14 開店前

文字数 2,860文字

 調律を終えた蔵人は、ライザの勧めもあってバスルームでシャワーを浴びることになった。
 ホコリまみれのピアノを掃除したことや、集中力のいる作業を長時間行ない、汗をかいていたのでありがたい申し出だった。

「でも、【浄化】でいいんじゃない?」
「そりゃそうだけど、シャワーを浴びたほうがすっきりするだろ? 面倒だって言うなら【浄化】で済ませてもいいけど」
「いや、せっかくだしシャワーを借りるよ」

 魔術に馴染みのない蔵人にとって、物理的に汗や汚れを洗い落とすという行為はありがたいものだった。

「着替えは悪いけど【浄化】で済ませてもらうよ。男物の服なんてウチにはないから、洗うわけにも行かないし……」
「だと思って、用意しといたわよ」

 いつの間にかふたりの近くにいたフィルが、トートバッグをライザに渡した。

「さっすがフィル! 気が利くねぇ!!」
「うふふ、クロードちゃんの荷物、着替えなんかが入ってるようには見えなかったから」
「あの、ありがとう」

 突然の好意に少し戸惑いながら、蔵人はライザを経由してバッグを受け取った。
 中には下着が数セットと、シンプルなデザインのブラウスやスラックスなどが入っていた。

「下着は新品だけど、それ以外はお古なの。ごめんね。一応ワタシとダーリンのでいくつか見繕ってきたから、着られそうなものを着てね」
「あ、うん……でも……」

 持ち合わせがない、ということを言おうとした矢先、フィルは蔵人に笑顔を向けた。
 中身はともかく、見た目は男性アイドルも真っ青の美青年であるフィルの笑顔である。
 その破壊力はすさまじく、蔵人は言葉を詰まらせた。

「うふふ、素敵な演奏のお礼、受け取ってくれると嬉しいな」

 そう言って笑顔で軽く首を傾げたフィルの姿に、蔵人の目は一瞬くらみかけたが、すぐライザがあいだに割って入った。

「ちょっと! あたしのクロードに色目使わないでくれる!?」

 その言葉に残るふたりは大きく目を見開き、蔵人は目を泳がせながら誰もいないほうへと顔を背け、フィルはニンマリと笑みを浮かべてのぞき込むような視線をライザに向けた。

あたしの(・・・・)クロード、ねぇ……」
「う……あ……いや、それは、その……!」

 フィルに言われて自分が何を口走ったのかを理解したライザは、褐色の肌を真っ赤に染め上げ、額に汗を浮かべてうろたえはじめた。

「あ、や……なんというか、その、これは、言葉のアヤというか……」

 そう言って蔵人に向いた瞳はわずかに潤み、せわしなく動いている。

「ご、ごめん、変なこと、言っちゃって……」
「お、おう。大丈夫……大丈夫、だ……」

 ライザの焦りが伝染ったのか、蔵人も無駄にうろたえ始め、そんなふたりの様子を楽しげに見ていたフィルはやがて呆れ顔になった。

「はぁ……ったくぅ。ひと晩一緒に過ごした男女が、なにを思春期の少年少女みたいになってんのよ。ライザ、心配しなくてもワタシがアナタの男に手を出すわけないでしょ?」

 肩をすくめ、ため息をついてそう呟いたあと、フィルはパンパンと手を叩いて、なにか言いそうになっていたライザの言葉を封じた。

「さぁさぁ、クロードちゃんはさっさとシャワー浴びてきて。ライザはお店の準備! もたもたしてたらあっという間にオープンよ? 今日は忙しくなるんだから、気合い入れいきましょう、気合い!」

 有無を言わせぬ強い口調でフィルに追い立てられたふたりは、その場をあとにした。
 そしてフィルの言ったとおり、その日はオープンと同時に客が殺到し、店内はすぐに満席となるのだった。

**********

 蔵人はこの日もピアノの前に座った。
 彼はいま、スリムなシャツにダボっとしたズボンという格好で、ピアノを弾いていた。

 元々体格のよかった蔵人は、意外と力仕事の多いピアノ工房で働くようになってさらにがっちりとした体型になっていた。
 なので、男性アイドルやビジュアル系ミュージシャンのような、スラリとした長身の美青年であるフィルの服は合わないと思っていた。
 しかしどうやら彼のほうでちゃんと蔵人の体格を認識していたらしく、フィルが着るには少しゆったりとしたブラウスが用意されていた。
 しかしズボンのほうは細すぎて、ひと目見て着られないと判断し、ダーリンとやらのものを使わせてもらうことにした。

「フィルのダーリン、どんだけでかいんだよ……」

 一応ダーリンのシャツもバッグには入っていたが、それはあまりに大きすぎて演奏の邪魔になりそうだったので、少しキツかったがフィルのブラウスを着ることにしたのだった。
 衣服から想像するに、ダーリンとやらはガチムチのゴリマッチョであるらしい。
 なのでズボンもかなり大きかったが、ベルトを締めれば問題なく穿けたうえに、奇跡的に丈が合った。

「ふぅん……悪くないね」

 結果スリムシャツにワイドパンツというコーディネートになってしまい、四十半ばの自分には少し似合わないのではと思ったが、ライザの評価は悪くなかった。

「ごはん、いまのうちに済ませちゃいなさいよ」

 ホールに戻ると、テーブルにはふたり分の料理が用意されていた。

「あー、えっと……実は俺、持ち合わせが……」

 泊めてもらったうえに何度も食事を用意されたことに、蔵人は少なからず罪悪感を覚えており、無一文――日本円は持っているが使えないだろうと判断した――であることを伝えた。

「なーに言ってんのさ。調律なんて工房に頼みゃ10万は取られるし、安い調律師でもロードストーンってだけで5万くらいはふっかけられるんだよ? それだけありゃ10日やそこらはウチで目一杯飲み食い出来るんだから、遠慮しなくていいよ。ってかあとでお金もちゃんと払うからさ、いまはとりあえず食べて食べて」

 と、特に気にするでもなくライザは蔵人にそう告げた。
 たしかに、仕事に対する報酬というのであれば遠慮する必要はない。

(でも、大の大人が無一文ってことに、疑問はないのか?)

 そう思った蔵人だったが、あえて口にはしなかった。

「で、今日も悪いんだけどさ、お願いできるかな……?」

 食事を終えてひと息ついている際に、チラリとピアノを見たあと、窓の外に目を向けたライザは、続けて蔵人を上目遣いに見上げて申し訳なさそうに尋ねた。
 ふとライザの視線につられて窓の外を見てみると、暗くなりかけた店の外には、ちょっとした行列が出来ているようだった。

「フィルに聞いたんだけど、昨日の演奏が噂になってたみたいでね。だから今日は忙しくなるって……」

 ライザに向き直った蔵人は、口元に笑みを浮かべて頷いた。

「ああ、俺の演奏でよければいくらでも」

 そして再び窓の外を見た蔵人は、自分の演奏を待ってくれる人がいることに対し、気分が高揚していくのを久々に感じるのだった。
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