第1話

文字数 9,166文字

 ある火曜日の午前10時45分。
 閣議室前の入口スペースに、もの哀しい叫び声が響いた。


 * * * * * * * * * * * * * *

 その日、J国の首都上空は、朝からアスファルト色の雲にふたをされていた。大気は身動きがとれなくなったようだった。
 サラサラサラ――。
 季節はずれの黄砂が時を奏で、まちは巨大な砂時計と化していた。

 総理大臣官邸内の閣議室では、いつものように定例閣議が進められていた。この月最初の閣議だ。
 部屋の中心の大きな円卓を、閣僚たちがしきたりに沿った順で囲んでいる。各人の前には硯と筆が置かれていた。  
 出入口のある壁から一番奥の正面、向かってやや右側に閣議を主宰する内閣総理大臣が、そして正面左手には司会進行役の内閣官房長官が座っている。 
 よく見ると、このふたりを左右に従えるかっこうで、正面中央席には仙人然とした翁が鎮座している。からぶきしたかのような頭皮、ミニチュア・シュナウザーを思わせる白い眉毛、あごにはヤギのようなひげをたくわえている。卓上にかろうじてのぞいた衿もとから、和装であることがうかがえた。
 席次から判断すると、この場の座長は首相ではなく、最も上位の席に陣どっている“ヤギひげの長老”だと推測できる。だがそのことは、実際にこの場の空気を吸った者ならば、長老から発せられる無言の威圧感からすぐに直感できただろう。
 すでにいくつめかの議題に入っていて、国務大臣たちが閣議書に毛筆でせっせと花押を書いているところだった。花押とは、名前の特定の文字を崩したり組み合わせたりしてデザイン化した“サイン”の一種だ。この署名により、その事案に同意したことが示される。閣議での意思決定は全会一致が原則だ。
 閣議書が一周しスギ総理のもとに戻ってくると、事務担当の役人がこれをひきとった。  
 55歳の若きリーダーは、紺のスーツに白いシャツ、えんじ系のネクタイをしめていた。髪型は、それまでの“いかにも総理大臣”ふうのきちっとしたスタイルではなく、フワッとやわらかく分けている。
 首相はちらと左手首の銀の文字盤に目を落とす。午前10時15分をまわっていた。
 シンプルなデザインの国産の腕時計だが、グレーのクロコダイルベルトがしゃれ者らしい。出自が並はずれて良いためか、スマートな所作だった。
 これを受け、齢七十余、いまだ眼光鋭い九州男児のツバキ官房長官が、
「コホン、それでは次の案件に入りたいと思います」
 と進行する。額はかなり後退しているが、髪の色はまだまだ黒い。
「懸案の新しい高速道路の建設等を定めた、幹線自動車道建設法案についてでありますが……」
「その件じゃが、」
 神々しい声に、全員が最上座の老公のほうを向いた。  
「予定のコースがわしらの管轄地におよぼす影響について、基準や条件を見なおしてみた。と、いうわけで、うちの環境保全を第一に考え、迂回させようと思う」
「ほう、それは賢明ですな」
 この国の道路行政をつかさどる国土交通省のヒノキ大臣が即答する。ヒノキ国交相は首相と同じ歳だが、人のよさそうな丸顔になでつけた七三、黒ぶちメガネがトレードマークという、首相とは正反対のタイプだ。
「さすがは柳大臣、卓越したご意見で」
 ツバキもすかさずお追従を言う。こわもての官房長官もこの大人(たいじん)の前では赤子同然だ。 
 他の閣僚たちも口ぐちに「なるほど」、「ごもっともですね」と賛同する。
「うちの担当課が線を引いた迂回ルートが、もう仕上がっておる。政策部会や族議員たちの了解もえておるし、みな異論なかろう」  
「もちろん異議などございませんとも!」  
 閣議書がまわされ、大臣たちがもくもくと署名していく。 
 新しい幹線道路の建設について、迂回ルートをとる“改正案”が、内閣の総意として正式に採択されたことが確認される。

