最終話

文字数 4,876文字

 例えば特殊部隊の隊員は、作戦の度に愛する者へとそれを書き残すのだという。
 と、彼女は言う。
 言った。言ってしまった。でもお前全然特殊でも部隊でもなくない? と、そのひとことですべてが終わってしまう、そんな最悪の一手を彼女は打った。
 終わった。すべてが、とまでは言わないものの、でもその瞬間僕の愛した名探偵は死んだ。あとには柔らかな優しさの記憶と、その証たる一枚の便箋だけが残った。
 ラブレター。
 生まれて初めて貰った愛する者への手紙。その内容がまさかよりにもよって、
『こんや、12じ、だれかがしぬ』
 というのは、いくらなんでもあんまりというか、いや死んでんのお前では? って思った。

 もちろん、本当に死んだわけじゃない。それでも彼女が死んだとすれば、それは僕が高校に上がる直前の三月のこと。
 被害者は、戸山野(とやまの)乃羽香(のうか)、二十一歳。
 自称、『名探偵となりのおねーちゃん』。その手がけてきた難事件の数々については、でも長くなるので割愛する。ただひとつ保証できることとして、彼女は紛れもなく難事件だった。世に名探偵の類は数おれど、でも彼女ほどの難事件はそういない。いくつもの思い出がその証拠だ。
 幼い僕の世界は〝(ミステリー)〟に満ちていて、何かにつけては繰り出される「なぜ・なに・どうして」の、そのことごとくをお姉ちゃんは解決してくれた。力技で。具体的には柔らかな優しさと大らかな慈愛の、その表れとでも言わんばかりの胸の物量で押し潰した。むにゅっと。あるいは、ばゆんっ、と。
 とってもいい匂いがしたけど、でも思う。というか、常々思っていた。
「どうかと思う。何も知らない子供が相手だからって、自分の〝女〟をフルに使って物事をうやむやにするの」
 他に武器がないのは知ってるけど。でも、もう高校生でしょ? 苦労するよ? いつまでもそんなだと——そんな最大の〝(ミステリー)〟をぶつけたのが確か五年くらい前、小学校の中頃くらいのこと。答えはなかった。名探偵となりのおねーちゃん、その唯一の迷宮入り案件だ。ただ真っ赤な顔で大粒の涙をぽろんぽろん零して、やっとのことで絞り出したのが、
「ごめん……」
 という、ただそのひとことだけだった。

 今にして思う。
 なんていうか、こっちこそすんませんでした本当に——と。

 あの頃の僕はまったくどうかしていたというか、いわゆる反抗期だったのだと思う。
 実を言えば内心「クソッこの胸だけの女が」くらいに思っていて、でも毎回その胸によって簡単に丸め込まれてしまう、そんな自分の弱さに何度泣いたことか。まあ、複雑なのだ。こういう自我の芽生えの時期は。
 悔しさに寝付けない幾千の夜、それを超えて僕は大人になった。
 といっても、まだ十五歳でしかないけれど。でも少なくともすでに『お子様』ではなくて、だからなんでもかんでも、
「うーん、どうしてかなー? おねーちゃんと一緒に考えよー!」
 からの抱っこアンドよしよしでコロリと黙らされてしまう、もうそんな歳じゃないイコール大人ってことだ。つまり男だ、一人前の。爪も牙もある一匹のオスの獣なのだ。
 だから、もう負けない。絶対に。
 あんなただ白くて柔らかいだけの甘いマシュマロに、男の子は負けたりしないんだから——!

