第2話…愛子

文字数 4,390文字

2.愛子
 
 オサムは八歳、学年も一つ上がり小学校二年生になった。
進級したと言ってもクラスの変更はなく、一年生の時と同じクラスのままだ。とはいえ校舎が一階から二階に移り、古くほこりっぽい校舎だったがオサムは少し気に入っていた。


 オサムは勉強ができるわけでもなく、特に目立つ存在では無かったが、走ることだけは早かった。足が早いとは言うものの、ルールのある球技などは苦手だった。そのため、クラス対抗の球技などはルールをなかなか覚えることができず、窮屈な思いをしていた。
 
 そんな中、クラスの中の1人の女子生徒といつのまにか親しい関係になっていた。その子は「愛子」という名前だった。可愛らしいその名前とは裏腹に、ざっくりと刈り上げた短髪、日焼けした褐色の肌、元気がよく、いつも大声で話をしている、そんな子供だった。
 愛子はとても足が速く、オサムは時々休み時間にグラウンドに繰り出しては二人で50メートルの速さを競ったりしていた。オサムと愛子は二人とも気が合い、性別の違いなどは特に問題視していないようだった。
 教室内でオサムの席は窓側の一番後ろの席だった。そこからは校庭を見渡すことができ、他の学年や他のクラスの生徒達が体育の授業をしているのがよく見えた。そしてオサムはその光景をただぼぅっと見ていることが好きだった。愛子の席は、窓とは反対側の廊下側で、前から三番目、オサムの席から愛子の後ろ姿を見ることはできるが、授業中に愛子と目が合うことはなく、愛子はいつも熱心に授業を聞いていた。

 ある日、朝から雨が降っていた。オサムは雨の日は決して嫌いではなかったのだが、長靴を持っていなかったため、雨の日はいつも靴がぐっしょりと濡れてしまっていた。傘は持っていたが、子供用のいわゆるカラフルで楽しげなものではなく、父親が昔から使っていた物なのか、それともどこからかもらってきたものなのか、その傘はとても古く、日焼けの痕のようにところどころ色が抜けていた。
 少し遅れて登校したため、学校についてすぐに朝礼が始まり、クラスの担任が出欠を取りはじめた。その日、愛子は風邪をこじらせ、学校には来なかった。愛子の席のところだけぽっかりと穴が開いた教室は、オサムにとってどこか物足りなく、とてもつまらないものに感じた。

 次の日、愛子は学校へ来た。風邪をこじらせたと言っていたが、何事もなかったかのように元気だった。オサムは昨日の物悲しさを忘れ、愛子に接し休み時間に二人で50メートル走をすることになった。
 グラウンドに出ると天気もよく、地面はすっかり乾いていた。二人はスタート位置に着くと靴紐を縛りなおした。「いくよ!」と愛子はオサムに色黒の元気のよい笑顔でそういった。
 スタートの合図はオサムが言い、二人は走り出した。風邪で寝込み、体を持て余していたのか、その日の愛子はいつもよりも速く感じた。
 
 二人横一列で走っていた。ゴールの手前で愛子がオサムの視界から急に消えたが、オサムはそのままゴール地点まで走りぬけ、はあはあと息を切らしながら振り返った。愛子はゴール地点の少し手前で転んでしまったらしく、小さくしゃがみこんでいた。
 普段なら、転んでもすぐに立ち上がり、走ってくるはずの愛子がしゃがみこんで動かないのを見て、オサムはすぐに愛子のもとへ走った。
 オサムが来ると愛子は「いたい ... 」と言った。転んだ際、落ちていた石で膝の横あたりを切ったらしく、膝の横からふくらはぎにかけ、だらだらと土の混じった血を流していた。傷口はかなり深く切れているようで、流れ出る血は止まりそうになかった。
「いたい?」とオサムは愛子に声をかけ隣に座り込んだが、愛子はただ黙って下を向き、しわくちゃな顔でギシギシと歯を食いしばっていた。
「こういうのは、なめたら止まるんだよ」と言いながらオサムは愛子のふくらはぎを掴み、傷口を覆うように口を当てた。膝の横からはまだまだたくさんの血が出ていたがオサムはそのまま土と血がざらりと混ざり合った傷口を口で覆った。
 オサムの口の中に愛子の生温かい血液がとろとろと流れ込んできた。オサムの口の中はすぐに愛子の鉄くさい血液で一杯になったがオサムはそのまま愛子の血液をごくりと飲み込んだ。オサムの口の横からは飲みきれなかった血がだらだらと流れ、オサムの首すじまで伝わっていた。
 二度ほど愛子の血液を飲み込んだが、愛子の脚の傷口から流れ出る血は止まろうとはしなかった。傷口を口にくわえながら愛子の顔を見てみると目をギュッとつぶり、歯を食いしばって痛みに耐えているようだった。
「傷口をなめてもいいだろうか、それとも怒られるだろうか」しかめつらで歯を食いしばっている愛子を横目にオサムの頭の中に「傷口をなめたい」という衝動が生まれた。
「なめたい、なめてみたい。なめたらどんな顔をするんだろう」
 オサムの頭に生まれたその衝動は瞬時に膨らんでゆき、衝動から好奇心へと形を変えた。