 この国における政治の様相は、いつからか一変していた――。

 J国では、政策や法案は、実際にはほとんど官僚たちによってつくられている。
 各省庁の担当部署で作成された草案は、順次役所内の上のレベルで検討され、さらに関係省庁間での調整が重ねられる。こうしてねりあげられたものが、閣議の承認をへて、政府案として国会に提出される。これが議会で可決されると、政策の実現に向け、晴れて新法成立となるわけだ。
 つまり閣議にかけられる案件は、すでに事務レベルで合意点に着地したものばかりである。さらにいうと、閣議前日に、事務方トップが集まる次官連絡会議で事実上の正式決定をみており、これ以上の議論の余地はない。
 ゆえに閣議とはあくまでも、各案件について大臣たちが次から次へと署名を行うだけの、形式的な場にすぎなかった――かつては。

 * * * * * * * * * * * * * *

「環境の話ついでに、書きながらでよいので、聞いてもらいたい」御大のお言葉は続く。
「わしがまだ子どもだったころ、国はてっとりばやく、みどりを増やそうとしておった。針葉樹の人工林をじゃんじゃん植えてな。あれは成長は早いが、根が浅くて保水力が弱い。おかげでわが国の森林は、台風や土砂くずれなどの自然災害にもろくなってしまった」
 老君は座を見わたした。
「そこでわしは広葉樹に目をつけた。あれなら根が強くはり、地盤がかたまる。ただし成長に長い年月がかかるのが難点じゃった。でもわしは、土砂災害や水害に強い国土づくりのために、辛抱づよく努力を続けてきた」
 一同は、花押を書きかき、聞きいっている。いつ、なんど聞いても尊い話だ。 
「地球温暖化やヒートアイランドの影響で、台風やゲリラ豪雨による被害はこれからも増えるだろう。コンクリートにおおわれた都市部では、いよいよ水の逃げ場がたりん。都市型災害にそなえて、環境インフラとともに、緑地の整備は急務じゃ」
 閣議書が環境大臣のところにまわってきた。
 サクラ環境相は、党の反主流派からの入閣である。60代後半、への字に結んだ口の両端には深いしわが刻まれている。垂れさがったまぶたは、両目をほとんどおおい隠していた。髪は両耳の横以外はすべて真っ白だ。彼は署名をしながら、ありがたい言葉をかみしめている。
「まちにみどりが増えれば、CO2の排出がおさえられ温暖化もゆるやかになる。燃えにくいうちの街路樹は、震災による大規模な火災へのそなえにもなる。子どもたちに、孫たちに、そしてそのまた次の世代に、みどりゆたかな国土を残したい。こうしたわが国のとりくみを世界中に示すことは、国際社会での発信力の強化につながる。いきおい、J国の特産品をますます世界にアッピールできる。まさに正の連鎖じゃ」
 大人(たいじん)はいったん言葉をきり、和服の衿にかからんばかりのあごひげをなでた。
「ゆくゆくは、世界中の街路樹をうちの木でうめつくしたい。そういうことで、サクラ大臣だけでなく、みなであらためて、ひとつよろしゅう頼む」 
「早速各省で新しい方針を検討させましょう。今月中には、次官連絡会議にあげます」
 官房長官が力強く約束した。

