第7話

文字数 1,537文字

(傘、忘れた!)
 そう、傘である。この町に来る前、地元で買ったばかりの、まだ新品同然の雨傘をアパートに置いてきてしまったのだ。
 強制連行された雨の日に研修所に持って行き、昨日アパートまで持って帰ってはいたのだが、雨が止んでいたこともあって、ついそのままにしてしまった。今日こそは持って帰らなければと思いつつも、激しい戦いとそれに続く勝利の嬉しさのあまり、傘のことなど完全に忘れ去っていたのだ。
 かなり値段が高かっただけあって、造りは頑丈だったし、デザインも気に入っていたのである。
(取りに戻るか)
 俺はいったん振り返った。アパートのみすぼらしい傘立てに置き去られた哀れな傘の姿が、脳裏に浮かんだ。
 しばらく考えた後、俺はかぶりを振った。やはりそれはだめだ。やっとの思いで抜け出してきた邪教の巣窟へ、のこのこ舞い戻るような馬鹿な真似はできない。
 短くため息をついて、俺はゆっくりときびすを返した。残念だが諦めよう。手切れ金だと思えば安いもんだ。
 ふと腕時計を見ると、すでに八時を回っていた。死闘は二時間以上にも及んだことになる。梶本はわけのわからないまま、俺の帰りを待っていることだろう。
 俺は梶本の下宿に足を向けた。
 
 それから一年が経った。学業のほうはそれなりに順調に進み、無事に教養課程を終えて専門課程に進級することができた。しかも難関と言われる経営学科である。
 その日、前期の履修届を学務課に提出した俺は、大学正門前の交差点で信号待ちをしていた。一年前は自転車だったが、今日は徒歩である。
 高校時代から酷使を重ねてきた自転車は、この一年間で完全に乗りつぶしてしまい、廃棄せざるを得ない状態になってしまった。それに代わる足として原付バイクを購入したので、今からそれを受け取りに行くのである。
 周りは新入生と思われる学生たちでいっぱいだった。こんな時間に下校しているところをみると、今日は各学部のオリエンテーションだったのだろう。
「ちょっと、いいですか?」
 後ろで声がした。一年前の記憶がフラッシュバックし、俺は愕然として反射的に振り返った。
 だが、その声は俺にかけられたのではなかった。隣に立っていた、ひと目で新入生とわかる少年に対して、青いバインダーを小脇に抱えた男がアプローチを試みている。その男の顔を見て、俺は息が止まるほど驚いた。
 浜田だったのである。少しばかり様子が変わっているが、間違いない。2DAYSセミナーで二日間を共に過ごした、あの「超」お人好しの浜田が、筋金入りのスカウトマンになって新たな獲物を物色しているのだ。
 ただ、浜田の目はもはや善人のものではなかった。熱に浮かされたようなような、どこか焦点の合っていない、それでいて一心不乱に教義を追い求めているような双眸は、彼が完全に洗脳され果てたことを如実に示していた。
「あなたは神を信じますか?」
 浜田は型どおりの言葉を続けた。新入生は当惑したように眉をひそめた。
 一瞬、俺は警告を与えてやろうかと思ったが……やめた。二度と、真理研究会などと関わりを持ちたくない。
 それに……おばんが言っていたではないか。「こんなすばらしい世界があったのか、と涙を流す者さえいる」と。
 確かにそうなのだ。俺は、いくら話を聞き、何本ビデオを視ても(視ていなかったけど)ちっともすばらしい世界だとは思えなかったから、脱会した。しかし、教義に感激し、共鳴できる人間は、その世界に没入することで幸福を実感できるのだ。どちらをとるかは、各個人の勝手である。冷たいようだが、この新入生も自分自身の判断で道を選ぶべきだ。
 信号が青に変わった。俺は人の流れに混じって横断歩道へ足を踏み出した。二度と後ろは振り返らなかった。

 ─了─
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