『冒涜的愛の神聖』

文字数 1,895文字

 昔々、ガラリヤの町に大工の家系に生まれ落ちたひとりの男があった。男は富めるものから貧しきものまで、方々の家々を訪ね歩き、人々の望み通りの家具を作りながらその話し相手をして暮らしを立てていた。したがって、古今東西の知恵を蓄えるこの大工という仕事は、ガラリヤの町で大変尊敬される、非常に尊く立派な職業であった。また、男には若い婚約者がいた。婚約者は浅黒い肌に艶やかな黒髪の若い娘であった。彼女は才気溌剌として気立てがよく、そして律法を正しく守る、信心深い女であった。なにより、男は婚約者を愛していた。
 ある時、彼は手ずから彼女の身につける細い首輪と冠を作った。白い花と蔓の彫り込まれた美しい細工は誂えたように女のほっそりした首と滝のように流れ落ちる黒髪の上に乗り、崇拝のまなざしを送る男に、女は困ったように笑った。
「こんなものをくだすってはいけないわ」
「なぜだい、俺がおまえを想って作ったのだよ」
「だからです。私にはもったいないことですわ」
 男はこの言葉を聞いて、殊のほか喜んだ。いじらしい未来の花嫁を迎える日を彼は一日千秋の思いで待ち望んでいた。

 ある日の事だった。遠くの町へ買い出しに出かけた男が村に帰ってみると、婚約者は姿を消していた。村のはずれの果樹園には、摘みかけの葡萄がたっぷりと盛られた籠がうち捨てられていたという。驚きに打ち据えられた男は、泣き腫らした目をしかと見開き、牧人の杖を手に夜通し女を探した。放牧地、物置、そして廃屋。男の悲しむ声がガラリヤの空にこだました。女の家族はみな揃って嘆きながら彼に言った。
「もうおやめください。娘はきっと、人攫いに遭って地獄に落ちることになるのです。おやめください、もはや彼女は我らの娘ではありません」

 女が町から少し離れた岩屋の陰で見つかったのは、月が二度地平に落ちたのちの暮れ方のことであった。女は股を血に濡らして倒れているところを見つかった。無体を働かれたことは一目瞭然であった。

「石を投げろ」
 男と共に居た友が言った。友は女の兄であった。
「姦淫の罪だ。この女は律法で裁かれなくてはならない」
 男は戸惑って、横たわる女を見つめた。
​─────此れは誰だ。
糸の切れた人形のように目を瞑り、無惨にも汚された彼女の軀は狂おしいまでに匂い立つようで、悩ましげに映った。
 男は女の清らかさを愛していた。故に、女の忌まわしい肉を女と思うことは彼の信仰において非常な冒涜であった。
「できない」
男は囁いた。
「これは罪を犯していない」
 友は男の言葉がにわかに信じ難いとばかりの顔をした。至極当然のことであった。
「馬鹿も休み休み言え。友よ、正気に返るのだ。これはおまえの権利だ。おまえの名誉のための律法なのだ」
友は呻いた。男はなおも言い募った。
「これは罪を犯してはいない。わかったなら行け。行って妹の無事を知らせるのだ。ここで起きたことを誰にも言ってはならない」
 友はもう何とも言わなかった。


 女は三日三晩、生死の淵を彷徨った。明け方の白い光にぱっちりと目を開けた女は、枕元で寝ずの番をしていた夫に微笑みかけた。男は女の寝ている間に二人は結婚したことにしてしまっていた。
「あたし、長い夢を見ていた気がしてよ」
「おお神様!おまえ、身体の具合はどうだい?」
「変ね、妙に身体が重いのよ。あれ、脚に力が入らない。お腹がじくじく痛むけど、あなた、あたし病気なんじゃないかしら」
身を起こそうとしてへたりこんだ女は、床の上で眉を八の字に寄せた。ほっそりとした首に咲く白い花が、滑らかな蔦が、朝日に淡くかがやいた。
「なにも覚えてないのかい?」夫は尋ねた。
「なんのこと?あたし、葡萄を摘んでる途中だったのよ。すぐに仕事に戻らなくっちゃ、すべて熟して落ちてしまうわ」
なんという皮肉だろう。なんという恵みだろう。

 律法に女を守る法はなかった。
なぜ彼女が裁かれねばならぬ。こんな無垢な乙女が、如何して肉欲の罪を負うことが出来ようか。男は生まれて初めて、この世界と律法を作りたもうた神を恨んだ。
女が罪を犯したはずはなかった。女の魂が地獄に落ちるはずはなかった。姦通したのはその罪深い肉体と、名も知らぬ悪党を唆した悪魔のためであろうに。涙に濡れた頬の上で、男の目は異様な輝きを放った。
「ああ、良いんだよ」
夫となった男は喜んで罪深き言葉を唇に乗せる。

「お前はそこに寝ておいで。おまえは天使の祝福を受けたのだ。主がおまえを救い主の母にお選びになったのだよ」

 女は齢十六だった。名はマリア。夫のヨセフは彼女を愛していた。
────冒涜的なほどに。


『冒涜的愛の神聖』初出2020/11/15
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