「では次に各大臣から発言があります。まずはSEP担当大臣、お願いします」
「はい。戦略的経済パートナーシップ協定の交渉にさきだち、重要6項目について、輸入品への関税撤廃には断固応じない方針をかためました。現在各国と水面下で……」
「もちろん諸君らのがんばりは、知っておる。じゃが常にもうひとつ上をめざしてほしい」
 やんごとなき翁がわって入る。
「だもんで、うちが管理する最優先の聖域については、関税の維持ではなく、引き上げの方向でいきたい。むろん無関税輸入枠など論外じゃ」
 長老は財務大臣と経済産業大臣に目を向け、 
「税率やなんやかやについては、おって通達する。増収分については、タチバナ君のところで、よきにはからってほしい」 
「このようなかたちで国の財源の確保にまでご配慮いただき、まったくもって喜ばしいかぎりです。本来ならば私どもの仕事ですのに、いつものことながら、己の未熟さを思い知らされます」
 タチバナ財務相の60歳をすぎてもなおも艶やかなポマード頭の下の目は、チワワの瞳よろしく潤んでみえる。
「わが国の最優先品目は守らねばなりませんからね。それにしても、関税の撤廃をはねつけるばかりか、引き上げ要求に転じるとは、まさに“攻撃は最大の防御である”というわけですな」
 “政界のトラクター”とあだ名される、叩き上げのマツ経産大臣だ。豊富な知識とがむしゃらな実行力で知られる次世代の総理大臣候補でさえ、感心しきりといった様子だ。
「戦略のねりなおしを急ぎます」  
 SEP担当大臣が神妙なおももちで答えた。

「次は防衛大臣、どうぞ」
「はい、えー、J‐U国間における防衛協力指針の改定に向けまして……」
「その件でみなに質問じゃが、諸君はテロリズムの定義をどう考えておるかの?」
「テロリズムですか……」
 御大の突然の問いかけに、みな口の中でごにょごにょやりながら、小首をかしげたり隣と顔を見合わせたりしている。防衛大臣と外務大臣だけは自信たっぷりの体だ。
「テロといえば、暴力や破壊行為ばかりを思い浮かべがちだが、わしはわがJ国の尊厳をそこなうような他国のいっさいの行為を、わが国に対する事実上のテロだと思うのじゃ」
「J国の尊厳をそこなうような行為?」
「よーするに、うちの産出物と競合せんとする行為じゃ。そんなこんなでカシワ大臣、クスノキ大臣」
 柳大臣は言葉をきって防衛大臣と外務大臣を交互に見やった。
 カシワ防衛大臣は老公のほうに大きくコクッとうなずき、ふたたび話しはじめようとした。しかしうなずいたぶん、一呼吸、クスノキ外務大臣に遅れをとった。
「わが国とU国とのあいだの新guidelineの策定につきまして、現在盛んにdiscussionが続けられておりまぁす」
 先を越したクスノキ外務大臣は、“柳大臣から受けた密命について最初に口を開くべきは、カシワ防衛大臣ではなく自分だ”と考えていた。
 外務省の省庁のなかでの“序列”はかなり上位である。それは閣議の席次にも表れており、クスノキは今日の出席者18人中6番めに座っている。柳大臣、首相、官房長官を除けば、彼より上座にいるのは、総務大臣と法務大臣だけだ。
 また、クスノキは財務大臣の経験があり、G7にも出席したことがある。トレードマークのマオカラーのスーツは、マスコミ映えもした。彼は、自分は国会議員の“格”としても、他の閣僚たちに比べワンランク上の存在であると自負しているのだ。
 ただの大臣たちの羨望のまなざしを受け、腹話術の人形を連想させる外務相のほっぺたは、いつも以上に膨らんでいた。
 “クスノキ節”――海外通で横文字を原語風に発音するばかりか、ところどころ日本語までカタコトになる――もますます絶好調だ。
 発言を横取りされた防衛大臣には、今日のクスノキ節がいちだんと鼻についた。
 五十の坂を少し越えたばかりのカシワ防衛相だが、頭頂部はだいぶ薄くなっている。