「もう傷を口でくわえているし、血もたくさん飲んでいる、これならなめたって同じじゃないか」オサムの頭の中は、なめてしまいたいと言う衝動と、その行為を正当化するための言い訳が交錯していた。
 そしてオサムは、愛子の足をくわえたまま舌で探るように傷口の横をなでてみた。愛子は相変わらず歯を食いしばり、オサムはまた、ごくりと愛子の血液を飲み込んだ。
 その時オサムの頭からは愛子を助けたいと言う気持ちがすっかりとなくなっており、自分の衝動のまま、その好奇心のままに、欲求を満たしたいという感情が、愛子の脚から止めどなくあふれる血液と同じようにあふれ出ていた。
 そしてオサムはゆっくりと舌を動かし、オサムの口の中でぱっくりと口を開き血をどくどくと流しているその土の混じった傷口をそっとなめた。
 傷口は舌の先でもはっきりとわかるほど開いており、ざらりとした感触だった。
 
オサムの舌が愛子の脚の傷口に触れるとすぐに、愛子の体は大きく反応し、痛い痛いと愛子は叫んだ。
 オサムは不意を衝かれたようにドキっとし、たじろいだが、大きく噛み付いた口を傷口から離すことはなかった。
 
 愛子の声を聞きつけたのか教員が二人駆けつけてきた。一人は体格がよく、見るからにスポーツマンという感じの男、一人は小柄な中年の女だった。
 愛子は脚から血を垂れ流し、オサムはそれに噛み付くようにしてうずくまっている。それを目にすると中年の女性の先生は、はっと小さく叫び、顔をこわばらせ足を止めた。
 体格の良いスポーツマンと小柄な中年の女性は、事態を把握することができない様子ではあったものの、オサムの体はその体格の良いスポーツマンの教員によって愛子の体からぐいと引き剥がされ、そして愛子はそのままグラウンドにぱたりと横になった。オサムの口の周りは飲み残した愛子の血液でベッタリと汚れ、まるでまだ上手に食事もできない赤ん坊のようだった。

 愛子はそのまま、体格の良い教員に抱かれ保健室に連れて行かれたが、すぐに学校から、近くの整形外科に連れて行かれたようだった。
 取り残されたオサムはまだ午前中だったが、そのまま校舎には戻ることなくグラウンドの横を通りぬけ、通学路を歩き、自宅である木造のアパートへと向かっていた。
 途中ふと、とある家の窓ガラスに反射した自分の姿が目に入った。鼻の下からあごにかけ、そしてあごから首、足をつかんでいた左の手が愛子の血液でべったりと汚れていた。それを見てオサムはいつかのあの首だけになってしまった子ネズミの事を思い出した。舌の上には愛子の血液の味がまだぴりぴりと残っていた。

 
 自宅の木造のアパートに着くとオサムは、いつも首からぶら下げている家の鍵を黒く汚れ伸びきったシャツの首から引っ張り出し、鍵を開けた。その日は車通りも少なく、部屋の中は暗く静まり返っていた。
 オサムは、すっかり乾いてこびりついた愛子の血液を洗い流そうと風呂場へ向かい、服を脱いだ。風呂場の鏡には、顔から首にかけて、乾いた血液がこびりついているオサムの姿がぼんやりと映し出されていた。いつもと違う自分の姿がそこにはあり、べったりとこびりつき乾いた愛子の血液を洗い流してしまうのがもったいないと思えた。そしてオサムはしばらくの間、そのいつもとは違う自分の姿に見入っていた。

 古いシャワーのハンドルを回すと、少し弱めの水圧の水が出た。お湯が出てくるまで少し時間がかかるが、オサムはまだ冷たいうちに頭から水をあびた。段々と溶け出し流れてゆく愛子の血液は、風呂場の床を赤く染めた後、渦を巻いて排水溝に流れて行き、オサムはそれをただ黙って見つめていた。
 徐々に水が温かくなり、お湯が出だすとオサムはごしごしと顔をこすり、顔や手に付着していた愛子の血液を綺麗に落とし、鏡を見つめた。
 そこにはいつもどおりのオサムの姿が映し出されており、オサムはふぅうと長い息を吐いた。
 体を拭き、服を着たオサムは居間の隅に横になり、つい数十分前の出来事を思い出していた。そして、愛子の脚の、ぱっくりと口を開けた傷口を撫でた感触を思い出すかのように、舌先で上唇をぺたぺたとなめていた。

 次の日学校へ行くと、愛子は既に教室にいた。脚には包帯を巻き、オサムの姿を見つけるとすぐに元気の良い色黒の顔で、七針も縫ったんだと挨拶代わりに鼻の穴を膨らませてそう言った。
 日焼けした色黒の脚に巻かれた真っ白い包帯がいやに白く見え、オサムの目には不釣合いなように思えた。
 
 その日から、愛子は足の怪我を理由に一緒に走らなくなった。走ることを避けているという素振りもなく、オサムとは相変わらず仲の良い関係だったが、脚にぐるぐると巻きつけてある不釣り合いな真っ白い包帯が取れた後も、オサムと一緒に走ることはなかった。 
 愛子は転んで怪我をしたことや、傷口をオサムがなめたことをその後一切口にしなかったが、オサムは授業中、廊下側の前から三番目の席にいる愛子の後ろ姿を見ては、愛子の脚の傷口を思い出し、舌の先で自分の上唇をペタペタとなめていた。  
 
 それから程なくして夏休みになり、特に何事もなく新学期が始まった。学校へ行くと夏休みの間会っていなかった級友たちで教室の中はザワついていた。オサムはそのザワつきに紛れながらも、無意識に愛子の姿を探していた。
 朝礼が始まり、流れるように出欠が取られ、教員の口から愛子が転校して行った事を聞いた。クラスの女生徒の何人かは愛子の口から聞いてた様だが、オサムには知らされていなかった。
 廊下側の前から三番目の席は、新学期の席替えが行われる次の日までぽっかりと歯が抜けたように空いていた。

オサムはその虚しさから来る無表情を、そしてその喪失感を噛み殺すかのように必死でへらへらと笑っていた。
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