 と、だいたいそんな感じの決意表明に、でも当のマシュマロパーソンの返答はなかった。
 ただ真っ青な顔でおろおろうろたえ出して、それでもどうにか絞り出した言葉が、
「まって。あの、ここでその、ちょっと待ってて! 取ってくるから! もう書いてあるから!」
 と、こうだ。庭先での立ち話、そのまま大慌てで自分ちの玄関へと駆けていった彼女は、きっと何かを勘違いしたのだと思う。
 三月は別れの季節。この春から彼女の知らない高校へと通い始める僕が、そのままどこか遠くへ行ってしまうんじゃないか、って。
「いや大丈夫ですけど? 確かに電車通学にはなるけど、普通に家から通うんですけど?」
 という、そんな僕の狼狽はどうでもよくて、問題は乃羽香お姉ちゃんの持ってきたそれだ。
「絶対にひとりで——あっそうだ、行きの電車の中とかであの、読んで……ください……」
 可愛らしい薄桃色の封筒。そしてハートの形のシール封。差し出す両手が緊張に震えているのが見えて、そして長い黒髪からちらと覗いた丸っこい耳の、その真っ赤というにも真っ赤すぎるなんかものすごい色。
 ラブレターすぎる。
 ラブレターすぎて、もう読むまでもない。このままふたりは幸せなキスをしてハッピーエンド、みたいな、そんな展開もやぶさかでもないのだけれどでも先走りはいけない。物事には順序というものがあって、だから僕は彼女の意思を尊重することに決めた。
 具体的には、
「ありがとう。大事に読むから」
 とひとこと、そのまま夕日に向かってダッシュした。仕方がない。うちから見て駅は西にあって、だって行きの電車で読めって言われた。乃羽香お姉ちゃんの言葉は僕にとって絶対で、それは元々そういう習慣だったから大丈夫だ。負けじゃない。負けてない。男の子は負けたりなんかしない。セーフだ。
 線路沿いの小道、夕焼けの中を電車と競争するみたいに走る。だって田舎の電車は一本逃すと次がなかなか来ない。運動不足の体が悲鳴をあげた。足がもつれて、脇腹がシクシク痛み出して、それでも僕は止まらない。止まれない。止まるものか。走るんだ。お姉ちゃんのために。男として、自分の愛する人のために。
 駆け込み乗車はおやめください、なんて、そんな他人の都合なんて知らない。
 間に合った。どうにか。飛び込むみたいに転がり込んで、背後にドアの閉まる音を聞く。ゆっくりと動き出す電車の、窓からの夕日に赤く染まった車内。がたん、ごとん、という振動よりも、心臓の鼓動の方がうるさいのが不思議だった。
 ここまでずっと全力疾走してきたから、というのもあるけれど。
 ポケットの中、大事な手紙。生まれて初めて受け取った、大事な人からのラブレター。
 これで胸が高鳴らない方がおかしい。震える指で、それでも丁寧に、ハートのシール封を解く。
 はたして、その中に待ち受けていた気持ち。大好きな乃羽香お姉ちゃんの、その想いは文字にすればたったの一行。

『こんや、12じ、だれかがしぬ』

 キャーこわい殺害予告よ! とか、そんなことは全然思わなかった。
 当然だ。だって僕は男で、そしてあの人はただ胸がでかいだけの聖母なのだ。
 人畜無害、虫も殺せない性格——というのは言い過ぎとしても、でも殺せるとしたらせいぜい虫くらいのものだ。つまり自分が虫ケラだと思った人間が相手なら躊躇なく行く。強い。やるときはやる、それが戸山野乃羽香という女で、でもそれはあくまでも抑止力としての話だ。やるときしかやらない。現に今まで誰もやってない。そしてそれはきっと、これからも。そう信じたい。せめて僕だけは。
 ——じゃあ、この手紙は一体なに。
 その謎は、でも一瞬のうちに氷解した。
 簡単な話だ。少なくとも理屈の上では。だって「少なくとも殺人予告ではない」という確信がある以上、あとは必然的に消去法になる。『誰か』が他人でないのだとしたら——つまるところそれは特殊部隊の隊員が、作戦の前に書き残すそれと同じ。
 遺書。
 もっと言えば、すなわち、自死の予告。
「のーかおねーちゃん死んじゃやだー!」
 そんな気持ちが僕を突き動かして、そのときすでに日は暮れていた。
 何時間くらい経っただろう。気がつけば終着駅まで運ばれていた僕は、どうやら完全に気を失っていたらしい。ショックで。まあラブレターの内容があんなんでショックを受けない人間はいない。たぶん診断書とか普通に出ると思う。
 ただ、なによりの問題は、携帯電話を家に忘れてきたことだ。
 折り返しの電車に飛び乗って、目指す先は愛する人のところ。間に合うか。タイムリミットは深夜十二時、届かなければ僕の初恋は悲恋に終わってしまう。
 涙のお別れ。最後の手紙。そんなことは、そんな展開には、絶対にさせない。
 最寄駅、深夜十一時五十五分に到着して、そこから再びの全力疾走。呼吸が苦しい。脈打つ心臓がドクンと悲鳴をあげた、その瞬間やっと僕は気づいた。
 ——今夜、十二時、誰かが死ぬ?
 虫しか殺せない差出人は、でもよく見れば一言も「殺す」とは書いていない。
 死ぬ。誰かが。まさか——いや、でも。
 彼女にはできない。なら、直接手をかける必要のない、誘発されただけの自然死なら——?
「うっ」
 左胸に、鋭い痛み。もつれる足。倒れこむ体。そして急速に、闇へと沈んでいく意識。