、まゆ毛のほうは黒々としていて太い。
 くやしさをやっと隠し、余裕の笑みを浮かべようとするも、ゲジゲジまゆのすぐ下の目は笑えていない。昔のオリジナル版『サンダーバード』に出てきそうな顔だ。
 庁から昇格して10年あまりの防衛省は、省としては新参の部類だ。カシワ防衛大臣は13番めの席で、時が過ぎるのをひたすら待っていた。
「われわれは柳大臣にタマワタ貴重なopinionをもとに、従来のguidelineの、『わが国有事の際』という定義から見なおしました。もちろん有事とは、戦争やテロによって国が非常事態におちいることにほかなりません。つまり」――
 ここで外務大臣は防衛大臣にアイコンタクトを送った。さっき出し抜いてしまったおわびに、“しめ”は防衛大臣にゆずろうというはらづもりだった。  
 殺意さえおぼえはじめていた防衛大臣は、しばしポカンとしていた。が、すぐに戦友のはからいを察し、目頭が熱くなるのを感じた。ふたたび目くばせを交わしたふたりのあいだには、秘密を共有した者同士の絆が復活していた。
 右派で知られるカシワ防衛相は、立ち上がって胸の前でこぶしを握り、外相のあとをひきついだ。もちろんクスノキに対する殺意は消えていた。
「……つまり、いまクスノキ大臣が言われた有事の定義に、先ほど柳大臣からお話があったテロの解釈をあてはめますと、他国の競合によりがわが国の主産物およびその関連産業が打撃をこうむるようなことがあれば、それはもう、立派な有事なのです。新しいガイドラインには、このあたりの解釈の大幅な修正案をもりこむ所存であります!」  
「おおっ!」と歓声が上がった。
「そういえばあのときも、柳大臣の先見の明により、わが国の経済が救われましたね」
  J国の基幹資材は、かつて原料のまま輸出され、労働賃金の安い近隣諸国でさまざまな製品に加工されていた。輸出を拡大するにあたって、柳大臣は資材の未加工原料での出荷を制限し、加工品のかたちでの出荷に力を入れた。その結果、国内の加工業も育ったという経緯がある。
「あれはちょうど“機をみるに敏”という感じでしたな」
 腕組みをしたマツ大臣は、何度もうなずきながら、感慨深そうにひとりごちた。 

 * * * * * * * * * * * * * *

 カシワ大臣の熱弁の余韻から、室内の温度は上がっていた。  
「えー、では、」とざわめきを制しながら、ツバキ官房長官が左横の和装の貴人に声をかけた。「最後に御前(ごぜん)、お願いします」          
「うむ。じつはちかぢか、柳税のうち、祝い箸つまようじ類の税率を引き下げるつもりじゃ」
「なるほど逆に税率を……あ、いや、すみません!」
 衆議院の最年少当選記録を持つエノキ消費者及び食品安全担当大臣だ。50歳ともともと若いのだが、童顔のためそれ以上に若く見える。文脈にかかわらず“逆に”を連発するくせがあり、聞いていて耳ざわりだ。
 かつて柳大臣に「なんでもかんでもひとつ言葉ですまそうとするな、このうつけもの!」とこっぴどくしかられてから、彼も気をつけてはいる。それでもいまだにときどき“逆に”が出てしまうのが、自分でもはがゆかった。
 なにごともなかったかのように、老公は続けた。
「それからカエデ大臣、小・中学校の体育の授業で、卓球を必修にしてはどうかしらん。柳のラケットならカットプレーもさえよう。そんでもって高校からはセパタクローじゃ。もちろん球は国産の柳製を正式に採用してな。現在、あの球をつくる準備にとりかかっておる。そのうち国内利用ばかりでなく、本場への逆輸出も視野にいれて、産業を育てるつもりじゃ」
 民間から登用のショートカットの熟年女性が、
「さようでございますね」とつとめて落ち着いたトーンで答えた。カエデ文科相の紅潮したほおを、秘めた慕情のあかしといぶかる向きもあった。
「家庭科で使うまな板が生徒一人ひとりにゆきわたるようになったのは、カエデ君の尽力のおかげじゃ。これからもその手腕を存分にふるってクデ……くれ」
「……身にあまる……お言葉です」

