結構な規模のホールの席が全部埋まっている。妻が凛とした佇まいで、粛々とスピーチを始める。底なし光のなんたるかを説く妻。なんたるかはわからないので、そこは口パクで。やがて静かに微笑む妻。大歓声が飛びかい、拍手喝采の会場。その中で妻の視線が僕とぶつかる。僕に気づいた妻はそっと手を振る。僕も振りかえす。誇らしいような、切ないような気持ちがないまぜになる。今夜は祝杯をあげなくちゃいけない。妻の好きな蕎麦を頼んで、高い日本酒を買って、それで、
「ピザ、冷めるよ!」
 リビングから再び妹の声が聞こえる。口の中が冷めたマルゲリータの味や食感を思いだす。元気をなくしたチーズが強張って溶けてくれない。トマトの酸味もぼやけている。僕の好きなマルゲリータの味は途方もなく一瞬なのだ。
「あれ、田仲さん。今、誰かに呼ばれませんでした?」
「はい」
「奥さまですか?」
「いえ、妹です」
「あ、妹さん。ご一緒に暮らしてらっしゃるんですか?」
「いえ、ちょっといろいろ手伝いにきてもらっていて」
「大丈夫ですかあ?」
「はい。ピザが冷めるって言われただけで」
「あ、お昼ごはんですかあ。ずいぶん遅めなんですねえ。すみません、長々とお話ししちゃって。田仲さん、なんだか話しやすいですよねえ」
「そうですか」
「で、来たるXデーに向けて奥さまと打ちあわせする日時を決めたいんですよう。ていうか、そのためにお電話したんですよう、私は。奥さまと代わっていただけますかあ? 今、お食事中ですかあ?」
「死にました」
「は?」
「今日、葬儀だったんです。それで妹にも来てもらっていて」
 僕はジャケットを脱いだ。しわにならないよう、丁寧に。受話器を持ったまま脱ぐのは一苦労だったが。ついでにネクタイも外す。職場ではノーネクタイが推奨されている。久しぶりに首に巻いたそれは、思いのほか僕の息を詰まらせていたようだ。ほっと息をつく。それが安堵のため息に聞こえてしまったかどうか、少しだけ気にかかる。
「それはご愁傷さまでした」
 ホウソノは先ほどまでのなれなれしい口調を引っこめ、短く的確な返しをした。
 その一言を聞いて、妻がパワーワードに該当するような死因じゃなくてよかったな、と思う。一緒にハイキングへ行ったら、いかにも毒々しいキノコにだって平気で手を伸ばす妻だ。流氷の上でダンスもするし、トラとじゃれあったりもする妻だ。
 宗教だけじゃなくて、死に方だってもっとポップでいい。妻の遺影に選んだものは、思いきりフラッシュに目をつぶった写真だった。笑うことを不謹慎だとつぶやかせないように、念入りに周到に準備したような、輝かしい功績だった。
「しかし、困ったなあ。奥さまがいないとその穴を埋めるのは大変ですよう。いやあ、また忙しくなるなあ。私、完全に睡眠時間削られてますよう」
 ブラック企業ならぬ、ブラック宗教です、と大真面目にホウソノは言った。再度の「ピザ、冷めるよ!」という妹の呼びかけに「今、行くよ」と僕は応じる。受話器を手でふさぐことはしなかった。
 熱を帯びた受話器は、そのままピザを温めなおせてしまいそうだった。切れかけのコードにチーズを絡めれば、お互いに息も吹きかえせそうだ。
「あの、ホウソノさん」
「はい?」
「僕、妻の跡を引きつぎましょうか?」
「それは大丈夫です」
 間髪入れずにホウソノはきっぱりと断ってきた。亡き妻に代わって、悲しみを乗りこえステージに立つ夫。そういうパワーワードだらけのチープな夢は、底なし光にそぐわない。
「だいたい、田仲さん興味ないでしょう?」
 ホウソノはあくびでもしそうな口調で指摘した。確かにそうだな、と僕は思う。「早くおいでよ」とたたみかけてくる妹の声がする。「おいでおいで」と子どもたちは悪魔も召喚しそうな大合唱を始める。
 習字でもやろうかな、と決めて、僕は熱くなった受話器を置いた。きっと同時にホウソノも電話を切っただろう。いや、向こうのほうが一拍早かったかもしれない。
 冷めきったピザが、僕を待っている。
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