山惹かれ

文字数 4,949文字


 未明、七月とは思えない涼しさの中僕は一人で玄関に座っていた。僕はそのまま永遠にそこで座っていられるような気さえした。が何分経っただろうかスポーツメーカーのキャンプ用のリュックを背負い、やや大きめの同じスポーツメーカーのバッグを肩にかけて僕はゆっくりと立ち上がった。玄関にある鍵置き場に僕の鍵があることを確認してゆっくりとドアを開ける。もうこの家に戻ることはないかもしれない、この家での全てが一瞬でフラッシュバックする。ただその葛藤をする時期はもうとっくに過ぎていた。ゆっくりとドアが閉まる、外はまだ暗く自分の生きている証を刻むかのようになくセミの音以外は何も聞こえない。「ありがとうございました。」ゆっくりと家に振り替えるとごく自然にそんな言葉が出てきた。間違いなく僕とこの家にしか聞こえない小さく大きい挨拶だった。僕はそれから一度も振り返ることなく駅に向かった。
 期待と不安は想像以上に僕の前に現れる。いつも高校に行くときに使うはずの道だが今日はその全てが初めてに見えた。この街はこんなに静かだっただろうか、夜明けが近づいてきたのか鳥の声が透き通るように聞こえてくる。気持ちのいい朝だ。異世界のようだ、時間の経過もわからずいつのまにか駅についていた。昨日の朝も学校に行くために使った駅は特に形を変えることなく僕を迎え入れた。定期があるため滅多なことでは切符を買わないため少し時間がかかってしまったが目的地へ行くための片道切符を手に入れた。いつもいる駅員が少し不思議そうな顔でこちらを見てくる、僕は優しい笑みを浮かべて答える。笑顔はときに最大のガードになる、それがどんな時でも。駅員も特に気にかける様子もなくそれ以降目が会うことはなかった。
 最寄駅から始発に乗り、二回の乗り換えを経て最後は二両編成のワンマン電車に揺られ目的地に着いた頃には夜は完全に開けていた。家を出るときに聞こえていたセミの声は種類を変えて以前としてないたままだったが、周りの景色は家があった住宅街とは真逆のものだった。見渡す限りの緑とその間を埋めるようにポツポツと並ぶ家々、おそらく僕が長年求めていたもので高校も生活も全てを捨ててまで来たかった場所だろうがなぜかあまり興奮はしなかった。駅を出たらすぐに見えた登山道の入り口を見つけ歩き出した。その時ズボンの右ポケットに少しばかりの振動を感じた。母からの電話だった。「もしもし」「あんた今どこにいるの?」母の声がすでに懐かしく感じる。「書き置きしておいた通りだよ。僕にはやりたいことができたんだ。」「まさか家出なんて・・・」今にも泣きそうなのが電話越しから伝わってくる。「家出じゃない、移住だよ。」僕はしっかりと訂正する。「なんで何が不満なの?」母は僕の訂正が聞こえなかったのか、さっきよりは、はっきりとした口調で尋ねてきた。「書き置きした通り僕にはなんの不満も嫌なこともなっかたよ。ただその毎日訪れる当たり前の日常こそが嫌だったんだ。」さらに間髪を入れずに続ける。「だから僕のことはほっておいて欲しい。完璧に自分勝手だと思うけどお願いします。それと今ままで育ててくれて本当にありがとう。」「ちょっとまっ・・」母がついに泣いているのがはっきりわかるようになり何か言おうとするのを遮るように電話を切ると、すぐ家族の連絡先を着信拒否にした、その時の僕は顔が塩分と水分でグチャグチャになっていた。
