第1話

文字数 1,999文字

洗面所には大きな鏡が一枚あって、これに僕は映らない。
理由は簡単。僕が幽霊だからである。

1DKのこの部屋に招かれたのは三週間前。僕を拾った部屋主さんはいまだに僕が幽霊だとは気づいていなくて、僕もバレないように頑張っている。足を着けて歩いたり物を浮かさず遊んだりと、生きているふりは面倒で、けれど住み慣れてしまった彼の隣はなんだか僕にとってのユートピアのような。「今さら手放せないよ〜」とベッドの上を転がってしまうくらいには居心地がいいのである。

そんな日常に爆弾を持ち込んだのは、ただいまと帰ってきた部屋主さんだ。おかえりと返す僕に彼は小さく笑って、「はい、これ」と嬉しそうに小箱を渡してきた。視線に応えて開けてみれば、そこには僕の天敵が。
カメラである。ミラーレス一眼の軽いやつ。
「ほら、触ってみ」
「え、あっうん」
思わず閉じようとしていた蓋をまた開ける。傷をつけないように手のひらで優しく中身を取り出して、本体は足で固定する。ちょっと難しいなって思いながらレンズを合わせて回してみれば、カチッとハマって。
なんだこれ、楽しいぞ。
外して付けてを繰り返して、伸びてきた彼の手は転がって避ける。カメラは絶対に渡さないぞと意気込む僕を、彼は気にせず撫でてきた。
「気に入った?」
「たぶん、うん」
「おもちゃじゃないんだけどなあ」
彼に向けてカメラを構えたら、ファインダー越しに口元を押さえて静かに笑う姿が見えた。テレビの映像みたいだなって、そっとカメラを下げれば現実の彼がそこにいて、なんだか面白くなってまたファインダーを覗く。
「ね、ちょっと貸して」
「えっだめだよ」
「かーしーて、君のこと撮ったら返すから」
四角に切り取られた世界で、いつもよりまっすぐに思える眼差しを受ける。しょうがないなあって渡したくなるけど、写らないからだめです。取り上げようとしたって僕には勝てるまい。
「ふは、力つよ」
まあ、腕力ではないけどね!
笑って諦めた部屋主さんをカシャリと撮って一枚目。ここから、カメラ争奪戦が始まった。

最初に狙われたのは食事時。ご飯と味噌汁を用意されてすぐにでも食べたいところだが、「水入れるから待ってね」と声がかかれば待つしかない。
いただきますの合図を聞いて、行儀が悪いと分かりつつもがっつく自分は止まらない。生き物ってそういうものだよね、許してほしい。
それほどに彼の味噌汁は世界一なので、カメラへの注意が薄くなったのも仕方のないことで。ふう、と食べて一息つけば、隣に置いたカメラが消えていた。
「あっあぁああ!」
慌てて見れば、カメラはやはり彼の手に。身を隠さねばとベッドの向こうに駆け込んで、ちらっと様子を伺えばこちらを向いたカメラ。咄嗟に頭を引っ込めれば、遅れてカシャリとシャッター音。顔見せて、なんて呼びかけにはとりあえず唸り声を返しておく。断りの意思ははっきり主張しないとね。
少しして、部屋主さんはベッドの上からひょいと顔を出した。両手は空っぽ。さすが話がわかっている。
「ほら、もう撮らないから。出ておいで」
「……しょうがないなあ」
もう撮らない、という言葉は疑わしいけど、おやつタイムが僕を待っているので、ずっと隠れているわけにはいかないのだ。
「はい、おやつ」と出されたものを食べながら、ここはユートピアじゃなくて天国なのかも、なんて考えて。
それなら、来世も彼と一緒がいいなあ。

次に狙われたのも食事時。寝ている間にごそごそされた気もするけれど、両手で抱えてあごまで乗せていた僕の勝利のようだ。
もう取られないぞと、カメラを枕の下に隠して食べた朝ご飯。部屋主さんのいないお昼時。そして現在、夜ご飯が終わって彼の腕の中である。
「だめ! ダメだってば! ほんとにダメ!」
大ピンチである。
カメラを探し当てた彼は、おやつ待ち中の僕を抱え上げた。膝に乗せた僕を左手で確保して右手で撮ろうとしているけど、何やら手こずっているみたい。
今のうちに逃げねば。
そう手を振り回した先にあったのは彼の顔で。引っ掻いちゃったとしょげながら、ごめんなさいの思いで赤くなったところを舐める。大丈夫だからって優しく撫でられて、気持ちいいなって目をつむって、その時。
カシャリと音がして目を開ける。目の前にカメラ、その奥に彼。撮ったものを確認した彼は僕を見て、僕はそんな彼を見て泣きそうだ。
「やっぱ映んないかあ」
「う、ぅえ?」
「スマホじゃ無理でもこっちなら、と思ったんだけど。残念」
「え、え?」
鼻上をぐりぐり、耳下をうりうり、もっと撫でてって顔を寄せながら、頭の中はパニックである。
「なんでどういうこと〜」って体の力がどんどん抜けて、骨抜きってこういうことかなあってお腹を見せる。
部屋主さんは何でバレてないと思ってたのって笑ってて、鈍感さんだと思ってたのに違ったんだなあって、嬉しくなって尻尾が振れちゃう。
どうやら僕は、これからも彼の隣にいられるらしい。
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