 サラサラサラサラ――。

 老君は続いて厚生労働大臣に視線を投げ、 
「柳の葉っぱに含まれるビタミンCは、食品や栄養の分野以外でも、さらなる活用がみこまれる。樹皮からとれるサリチル酸も、解熱鎮痛薬の成分として製薬業界で、えー……ヨキニハカラエ!」
 ロマンスグレーの厚労大臣の顔には“崇拝”の二文字が書いてあった。
「それから今世紀最大の発明ともいえるWOAP(ウォアップ)細胞は、再生医療のみならず、美容業界ともアレしてカクカクシカジカで、あるからにして……えー、ツータツを待て!」
「…………。は、はあ」厚労大臣がライオンヘアーをかいた。
 柳由来多能性獲得(W O A P)細胞は、動物細胞に柳の遺伝子を組み込んだ、夢の万能細胞だ。
 動物の細胞は、いったん成長してそれぞれ異なった役割をもつようになると、もう別の種類の細胞には変化できない。
 ところが植物の挿し木では、切った枝を土にさしておくと、切り口から根が生えてくる。枝の細胞が、どんな細胞にでもなれる「幹細胞」に初期化され、それが根を作る細胞になるからだ。
 植物のように、成長した細胞を元の状態にリセットできれば、人のからだのある細胞から、からだのどんな部分でも作ることができるようになるはずだ――。この考えにもとづく、柳大臣

の研究成果がWOAP細胞である。
 大臣直属の研究機関の、“作製に成功したとかしないとか”いう発表が世界中を驚愕させたことは、記憶に新しい。
 老公はいつもの決めぜりふの前にひと息いれた。そして、
「柳を制するものは世界を制すのじゃ!」
 ――拍手喝采。   

 この大人(たいじん)がJ国の表舞台に現れたのはいつのことだったか。今となってはだれも覚えていない。とても大昔のことのように思える。しかしそのときからすでに仙人風情のたたずまいだった気もする。
 閉塞の時代に、彼の提唱するさまざまな斬新な理論は、民衆の心をとらえた。まるでその登場を待っていたかのように人々は熱狂し、やがて信仰にも似たうずが国全体をのみこんでいった。
 気がつくと政治の中枢にいた彼は、ある日突然柳の木の重要性をとなえ、全国の柳の木を保護・育成し、柳材製品を管理する目的で「柳省」を設立した。その理由など、信者たちにはどうでもよかった。
 こうして初代の柳省の大臣、柳大臣は誕生した。有史以来、唯一無二の柳大臣。任期や選挙といった世俗の及ばない領域。そもそも彼が国会議員であるかどうかさえさだかではない。では何者かというと、柳大臣なのだ。彼の呼び名は「柳大臣」以外にありえず、彼のもともとの名が何であったかなどという疑問にすら、誰も思いいたらない。
 おとなたちは柳大臣を畏れ敬う。ものごころのついた子どもたちに「将来なにになりたい?」と聞くと決まって「柳大臣!」と答える。この場合も、「柳省の大臣になりたい」という意味ではなく、「あの“ヤギひげの偉い人”になりたい」と思っているのだ。ちょうど、もっと幼い子どもたちが、自身を特撮ヒーローに投影するのと似ているかもしれない。
 この国で絶対の存在。それが柳大臣だった。 

