スーパーマンの話

文字数 1,895文字

「スーパーマンになってくる」
 父はそう言って、夕方になるとよく出かけていく。
 父の言う「スーパーマン」は、悪の組織と闘うスーパーマンでは決してない。スーパーに買い物に行くことを「スーパーマンになる」と表現しているだけだ。雑にズボンのポケットに入れられたエコバックには、一時間もしないうちに第3のビールとツマミが入れられていることだろう。夕方になると、父はアルコールが飲みたくなってスーパーマンに変身するのだ。
 サンダルを引っかけながら、父が尋ねた。
「夏子も酒飲むか?」
「私は良いや。明日、面接なんだよね」
 そうか、と父は頷いた。
 面接、と口にするだけで憂鬱になる。目下就職活動中の私は、十二月になっているにも関わらず、まだ内定をもらっていない。
「じゃあ、行ってくるな」
「いってらっしゃい」
 夕方の街に繰り出す父を見送ると、私は自分の部屋に戻ってエントリーシートとにらめっこした。
「……頑張らなきゃ」
 どこを面接で突っ込まれるだろうか。何を言わなきゃならないだろうか。
 どこの企業を受ける時にもキチンとシミュレーションしているのに上手くいった試しがない。頭の中がグルグルとして、訳が分からなくなってくる。
「もう、いやだな」
 思わず口から飛び出した言葉は、かなり切実な響きを帯びていた。
 何社も、何社も落ち続けると、自分が人間として決定的にダメなのではないかという気がしてくる。進路が決まらないことよりも、人間としてダメだと言われているような感覚に、私は追い詰められていった。

 幼稚園の時、父は私とお絵描きをして遊んでくれた。小学校の時は宿題を見てくれたし、中学生の時には本気でチェスで対決してくれた。ハンデをつけても父のほうが強かったから、毎回のように私は惨敗していた。
「企業戦士には休養が大事だからな。休みの日にはゆっくりしないと」
 それが口癖の父は、ちょっとお茶目で優しい、だけどごく普通の男の人だ。休日はコタツで寝そべり、テレビで相撲を見ながらのんびりとしている父は、本物のスーパーマンとは程遠い。若い頃の父も、会社での父の姿も知らないから、休日の父の姿が私の知っている父のすべてだ。
 それなのに、私は今、その休日の父の姿すら上手く捉えられないでいる。反抗期を迎えて父との会話が減った高校時代を経て、父とどのように会話すれば良いのかわからなくなってしまっていた。

 コンコン、とノック音がしてドアを開けると父が立っていた。
「どうしたの?」
 私が尋ねると、父はエコバックを掲げて見せた。
「プリン買ってきたけど食べる?」
「え? 食べる、食べる」
「じゃあ、区切りがついたらおいで」
 エントリーシートをクリアフィルに入れると、私は早足でリビングにむかった。
 私がリビングに行くと、父はコタツでコップに第3のビールを注いでいるところだった。冷蔵庫からプリンを取り出して父と向かい合わせの位置に座ると、父はコップを持ち上げた。
「乾杯」
「乾杯、なのかな?」
 私はプリンを持ち上げ、乾杯の要領で父のコップに軽くぶつけた。プラスチックだからか、あまり良い音はしなかった。へんてこな音に、父はちょっと笑った。
「やっぱり良い音はしないな」
「そりゃあ、ね。プリンのカップで乾杯って変だし」
 そりゃそうだ、と父は頷いてアルコールをグイっと呷った。美味しそうに目を細め、口を開く。
「変といえばさ、フィリピンに行った時にな。チェーンの飲食店みたいなところで、孵化する直前のたまごが売ってて」
「え? 生まれる形になりかけてるやつ?」
「そう。調べてみたら、アヒルのたまごらしいんだけど」
 突拍子もない話に驚いたが、かなり興味をそそられた。あっという間に父の話に惹きこまれていく。
 そういえば、昔から父の話は面白かった。
 小さな頃、私は父の話を聞くのが好きだった。仕事の話も、旅行に行った時の話も、母と出会った時の話も、私が生まれた時のエピソードも、何もかもが面白かった。
 思えば、父はずっと私のスーパーマンだった。足が速いわけでも、体が締まっているわけでも、特殊能力を使えるわけでもないけど、それでも私のスーパーマンだったのだ。
 目の前の父は、昔と比べてずっと年をとったように見える。頬のシワに過ぎた年月を感じた。
 面接の準備をしに部屋に戻る前、父は私に優しく言った。
「明日、車に気をつけろよ」
 小学校に行く私を送り出す時、よく言われていた言葉だった。
「わかってるって。……頑張ってくるよ」
 私は微笑みながら、あえて昔のような口調で父に言った。
 舌の上に残るプリンの甘さに泣きたくなった。過ぎた年月が惜しいと初めて思った。
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