第1話

文字数 1,962文字

 消えてしまいたい

 この言葉は、いつからか私の心を支配し始めた。両親の離婚。私の気持ちを無視する親権争い。父の性虐待。まだ中学生の私に、早くも荒波オンパレードで。神様は何を考えているのか。
 苦難は神様からの試練。それを乗り越えるからこそできることがある。救える誰かがいる。よく聞く話だけど、果たして本当だろうか。確かめようもない未来をどう待てばいい?今が辛いから生きていたくないのに。
 家に帰りたくない。足が重い。
 ああ、空が綺麗だ。
 高く伸びる入道雲。そうだ、雲になりたい。風に流されてどこまでも行く。時に涙を降らせる。それがどんな被害を生み出そうと、何も考えたりしない。溜まったから降る。ただそれだけ。誰もそれを責めたりしない。自然現象だから。
 もう疲れた。
 どんなに夢を描いたって、帰る場所は変わらない。ここは現実だ。茹だるような暑さも、鼓膜を破らんばかりに鳴く蝉も、すでにフルコースみたいな人生も。どうにもならない。
 …帰るか…
 次いで、え…と思わず声を洩らした。音になったかは定かじゃない。異様なそれは目の前で、ぽっかりと大きく口を開けている。
 トンネルだ。
 コンクリート壁に半円の穴、先は見えない。道幅は車1台がギリギリ通れるくらい。生い茂る木々に囲まれ、年季が入った外観。それがいま道を遮るように鎮座している。後ろを振り返る。いつもの景色。もう一度見る。やはりある。追い付かない頭で何が起こっているか考えていると、トンネル脇の注意看板が目に留まった。
『入るな 危険』
『行方不明者 続出』
 ここに入れば、消えることができるだろうか…
 吸い込まれるように私の足は、トンネルの中へと踏み込んだ。
 涼しい。先は真っ暗だが、見える範囲はいたって普通のトンネル内部。しばらく進むと不自然にも事務机が置かれており、その向こうに人影が現れた。少し身構える。
 体格のいい男の人…いや、額の両端に角が生えている。鬼だ。鬼がスーツを着て椅子に座っている。鬼は私に気が付くと、机の書類にペンを走らせながら尋ねる。
「自殺志願ですか?」
 自殺。そう言われると、少し気後れする。ダメ絶対。悩んだら相談。相談窓口こちら、と学校で何度も教えられた。自殺とは自分を殺すこと。例え自分でも、人を殺すのは悪いことだ。だから消えたい。でも、私を消すということは…
 躊躇いを感じてか、鬼はにっこりと笑う。
「いま、お試しキャンペーンやってますので、こちらへどうぞ」
 お試し…?不安はあるが、案内されるままついていく。次第に視界は拓け、アスファルトだった床はゴツゴツとした岩肌に変化した。熱い。空気が熱くて息苦しい。空は赤黒く、なんだか落ち着かない。
 ボコボコと煮える。何かが崩れ落ちる。どこかで粘液が吹き出し、溢れる。そんな音の群れに混じって聴こえるこれは、人の声?
 いたるところから漏れ出す不協和音に、心臓が早鐘のように鳴り始める。
「あなたの場合はこちらです」 
 すでにここに居たくないと思っているのに、案内は続く。鬼の示した先で、人が無惨に真っ二つにされた。耐えきれず目を逸らす。耳を塞ぐ。それでも否応なしに聴こえてくる、繰り返し行われる凄惨な、罰。ここは…地獄だ。
「どうされます?このまま登録されますか?」
 まるで会員登録を促すかのように尋ねる鬼の声。にこやかな声色。でもきっと、目は笑っていない。
「や めます」
 絞り出すようにそう答えた。鏡を見なくても分かる。今の私は顔面蒼白だ。気分が悪い。帰りたい。家にじゃない。家にじゃないけど、帰りたい。
「そうですか…」
 では出口まで送ります、と鬼がまた案内をする。そこからどう歩いたのかは、もう覚えていない。ただ気が付いたらトンネルを抜けて、見慣れた景色の前に居た。
 蒸し暑い。蝉の声がうるさい。見上げれば青い空。どこまでも高い、白い雲。いつもの帰り道。
 恐る恐る振り返る。
 そこにはもう、トンネルは無かった。
「あれ、お帰りー」
 底抜けに明るい声がした。なにかと気に掛けてくれる近所のおばちゃんだ。なんか顔色悪いねぇ、と心配して近寄ってくる。
 途端、涙が止めどなく流れ落ちた。慌てた様子のおばちゃんが見えたけど、もう私には止められない。いつ以来だろう、子供のように声を上げて泣くのは。みっともない。けれど何かが、私の中から出ていく気がした。
 泣いたって変わらない。そう蓋をして、溜まっていたのかもしれない、雨みたいに。だとしたらこの雨は、誰かに迷惑を掛けてしまうだろうか。今まで、それだけはしないように生きてきたのに。
 おばちゃんが背中をゆっくり擦っている。その顔は優しく温かい。また涙が溢れて止まらない。
 いいのかな、溜まったら雨を降らせたって。
 私の雨も虹を描いたり、花を咲かせたりするだろうか。
 
 
 


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