「柳を制するものは世界を制すのじゃ!」
 ――拍手喝采。
 御大への称賛合戦がしずまるのを待って、スギ総理がソフトな口調で話しはじめた。
「いやあ、今日の閣議もたいへん有意義なものでしたね。それもひとえに――」
 その瞬間、閣議室の空気が“ブーーン”とかすかに振動した。首相はあたかも電気にうたれたかのごとく小さく身ぶるいをした。同朋たちが続きを聞こうと見守るなか、口は開いたまま、目はうつろ。自分がなにを言おうとしていたかがわからなくなって、愕然としているというふうだった。  
 その状態はたっぷり15秒続いた。首相はさらに10秒ほど、陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクとさせると、今度はぜいぜい喘ぎだした。呼吸することすら忘れていたらしい。
 円卓をぐるりと見回した総理は、右横の最上座に悠然と構える翁をぼんやりとながめた。そしてやおら声をあげた。
「あなた、どなたですか?」
 声色は穏やかだが、目には強烈な不信感を宿している。つきものでも落ちたかの様子だ。
 予想外の質問に、長老の顔はかすかにこわばった。
「おいおいスギ総理、なにを言っておるのじゃ。わしが柳大臣以外のなにに見えるのじゃ? たしかにわし自身、最近は鏡を見るたびに妖怪がいるのかとたまげてしまうくらいじゃがのお」
 冗談めかしながら、笑顔と威厳をかろうじて保って答えた。
「ヤナギダイジン? なんですか、それ? あんた一体なんなの!」
 さすがのスギ首相も今度は声を荒らげた。
 長老は思わず腰を浮かせあとずさりをすると、きょろきょろと味方を探した。長く白い眉毛におおわれた両の瞳にも、明らかなおびえの色がみてとれる。
 やがて老人は、クラス全員の前で不名誉な行為をとがめられている少年のような声をしぼり出した。
「な、なにって、文字どおり柳省の大臣じゃないですかぁ。この国の政治の最優先課題である柳の管理、および柳関連産業の保護育成をつかさどる柳省の……」

 ふたたび、“ブーーーーン!”

 今回の振動はさきほどのものよりも強く長く、はっきりと部屋全体がふるえた。長老と首相を除いた全員がビクッビクッとけいれんした。
 彼らはおもむろに柳大臣のほうを見た。
 呆然と老人をながめる集団は、ちょうど、突然目を覚ました夢遊病者たちといった感じだった。

 * * * * * * * * * * * * * *

 サラサラサラサラサラ――。
 絶対だと信じられていたものが、砂の城さながらにくずれていく。 
 長い熱病があけようとしていた。   

 全員がいすからはじけ飛んだ。 
「柳省ってなんだ? どこの国にそんなふざけた役所があるんだ!」
「じゃあ、柳ってのはあんたの名字じゃなかったのか?!」
「How dare youね!」 
「いわば、“じじいのたわごと百九(ひゃくく)まで”、とでもいったとこですなっ」 
「“WOAP細胞の作製に成功したとかしないとか”って、どういう発表だよ!」
「くらさるっつぉ、キサン!」
「逆に……逆になんで甚平着てんだ、おまい!」

 ガチャン!
 内開きの二枚扉が勢いよく開いた。首相の非常ボタンで警備員がかけつけたのだ。
 紺色の制服に包まれたふたつのぶ厚い逆三角形の体が、老体をはさみうちにする。
「な、なんじゃ。わしをだれだと思っておる。こら、近よるでない!」
 おじいさんは枯れ枝のごとき両腕を振り回す。
「よせ、さわるな……やめっ、やめてくださいーっ」
 ふたりの警備員は、180度逆を向いたままのおじいさんを両側からひょいとかかえ上げると、首相に目礼し無言で正面扉に向かった。
 首相はちらと左手首の銀の文字盤に目を落とす。午前10時45分になろうとしていた。
 屈強な大男たちと、か弱いおじいちゃんの寸劇はもはやこっけいを通り越していた。
「やめりぃ~」
 両足をバタつかせるおじいの姿は、おもちゃ屋の店先のだだっ子より哀れだった。
 警備員たちはそのまま一度もうしろを振り向くことなく、開いたままの両開き扉のところまで来た。ふたりはそこで一瞬立ち止まり、それぞれ外側の自由なほうの手で左と右の扉のノブをつかみ、うしろ手に軽く引きながらまた歩きだした。 
 スローモーションで閉まってゆく扉の向こうで、こちらを向いたまま荷物同然に運ばれていく甚平すがたの鶏ガラが、だんだん小さくなっていく。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み