第2話 ミルワーム

文字数 1,785文字

ミルワーム

 「どっちが、ミルワームなんだか?」
 妻の何気ないつぶやきとボヤキが突き刺さる。

 妻は、出勤前でオープンキッチンで洗い物をしながら、忙しげに眉を顰めながら手を動かしている。その速度がいつもより早いように感じる。

 妻は、朝食の後片付けを終えるとそそくさとビジネススーツで身支度を整えて、バタンっとドアを閉めて黙って出て行った。

 (……..)寒い。世間一般では、家庭は温かいものらしいが、私が身を置くこの空間はやたら空気感がヒンヤリしている。

 新築の分譲マンションを妻が買い、セキュリティーもセントラルヒーティングもバッチリなのに、何故か寒くて不安定なこの空間。

 私はというと、配送作業をする上下紺の制服に身を包み、室内だというのにこれまた黒の帽子を被りながら、テーブルにかしこまってフリーズしていた。

 私は、テーブルに投げ出された一枚のトーストをボンヤリ眺めていた。もう冷えて、マーガリンが偏って塗られ、無機質な物体になっている。

 (…….せめてコーヒーでもあればなぁ)、私はコーヒーが欲しいのではない。インスタントならば、自分でも手軽に入れられる。しかし、コーヒー瓶に幸子とレッテルを貼られると手を伸ばすのが憚れる。

 (餌だ。これは人間のそれではない。ペットか動物に与えるエサだ)

 私は、それには手を付けず親友、否息子に会いに行くことにした。いや、これは私の出勤前のルーティンなのだ。

 私は、簡単な作りの水槽から緑亀の太郎を取り出した。今朝は、水が一掃冷たい。
 「さあ、わが息子よ。朝メシだぞー」
 私のテンションが上がる瞬間だ。

 私は、ザワザワと騒めく小さな茶箱を開けるとピンセットでミルワームを摘み、一つまたひとつと太郎の口に入れた。やはり、生き餌は喰いつきがいい。

 太郎はすでに20センチ近くになる。私が亀戸水神に参った後、友人からまだ子亀だった太郎を貰いうけたものだ。
 (俺にも本当の息子が居たらなあ、幸子もあんな風にヒステリックにはならなかっただろうに)
 
 私は太郎にミルワームをやりながら、世間の父親が生まれたばかりの息子に哺乳瓶の乳をやっている姿を夢想していた。

 一見、私が太郎を救ったように思えるが、今では太郎が私の唯一の心の救いになっている。
(オマエも30センチ越えになったら、お嫁さんを世話してやらないとな。それは俺の努めだ)。

 しかし、亀を放すとなると国内の河川では生態系が乱れるので禁止されている。(さては、中南米の河川まで行かないと駄目かな?)。
私は、高層マンションの一室で一人苦笑した。

 朝9時のメトロは地獄のラッシュである。そこには、人格も名前も存在しない。ただ、人間が荷物になって運ばれるだけである。

 私は、吊り革につかまって揺られているうちに前に立っている女性とぴったりと身体が密着して、その若々しい色香を嗅いでいるうちに不覚にも睡魔に落ち入った。

 立ちながら眠るなんて、まるで中世の剣豪か禅僧である。それがメトロの中なんて。

 気がつくと、私の全身は茶色に変形していた。所々が節くれだち、地面に這いつくばって全く二足歩行ができない。否、脚がないのだ。

 周囲を見渡すと、皆も同様の格好をしている。(腹が減ったなぁ)、皆も空腹でザワザワとざわめいて蠢いている。

 その蠢く山の真ん中にどさりと白い塊が投げ出された。私は、夢中でそれにかぶりついた。
(カーッ、ペッ!発泡スチロールだ。こんなもの食えないや)

 しかし、周囲の同胞達はそれをムシャムシャと美味しく食べているように見える。
 (そ、それは石油で出来た発泡スチロールで、食べられませんよ)
 (ふんっ、俺たちみたいな底辺はなあ、こんなもんでも消化できるし、そうでもしないと生き延びられないんだよ)

 電車がガタンと揺れて、私は我に帰った。
(ふうっ、夢だったのか、良かったまだ人間だ)
 (次は〜、大手町〜)
 目的地に着いたので、私はメトロを降りた。
職場は、一等地にあれど私は、派遣なのだ。
なんと、矛盾した人生。

 職場に着くと、広い倉庫の中に荷物が山と積み上げられており、その周囲を私と同じく紺の上下を着た輩達がハアハアとそれを見つめている。

 「いいですかー皆さん。動きのわるい人は二ヶ月を待たずに去ってもらいますよ」、
高台にある監督官の合図で、皆わっとその荷物に群がった。
 
 
 

 

 

 

 
 
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