一本の吸い殻

文字数 1,999文字

 彼女の部屋に煙草の吸い殻が落ちているのを見つけたのは、箪笥の引き出しにある避妊具を取り落としてしまった時だった。
 ベッドの隙間に落ちたその吸い殻と目が合った僕は薄暗い部屋の中で裸のまま固まってしまう。――どうして彼女の部屋にこんなものが落ちているんだ?

「あれ? もうゴム切らしちゃってた?」同じく裸の彼女はそう言って、上体を起こし引き出しの中を探り始めた。「やば、ほんとにもうないじゃん……。どうする?」

「……ああいや、隙間に最後の一個を落としちゃってさ。今取るから、ちょっと待って」

 僕はベッドの隙間に手を伸ばし避妊具だけを拾い上げる。微かな煙草の臭いが鼻孔をかすめそれが僕の見間違いではないことを証明していた。
 
「よかったぁ。これで終わりだなんてサイアクだもん」
 
 そう言って彼女は僕の首筋に優しく口をつけると、魅惑的なその身体をベッドの上に投げ出しもう待ちきれないというような上目遣いで僕のことを見上げた。
 そんな彼女の仕草だけで僕の頭の中はクリアになり抗えなくなってしまう。堪えきれぬ欲望にその身を任せ僕は乱暴に避妊具の封を切った。



 彼女がシャワーを浴びに行ったことを確認してから、僕はベッドの隙間に視線を向ける。普段は煙草の臭いなんて気にならないのにたった一本の吸い殻だけで部屋中にキツい煙草の臭いが充満しているような気がした。
 
 誰があの吸い殻を落としていったのだろう、と僕は考える。
 もちろん落としたのは僕ではない。僕は一年前に禁煙して以来一度も煙草に手をつけていないからだ。
 であるなら、あの煙草の持ち主として浮かび上がる可能性はおそらくこの三つだろうか。

1. 彼女が煙草を吸い始めた。
2. 彼女と親好のある女友達が遊びに来たときに落としてしまった。
3. 彼女の家に男が来たときに落としていった。

 まず1の可能性は捨てることが出来る。透き通るような綺麗な長髪の持ち主である彼女にとって煙草の臭いというのは嫌悪の対象でしかないと彼女自身が口にしていたからだ。
 したがって2の可能性も低いだろう。彼女が自分の部屋で友達に煙草を吸わせるとは思えない。寝室の中でなんてもってのほかだ。

 
 消去法で生き残ってしまった3の可能性について考える前に、僕は寝室の窓際に最近置かれた観葉植物に目を向けた。
 名前はアンスリウムというらしく、鮮やかな赤い花とハート型の葉っぱが特徴的なこの観葉植物が彼女の部屋に置かれたのはつい数週間前のこと。植物なんて微塵も興味がなかったはずの彼女が大事そうにアンスリウムを抱えていたのをよく覚えている。 

 できれば考えたくない3の可能性がこのアンスリウムと密接に関係しているんじゃないかと僕は思っていた。
 彼女には花屋で働いている友人の男がいる。髪を金色に染めたキザな笑みを浮かべるいけ好かない奴で、いつも花屋の店先で女の子相手に自慢げにうんちくを垂れているような底の浅い男だ。
 しかしそういう男が一定数の女性に対し一番ウケが良いことを僕はある程度知っていた。そしてそういう男ほど、自分がどういう女性から好かれるかを分かっているものなのだ。

 もしかすると、あの煙草は彼のものなのではないだろうか? 彼が煙草を吸っているかは実際のところ分からないが、花屋の裏で彼が煙草を吸っている姿は容易に想像出来た。

 僕は身体を倒して天井を見上げた。妙に煙草が吸いたくなってきた。こんな気持ちになるのは禁煙してから初めてだった。
 出口のない思考を続けたあと、僕はあの煙草について考えることをやめた。花屋の男に口説かれているにしろ、彼女は花の蜜を存分に吸わせたような分かりやすい口説き文句を真に受けるような人間ではないはずだ。


 そんな僕の楽観的な考えが砕け散ることになったのは、帰り際に玄関まで見送りに来た彼女が意味深な間を置いてから口を開いた時だった。

「もうさ、こういうのも最後にしない?」

 真っ直ぐな瞳で僕を射貫きながらはっきりとした口調で彼女はそう言った。
 そんな彼女の真剣な表情は初めてみたから僕はわざとらしくおどけて肩をすくめた。

「どうしたのさ急に」

 僕はへらりとした笑みを作ってからそれに返す。「なにさ、彼氏でもできた?」

「そう。彼氏ができたの」

 その言葉を聞いても僕は怒ったり取り乱したりすることはできない。元々彼女は僕のものではなかったからだ。
 僕は平静を取り繕いながら、玄関のドアノブに手をかける。

「煙草、嫌いじゃなかったっけ?」と僕は最後に彼女に訊いてみた。

 嫌いだよ、と彼女はすぐに言う。

「でもね、私が嫌いだって伝えたらもうやめるって言ってくれたの。まるで、一年前のあなたみたいに」

 僕は色の落ちた金色の髪をかき上げて一呼吸置いてから、精一杯のお祝いの言葉を彼女に向かって吐き出す。そしていつの間に玄関の置かれた名前も知らない観葉植物に見送られ、彼女の家を出た。
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