チャイを飲みながら
文字数 1,246文字
街灯の明かりが道筋を照らしていた。
昼間あたためられた空気がまだ残っているらしく、生ぬるい風が吹く。
見上げた空に星はなく、かわりに厚い雲。
もうすぐ雨が降るのかな。
ほんのちょっとだけ、残念に思った。
「お姉ちゃん、どこ見てるの?」
ベランダの手すりにもたれ、マンションの外を眺めていると、妹が声をかけてきた。
「まさか、変なこと考えていないよね?」
声は明るいが、真剣な表情だ。
くすっ。
思わず、笑みを漏らしてしまう。
ぷうっとふくれっ面をする妹。
「お姉ちゃん、ひどい。真面目に聞いてるのに」
「ごめん、ごめん」
笑いながら部屋にあがり、キッチンへ向かう。
シンクに片手鍋を置いたあと、水道の蛇口をひねった。
「わたし、そんなに変だった?」
「うん、変だった。飛び降りるかと思ったもん」
申し訳ない気持ちになった。深々とため息をつく。
「やだな、ぼんやりしてただけじゃない。飛び降りたりなんかしないわよ」
鍋を火にかける。カチッと一瞬、赤い火花が散った。
*
わたしの好きな人は、いつもほのかにスパイスの香りを漂わせている。
オフィスの廊下などですれ違うたびに、いつも同じ香りがする。
だから、香水だと思っていたのだけど違った。
商品企画室との合同ミーティングで席が隣り合ったときに、
「主任、すてきな香りですね」
思いきって話しかけてみたら、彼ははにかんだのだ。
「そんなに匂うかい? 家でしょっちゅう飲んでいるせいかな」
「え?」
「シナモンとカルダモン。それにミントが少し。きっとチャイに入れるスパイスの香りだよ」
「チャイ……ですか?」
「甘くて、すごく濃い、アジアの紅茶なんだ」
香りが鼻腔を通って、わたしの隅々にまで落ちていく。
その日から、大好きな飲み物がコーヒーからチャイに変わった。
*
「うわっ、何これっ?」
カップを飲み干したとたん、妹が目を白黒させた。のどを押さえ、ゴホゴホ派手に咳き込む。
「だいじょうぶ?」
あわててキッチンからおしぼりを持ってきて、妹に手渡した。
「最後の方、変な味がした!」
妹の目には、涙が浮かんでいる。
「あ、忘れてた」
わたしは、ぺろっと舌を出した。
「スパイスが底に沈んでるときがあるんだよね」
「そういう大事なことは、飲む前に言ってよ」
「はい、はい」
「あたし、チャイなんて、もう飲まないから!」
「わかったって」
「ほんとにわかったの、お姉ちゃん?」
「もう、しつこいなあ」
妹をなだめるのが面倒になってしまったので、うなずいてからチャイを一口飲んだ。
スパイスの香りが口の中いっぱいに広がる。
こうしてチャイを飲んでいたら、いつかわたしにも香りが移るだろうか。
どうせかなわない恋ならば、彼の香りだけでも自分のものにしたい。
彼の薬指に光っていた指輪を思い出す。
「あ、雨」
妹の声につられて窓の外を見る。
銀の糸のように細い雨が降っていた。
昼間あたためられた空気がまだ残っているらしく、生ぬるい風が吹く。
見上げた空に星はなく、かわりに厚い雲。
もうすぐ雨が降るのかな。
ほんのちょっとだけ、残念に思った。
「お姉ちゃん、どこ見てるの?」
ベランダの手すりにもたれ、マンションの外を眺めていると、妹が声をかけてきた。
「まさか、変なこと考えていないよね?」
声は明るいが、真剣な表情だ。
くすっ。
思わず、笑みを漏らしてしまう。
ぷうっとふくれっ面をする妹。
「お姉ちゃん、ひどい。真面目に聞いてるのに」
「ごめん、ごめん」
笑いながら部屋にあがり、キッチンへ向かう。
シンクに片手鍋を置いたあと、水道の蛇口をひねった。
「わたし、そんなに変だった?」
「うん、変だった。飛び降りるかと思ったもん」
申し訳ない気持ちになった。深々とため息をつく。
「やだな、ぼんやりしてただけじゃない。飛び降りたりなんかしないわよ」
鍋を火にかける。カチッと一瞬、赤い火花が散った。
*
わたしの好きな人は、いつもほのかにスパイスの香りを漂わせている。
オフィスの廊下などですれ違うたびに、いつも同じ香りがする。
だから、香水だと思っていたのだけど違った。
商品企画室との合同ミーティングで席が隣り合ったときに、
「主任、すてきな香りですね」
思いきって話しかけてみたら、彼ははにかんだのだ。
「そんなに匂うかい? 家でしょっちゅう飲んでいるせいかな」
「え?」
「シナモンとカルダモン。それにミントが少し。きっとチャイに入れるスパイスの香りだよ」
「チャイ……ですか?」
「甘くて、すごく濃い、アジアの紅茶なんだ」
香りが鼻腔を通って、わたしの隅々にまで落ちていく。
その日から、大好きな飲み物がコーヒーからチャイに変わった。
*
「うわっ、何これっ?」
カップを飲み干したとたん、妹が目を白黒させた。のどを押さえ、ゴホゴホ派手に咳き込む。
「だいじょうぶ?」
あわててキッチンからおしぼりを持ってきて、妹に手渡した。
「最後の方、変な味がした!」
妹の目には、涙が浮かんでいる。
「あ、忘れてた」
わたしは、ぺろっと舌を出した。
「スパイスが底に沈んでるときがあるんだよね」
「そういう大事なことは、飲む前に言ってよ」
「はい、はい」
「あたし、チャイなんて、もう飲まないから!」
「わかったって」
「ほんとにわかったの、お姉ちゃん?」
「もう、しつこいなあ」
妹をなだめるのが面倒になってしまったので、うなずいてからチャイを一口飲んだ。
スパイスの香りが口の中いっぱいに広がる。
こうしてチャイを飲んでいたら、いつかわたしにも香りが移るだろうか。
どうせかなわない恋ならば、彼の香りだけでも自分のものにしたい。
彼の薬指に光っていた指輪を思い出す。
「あ、雨」
妹の声につられて窓の外を見る。
銀の糸のように細い雨が降っていた。