 心が落ち着いたのはどれくらい経ってからだろうか、僕は電話の時より数段成長した面持ちで登山道を上り始めた。平日の昼間ということもあってだろうか人は殆どおらず年中無休の鳥やセミたちが必死にないていた。木の枝や落ち葉を踏みしめる一歩一歩が生きているようで胸が大きく高鳴っていくのがわかった。三十分ほど歩いただろうか「そろそろいいだろう。」僕は周りに誰もいないのを確認して登山道の横の道へ入っていった。その道は入ってすぐにに道と呼べるような場所ではなくなった。道が険しくなるにつれてじわじわと汗が出てくる、セミがうるさい、リュックが、バッグが僕の体に重くのしかかる。「あっ。」セミの音に混じって微かに心地よい音が聞こえてきた。それは昔、保育園の時くらいに初めてプールに入った時のあの感じに近かった。「あった。」誰もいない山奥に僕の歓喜の声が放たれる。そう、目の前に現れたのは立派な川だった。大きいバッグから折りたたみのパイプ椅子を取り出しそこに腰を下ろす。僕はここで長いのか短いのか、まだ何もわからない人生を過ごしていこうと決めた。川は心地よい音を立てながら透き通った川面で僕をじっと見つめていた。
 僕はつい昨日までは普通の高校生だった。朝は遅刻ギリギリに起きてダッシュで駅に行き電車では単語帳などを読んで過ごすようなどこにでもいる普通の高校生。家も別に裕福なわけではないが父と母と、特に不自由なく暮らしていた。ただ僕は高校に入学してからしばらくして普通の生活に虚無感を抱いていた。朝、昼、夜、毎日全てが同じことの繰り返しのように思えていたのだ。そんな時、ある社会の授業で無人島で暮らす一人の男の話を聞いた。その人は若い頃に普通の生活、というものに耐えられなくなったとかで家を出て一人で無人島を開拓したらしかった。僕はこの百人いたら百人が「あっそう。」と思うような話に食いついてしまったのだ。その後僕はすぐ移住の準備を始めた。五歳からやっていたサッカーをやめて放課後はバイトに打ち込んだ。自分の身勝手ということは誰よりも自分が理解できていたし、親に相談したら止められることはわかっていた。だからこそ少しでも自分の力で移住したかった。今日だけで僕は様々な初めてのことに出会った電車も山も川も全てが僕を迎え入れてくれて嬉しかった。が同時に失ったものも考えたくないくらいある。もう僕は後戻りはできない。何があってもここで生と、死と、僕と、向き合わなければならないのだ。
 川を見つけてからしばらくはセミの鳴き声をBGMに川面とのにらめっこが続いていたがBGMに、グーという助けを呼ぶ僕のお腹の音が加わった。気づけば僕は水分以外朝から何も摂取していないことに気づいた。「なんかつくるか。」移住とは言ったものの食料が不安だった僕は、水があればつくれるようにカセットコンロや軽い食器粉とインスタントのスープを大量に持参してきた。もちろん将来は魚や山菜などで自給自足をしてみたいと思う。とりあえず川の水を火にかけ温かいコーンスープを飲んだ。真夏の暑い中、山で飲むコーンスープは格別だった。「ふぅ。」コーンスープはあっという間に飲み干したがそれ以上は体が受け付けなかった。一息つき聞いたことのない鳥の鳴き声に釣られ空を見ると僕の心を炙るかのようにきれいに赤く染まっていた。
 一息ついた僕は、まず拠点を作ることにし、そのために周りを散策することにした。最近は雨や地震などの自然災害で川の氾濫や土砂崩れといったニュースをよく耳にする。そのため川から遠くはないが近くないところを探さなければいけない。パイプ椅子をバッグにしまい肩にかけて立ち上がる。バッグはインスタントのコーンスープの分軽くなっていた。僕は立ち上がってみたものの見渡す限り間違い探しをしているかのような木々が立ち並ぶ風景に思わず苦笑した。「どこに行けばいいんだろう。」しばらく考えて僕は登山道と川を挟んで反対側の大陸へ行くことに決めた。立ち上がってから踏み出せずにいた右足を持ち上げ、履いていたスニーカーと靴下を脱ぎ、川へと歩みを進めた。
 川は夏だからか心地よい冷たさだった。流れはそこまで速くなかったが、外から見ると透き通っていて浅そうに見えた川底は意外と深く真ん中らへんは膝のやや上まで迫って来ようかという高さだった。小さい魚がいくつか視界に入りやや胸が高鳴る、なかなかにおいしそうだ。川幅はそこまで広くなくゆっくり歩いても三十秒とかからなかった。タオルで足をゆっくりと拭き、靴下と靴を履き直す。ふと、川の方に体を向ける。川のせせらぎとセミの声が一瞬だけ止んだ。がまたすぐに息を吹き返した。ここは三途の川だろうな、僕は渡賃の代わりに小さい石を六つ川にそっと入れた。目を瞑って手を合わせる。お願いをするのか、懺悔するのか、決意を表明するのか、何が正解なのかは全くわからない。ただしばらくはそうすることにした。いい気分だ。不意に目が開く、景色は変わってないはずなのだが全てが色濃く写って見える、早くあの世界に飛び込みたい。僕はさらに奥を目指した。
