チャイを飲みながら

文字数 1,246文字

 街灯の明かりが道筋を照らしていた。
 昼間あたためられた空気がまだ残っているらしく、生ぬるい風が吹く。
 見上げた空に星はなく、かわりに厚い雲。
 もうすぐ雨が降るのかな。
 ほんのちょっとだけ、残念に思った。

「お姉ちゃん、どこ見てるの?」
 ベランダの手すりにもたれ、マンションの外を眺めていると、妹が声をかけてきた。
「まさか、変なこと考えていないよね?」
 声は明るいが、真剣な表情だ。
 くすっ。
 思わず、笑みを漏らしてしまう。
 ぷうっとふくれっ面をする妹。
「お姉ちゃん、ひどい。真面目に聞いてるのに」
「ごめん、ごめん」
 笑いながら部屋にあがり、キッチンへ向かう。
 シンクに片手鍋を置いたあと、水道の蛇口をひねった。
「わたし、そんなに変だった?」
「うん、変だった。飛び降りるかと思ったもん」
 申し訳ない気持ちになった。深々とため息をつく。
「やだな、ぼんやりしてただけじゃない。飛び降りたりなんかしないわよ」
 鍋を火にかける。カチッと一瞬、赤い火花が散った。



 わたしの好きな人は、いつもほのかにスパイスの香りを漂わせている。
 オフィスの廊下などですれ違うたびに、いつも同じ香りがする。
 だから、香水だと思っていたのだけど違った。
 商品企画室との合同ミーティングで席が隣り合ったときに、
「主任、すてきな香りですね」
 思いきって話しかけてみたら、彼ははにかんだのだ。
「そんなに匂うかい? 家でしょっちゅう飲んでいるせいかな」
「え?」
「シナモンとカルダモン。それにミントが少し。きっとチャイに入れるスパイスの香りだよ」
「チャイ……ですか?」
「甘くて、すごく濃い、アジアの紅茶なんだ」
 香りが鼻腔を通って、わたしの隅々にまで落ちていく。
 その日から、大好きな飲み物がコーヒーからチャイに変わった。



「うわっ、何これっ?」
 カップを飲み干したとたん、妹が目を白黒させた。のどを押さえ、ゴホゴホ派手に咳き込む。
「だいじょうぶ?」
 あわててキッチンからおしぼりを持ってきて、妹に手渡した。
「最後の方、変な味がした!」
 妹の目には、涙が浮かんでいる。
「あ、忘れてた」
 わたしは、ぺろっと舌を出した。
「スパイスが底に沈んでるときがあるんだよね」
「そういう大事なことは、飲む前に言ってよ」
「はい、はい」
「あたし、チャイなんて、もう飲まないから!」
「わかったって」
「ほんとにわかったの、お姉ちゃん?」
「もう、しつこいなあ」
 妹をなだめるのが面倒になってしまったので、うなずいてからチャイを一口飲んだ。
 スパイスの香りが口の中いっぱいに広がる。
 こうしてチャイを飲んでいたら、いつかわたしにも香りが移るだろうか。
 どうせかなわない恋ならば、彼の香りだけでも自分のものにしたい。
 彼の薬指に光っていた指輪を思い出す。

「あ、雨」
 妹の声につられて窓の外を見る。
 銀の糸のように細い雨が降っていた。
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