 僕は敗北した。
 結局、ダメだった——間に合わなかった。約束の深夜十二時には。

 それは深夜十二時、五分頃のこと。
「いやでも、例えば特殊部隊の人たちとかは、作戦のたびに書くっていいますし」
 乃羽香お姉ちゃん自身による説明、というか弁明、というよりも言い訳。謝罪会見の会場はなんと彼女の自室で、久しぶりのその部屋はいかにも女の子らしい装いと、できればそう言ってあげたかったのだけれどでも無理な相談、
「何があったの、この惨状」
 なんて、そう聞こうとした瞬間にピンときた。
 不可解な手紙の内容と、めちゃくちゃに荒らされた彼女の部屋。あとベッド脇に立てかけられた修学旅行のお土産、京都で買った木刀を見た瞬間に謎は解けた。
 ——カッとなってやった。
 たぶん、それ以上でも以下でもない。
「ほんとにいるんですね。ラブレターの中身入れ間違えた挙句、木刀振り回して暴れまわるバカって」
 物に当たるとか最低だと思います、という僕の冷静なコメントに、なんか「やだーきらいにならないで」となんか顔中ベショベショにして泣き出すお姉ちゃん。子供の頃からの、憧れの人。いつからこんなんだったっけこの人、なんて、こんなんにしてしまった僕の言えたことでもない。
 とりあえず、いま初めて知った一面として、この人は意外と貧乏性らしい。
 余った便箋がもったいないから。だからって無理に使う必要はないのだけれど、でも彼女にしてみればそれは『無理』ではなかった。ヘタレだから。ヘタレにとっての無理なのはむしろラブレターを渡す行為の方で、そんなの心臓がいくつあったって足りない。
 死ぬ。絶対死ぬ。確実な死が待ち受けている以上、それに備えておく必要があった。
 ——もし私が帰らなかったらあとは頼む。
 そんな気持ちで、あるいは自分を奮い立たせるために、恋文と一緒に用意しておいた友人への私信。間違えてそっちを入れてしまったのだ。僕に手渡した封筒の中に。
 つまり、バカだ。紛うことなきバカそのもので、でも彼女は、
「でも自分の物に八つ当たっただけで、誰も犠牲にしなかったんだからむしろ最高では……?」
 と、なんか突然サイコパスっぽい発言をした。こわい。彼女、戸山野乃羽香はやるときはやる女で、たぶん言うほど名探偵ではないのだけれど、でもそんなことは別にどうだっていい。
 関係ないのだ。愛があれば。あと、胸があれば、それで。

 例えば特殊部隊の隊員は、作戦の度に愛する者へとそれを書き残すのだという。

 なら、遺書は恋文だ。書かれた文言に関係なく、その手紙の存在それ自体が。最後に言葉を伝えたいと、そう思える相手がいること自体、とても美しいことだと僕は思う。
 目の前に、初恋の人。
 子供の頃からの憧れ、胸の力ですべてをうやむやにする僕だけのヒーロー。それでもやるときはやる、ぼくのだいすきなのーかおねーちゃん。
 でも、そろそろ終わりにしよう。ただ守ってもらうだけの、そんな一方的な関係は。
 こんや、12じ、だれかがしぬ。
 その予告の通り。名探偵は死んだ。そしてきっと、僕の『となりのおねーちゃん』も。
 目の前の彼女は、戸山野乃羽香。
 ——これで、渡せる。

 まあ、なんのことはない。
 簡単な話だ。少なくとも理屈の上では。

 例えば、大事な手紙の表書き。
 それが「お姉ちゃん」じゃさすがに締まらないし、と、僕は言う。

〈名探偵・戸山野乃羽香のたわわなる殺人 了〉
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