 その世界には道がなかった。木が等間隔に並べられていてどこも同じ風景に見える。自然にできたのか、創られたか世界なのかそこから議論が始まるような、そんな場所だった。柔らかい土に心地よい匂い、肌にまとわりつく空気全てが僕の体の一部のようだった。日は少し前にもう完璧に沈んでおり月明かりとリュックから取り出した懐中電灯を頼りに歩いている。ただ決して明るいとは言えないこの世界に僕はさして不安を感じなかった。耳には小さくなってきたセミの音に重ねるように草木が風に揺れ何か訴えてくるように感じる。僕はその音につられるように歩いて行った。ただただ草木についてゆくと僕はほら穴を見つけた。その穴はこの綺麗な森を守る神でも住んでいるかのような雰囲気で堂々と穴を開けていた。入り口はそこまで大きくなく人が二人分通れるくらいだろうか。斜面からややポッカリと開いていて、中は斜面に沿っておそらく広めの空間になっているだろうが暗くてあまりわからない。そこで僕は、今まであまり急な斜面を通らず森だと思っていたがここは山だった、ということにふと気づく。今まで歩いてきた道を振り返る。弱々しい足跡と等間隔に並んだ木々、誰かが追いかけてくるのではないかという恐怖が出てきてあっという間にさって行く。やはりここは森なのだろうか。僕は懐中電灯を強く握りしめ少しの不安に押されるように穴の中に入った。 
 穴の中は想像以上に涼しく快適だった。広さも三十畳ほどあり住むことに関しては文句のつけようのない物件であった。少しだけ穴の中を見て回ったが、今日一日のことを考えると疲労がどっと溢れ出てきて眠くなってきた。僕はジャージに着替え、リュックの中から寝袋を取り出しその中に滑り込んだ。疲れているものの僕はなかなか眠れなかった。家を出てから今のことが一瞬でフラッシュバックする。家を出た時、いつも使う駅に行った時、電話がかかってきた時、コーンスープを飲んだ時。これが一日で起こったことだと考えればものすごいことだと改めて思う。あぁ、星を見てなかったな。折角の山なのに、明日でいいか。会話が恋しくなる。一人での自問自答を繰り返している間に僕は眠りに落ちた。
 翌朝、僕はセミという目覚ましで起床した。止めることができないアラームに少しイライラするが、数分もしたら特に気にならなくなった。昨日の疲れかまだ目がうつろうつろしている。寝袋からスルリと抜け出しジャージから、二日目用の服に着替える。ふと脱ぎ捨てた昨日の服が目に入り、洗濯しなきゃなあと思う。お腹も空いているし体も洗いたい。とりあえず外に出ることにした。タオルを持って穴から出ようとした。え。思わず声が出る、体が動かない、あと少しで光にたどり着くところで僕の体は思考を停止した。ただ見えない何かに引き寄せられるように地面に落ちていく。抵抗する気力もなくだらんと仰向けになった。セミの声は依然として聞こえ、小さい茶色いありが手のひらに乗ってくる。冷たい土のその源と僕の熱い源が交わり、中心で調和する。僕はただ暗い穴を見つめて特に考えることもしないで目を瞑った。山ができていくように、地球ができていくように、宇宙ができていくように。何もなかった場所に今僕がいて、でもその場所に何もないはずはなくて、何億年も前に何かがその何もないものを作って。ここは一体どこだろうか、何だろうか、僕が今までしてきたことは、モノは人は、一体何んだったのだろうか。もう疲れたよ。僕は土に、山に、還った。
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